帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百五十五と三百五十六)

2012-10-11 00:27:15 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。言の戯れと「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百五十五と三百五十六)


 三輪の山いかに待ち見む年ふとも 訪ぬる人もあらじと思へば
                                  
(三百五十五)

 (三輪の山、どれほど待ちながら見ることになるでしょうか、年が経っても、訪ねる人も有りはしないと思うので……三和の山ば、どれほど待ちながら見るのでしょうか、疾しを経ても、山ばを訪ねられる女なんて、有りはしないと思うから)。


 言の戯れと言の心
 「三輪の山…山の名。名は戯れる。三和の山ば、三度の和合の山ば」「山…山ば」「いかに…どれほど…どんなに」「見…覯…媾…まぐあい」「とし…年…疾し…早い…速い…一瞬…おとこのさが」「人…人々…女」「も…強調する意を表す」。


 古今和歌集 恋歌五。女の歌。詞書によると、藤原仲平朝臣と知り合っていたが、離れ行く一方になったので、父が大和守をしていたところへ行きますといって、詠んで送った、伊勢の御の歌。

 歌の清げな姿は、離れがちになった男への別れの挨拶。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、見捨てた男へ、女の誹り、おとこの性質批判。

 


 幾世経し磯辺の松ぞ昔より 立ち寄る波や数は知るらむ
                                  
(三百五十六)

 (幾世経った磯辺の松だ、昔より立ち寄る波、歳数は知っているだろうか……いく夜経た、井そべの女よ、武樫に撚りかけて立ち、寄る汝身の数は知っているだろうか)。


 言の戯れと言の心
 「幾世…幾夜」「いそべのまつ…磯辺の松…女」「磯…岩…石…女」「松…待つ…女」「むかしより…ずっと以前より…昔から…武樫撚り…強い堅い強靭」「立ち…接頭語…起ち…起立」「寄る…寄せくる」「波…心波…吾が汝身…おとこ」「汝…親しき者の称」「数…松の年輪…寄せては引いた波の数…汝身が寄せては引いた数」。


 古今和歌集の歌ではない。男の歌。

 歌の清げな姿は、松の長寿を言祝ぐ歌。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、いく夜か経たおとこが、精いっぱいの努力を女に訴えた歌。



 伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。