帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百十三と三百十四)

2012-09-17 00:03:27 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百十三と三百十四)


 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩たれつゝわぶとこたえよ
                                   
(三百十三)

(たまに、我が消息を、問う人があれば、須磨の浦で藻塩たれながら、涙落とし、心細く嘆いていると答えてくれ……たまたま、この消息を、問うひとがあれば、す間の裏で、喪士お垂れ筒、おわびしていると答えてくれ)。


 言の戯れと言の心

 「わくらばに…稀に…たまたま」「人…男…女…事件の相手の女人」「須磨の浦…所の名…名は戯れる、す間の裏、女の後ろ」「す…女」「ま…間…女」「もしほたれ…藻塩たれ…しおたれ…涙を落とし…喪士お垂れ」「も…藻…喪…凶事」「し…士…子…おとこ」「たれ…垂れ…ぶら下がり…力無く」「つゝ…続けて…継続の意を表す…筒…中空…空しい」「わぶ…侘ぶ…気落ちする…心細く感じる…わびる…謝る」。


 古今和歌集 雑歌下。詞書によると、田村(文徳天皇)の御時に、事件に当面して、津国の須磨という所に籠っていた時に、宮の内に居る人に遣った歌。男の歌。

歌の清げな姿は、洛外にて謹慎を命じられたらしい男の消息。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、おとこの身が、うなだれ、わびているというところ。

 
 男は、天下の色男在原業平の兄。通じてはならない女人と情けを交わしたための謹慎らしい。


 わがいほは三輪の山もと恋しくば とぶらひ来ませ杉たてるかど
                                   
(三百十四)

(わたしの庵は、三輪の山の麓、恋しければ訪ねていらっしゃい、杉の立っている門よ……わたしの井ほは、三和の山ばの下、恋しければ弔いに来てね、さた過ぎ、とうが立った門になったことよ)。


 言の戯れと言の心

 「いほ…庵…家…女…井ほ」「井…女」「ほ…秀…優秀」「三輪…山の名…名は戯れる。三和、見和、三重なる和合」「山もと…山の麓…山ばのふもと…山ばの下…逝き果てたところ」「とぶらひ…訪ねること…訪問…弔い…弔問…死をいたむ」「すぎ…杉…過ぎ…年齢が過ぎる…その時期が終わる…盛りではなくなる」「たてる…立てる…経てる…時が経過する…女さかり過ぎてから年が経つ」「かど…門…女…体言止めは詠嘆の心情を表す」。


 古今和歌集 雑歌下。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。

歌の清げな姿は、引越の案内状。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、昔、君も通った門が亡くなったわ、恋しければ弔門にいらっしゃいというところ。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。