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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (385)もろともになきて(386)秋霧の共にたちわかれ

2018-01-08 19:55:49 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

藤原後蔭が、唐物使に、長月の晦日方にまかりけるに、

殿上の男ども、酒賜びけるついでによめる 藤原兼茂

もろともになきてとゞめよきりぎりす 秋の別れはおしくやはあらぬ

(藤原後蔭が、大宰府へ舶来品受取の使者に、秋の果て方に出かけるので、殿上の男ども、酒を頂きながら、詠んだ・歌)(藤原のかねもち・光孝天皇の蔵人・後蔭の同僚)

(我々と・諸共に鳴いて、出立する男を・留めよ、キリギリス、果てゆく秋との別れは、惜しくはないのか、惜しんでやればいいのになあ……もろともに泣いて、夫君を留めよ、妻女・限りきりす、厭きの別れは惜しくはないのか、泣いてやればいいのになあ)。

 

「なき…鳴き…泣き」「とゞめよ…留めよ…止めよ…門止めよ」「きりぎりす…秋に鳴く虫の名(コオロギのことという)…鳴く虫の言の心は女…名は戯れる。(秋の果て)限りぎりす、(胸が)きりきりする」「秋…飽き…厭き」「やはあらぬ…(惜しく)ないのか(惜しんで)やれよ…(惜しめば)いいのになあ」「や…疑問の意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」。

 

虫も鳴いて、しばしの別れを、惜しんでやれよ――歌の清げな姿。

妻女・きりぎりす、我々と共に泣いて、夫君を留めよ、厭きの離れは惜しくないのか、あゝ――心におかしきところ。

 

 

(上の歌と同じときに詠んだ歌)        平元規

秋霧の共にたちいでわかれなば はれぬおもひに恋ひやわたらむ

(たひらのもとのり・光孝天皇の蔵人・後蔭の同僚)

(秋霧のたつのと共に出立して、別れれば、晴れぬ思いに、君恋しさ続くだろうな……厭き切りのように、出て離れれば、妻女は・心晴れぬ思いに、きみを求め続けるだろう、あゝ)。

 

「秋…飽き…厭き」「はれぬ…(天気が)晴れない…(心が)はれない」「恋ひ…恋…乞い…求め」「や…疑問の意を表す…感嘆・詠嘆の意を表す」「らむ…推量する意を表す」。

 

秋霧とともに別れれば、心も晴れず、君恋しさ続くだろう――歌の清げな姿

厭き切りと、ともにたち離れれば、妻女は晴れない思いに、貴身を乞い続けるだろう、あゝ――心におかしきところ。

 

二首とも、送別会で、同僚がからかった歌ようである。男もまんざらではなく、座も和むだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (384)をとは山こだかく鳴きて郭公

2018-01-06 19:50:17 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

音羽山のほとりにて、人を別るとてよめる  貫之

をとは山こだかく鳴きて郭公 きみがわかれをおしむべらなり

(音羽山の辺りにて、人と別れるとて、詠んだと思われる・歌……羽ばたく女の山ばにて、女と離れるとて、詠んだらしい・歌)(つらゆき)

(音羽山、こだかく鳴いて、ほとゝぎす、君の別れを惜しむように聞こえているよ……羽ばたく女の山ば、小高く泣て、ほと伽す・且つ乞う、貴身の離れるのを愛おしみ惜しんでいるようだよ)。

 

 

相手に快く聞こえる餞別の挨拶――歌の清げな姿。

言葉の綾模様に包んだエロス(性愛・生の本能)は、聞き耳もつ者を快くさせ、相手も座も和む――心におかしきところ。

 

 

以下は、この歌に用いられた歌言葉の「言の心」と浮言綺語に似た戯れの意味である。


 「をとは山…音羽山…山の名…名は戯れる。鳥の羽音のする山、女が手をばたつかせる山ば」「こだかく…木高く…小高く」「なき…(鳥などが)鳴き…(人が)泣き」「鳥…言の心は女」「やま…山…もの事の山ば」「郭公…鳥の名…鳥の言の心は女…ほとゝぎす…ほと伽す…カッコウ…且つ乞う」「ほと…お門…おとことおんな」「きみ…君…貴身…おとこ」「おしむ…をしむ…惜しむ…愛でいつくしむ…離し難く思う」「べらなり…(何々の)様子だ…(鳴いて・泣いて)いるようだ」。、

