帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百八十九と二百九十)

2012-09-03 00:20:37 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百八十九と二百九十)


 今はとてかれなむ人もいかゞせむ あかず散りぬる花とこそみめ
                                 
(二百八十九)

 (これまでだといって、離別する人をだな、どうしたものだろう、飽かぬ間に散る花とだ、思うといいだろう……今はこれまでといって、涸れるおとこをだ、どうしたものだろう、飽きない間に散ってしまう、お花とだ、見るといいだろう)。


 言の戯れと言の心

 「いまは…今は…今はの際…最後」「かれなむ…離れなむ…別れてしまう…身を離してしまう…涸れなむ…(白つゆ)涸れてしてしまう」「も…強調する意を表す」「いかがせむ…どうしょう…どうしたらいいのだろう」「む…推量や意志を表す」「あかず…明かず…夜が明けず…その期が来ず…飽かず…飽き満ち足りず」「花…木の花…男花…梅や桜などの花…おとこ花」「みめ…見む…見るのが適当であろう…思うと良い…見るとよい」「見る…思う…まぐあう」「め…む…当然、適当であるという判断を表す…そうするように促す意を表す」。


 古今和歌集 恋歌五。題しらず、法師の歌。初句「思ふとも」第二句「かれなむ人を」。


 歌の清げな姿は、別れ去った男はだ、見飽きないのに散った花とでも思うがいい。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、はかないおとこのさがを、どうしたものだろう、飽きない間に散ってしまうお花とでも見るといい、というところ。

 


 光なき谷には春もよそなれば 咲きてとく散るもの思ひもなし
                                 
(二百九十)

 (光の当たらない谷には、季節の春もよそ事なので、咲いてすぐに花散る、はかない思いも無い……おとこの光なき谷間には、張るものも春情も他所ごとだから、咲いて早くもお花散る辛い女の思も無い)。


 言の戯れと言の心

 「光…日光…為政者の光…おとこの照り輝き」「谷…女」「春…季節の春…春情…ものの張る」「咲きて…春の花咲いて…おとこ花咲いて」「とく…疾く…早過ぎ…おとこの疾患的性質」「もの思ひ…男の辛い悩み…女の辛い悩み」。


 古今和歌集 雑歌下。男の歌。詞書によると「時めいていた人が、急に時めかなくなって嘆くのを見て、自らは嘆きも無く喜びも無いことを思って詠んだ」。


 歌の清げな姿は、昇進など時めいたことのない者は、急に光が当たらなくなる嘆きも無い。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、春の張るものを知らない谷間は、はかないおとこのさがに思い悩むことも無い。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。