 

国学及び国文学者は、これらの言葉の表面上の一義だけを採用して、他の意味候補をすべて削除して、和歌を解いてきた。古今集の歌を、「くだらない、怠惰な歌に」貶めたのは国文学的解釈である。それに「こだかき」は「(位置が」木高い」と「(声が)小高い」との両義があると学問上の発見をすれば、平安時代に「掛詞」などという概念はなかったのに、「掛詞」と名付け、後は、「掛詞」と指摘すれば、歌の解釈が成ったかのようで、「清げな姿」だけがこの歌の意味の全てであるかのように思わせてきた。

 

国文学者は、平安時代の人々の、歌と言語に関する言説を無視していることに気付かない、なぜだろうか。

 

紀貫之のいう言の心は、仮名序の結びに「歌の様を知り、ことの心を得たらん人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」とある。「言の心」とは字義以外に、その時代に言葉の孕んでいた諸々の意味である。用いられ方から心得るしかない。「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、古の歌を仰ぎ見て、今の我々の歌が恋しいほど、心におかしいであろう」と言っているのである。

国文学は「ことの心」を「事の心」と誤読して意味不明にして、貫之の歌論と言語観を抹消したのである。

 

清少納言の言語観は、われわれの言葉は「聞き耳によって(意味の)異なるものである」と枕草子にある。言葉の意味は、受け手にゆだねられる、この超近代的ともいえる言語観に従えば、一つの言葉に多様な意味があって、歌に多重の意味があることなど当然のこととなる。歌の心におかしきところは、聞き耳を持つ人だけに聞こえるのである。枕草子で、笑ふ・わらひ給ふなどと、百回ほど笑っているのに、今の読者は一笑もできないのも、言の戯れを彼女たちと同じように聞く耳を持っていないからである。

国文学は、清少納言の言語観を、われわれの言葉は「聞き耳によって(性別、職域などによって、声の抑揚や音調などが)異なるものである」と、ありふれた言説に読み違えて、冗談を自分たちだけに通じる言葉で言い、それを得意げに枕草子に書き散らした、楽天的で下手な文章家と、清少納言を貶め、正当な言語観を消してしまったのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (382)かへる山なにぞは(383)よそにのみ恋やわたらむ

2018-01-05 19:49:35 | 古典

            

                        帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

あひ知りける人の、越国にまかりて年経て、京にもうできて、

又帰りける時によめる            凡河内躬恒 

かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ

(相知った人が、越の国に赴任して、数年経って、京に参上して来て、又帰った時に詠んだ・歌……知り合った女が、山ば越したところに入って、疾しを経て、京の絶頂に参上して、また繰り返す時に詠んだ・歌)(おほしかふちのみつね)

(帰る山、名には有って有る効果は、帰って来ても、留らない名だったのだなあ……返る山、汝には有って、有る貝は、山ばの果てが・来ても、止まらない繰り返す、汝の名、だったなあ)。

 

「年へて…数年経って…疾し経て…早すぎるおとこのさが」「京…山の頂上…絶頂…感の極み」。

「かへる山…山の名…ものの名は戯れる。帰る山、返る山、繰り返す山ば」「なにぞはありて…何ぞは有りて…名にぞは有りて…汝にぞは有りて」「かひ…甲斐…効…価値…貝…おんな」「きても…来ても…(果てが)来ても」「も…強調の意を表す」「とまらぬ…泊まらぬ…止まらぬ」「けれ…けり…詠嘆を表す」。

 

かへる山という名に因んだ言葉あそび――歌の清げな姿。

返る山ば、貴女には有って有る貝は、山ばの果てが来ても、止まらないで繰り返す名の汝の身、だったなあ――心におかしきところ

 

おんなのさがの、おとことは比べるべくもない、長寿、繰り返すちから。

 

 

越国へまかりける人に、詠みて遣はしける

よそにのみ恋やわたらむ白山の 雪みるべむもあらぬわがみは

(越の国へ赴任した男に詠んで遣った・歌……越しのくにへ入った女に詠んで遣った・歌)(みつね)

(他所でだけ、恋い続けるのだろうか、白山の雪を観ることのできない、我が身は……白山の・て前あたりだけで、貴女を・恋しがり続けるのだろうか、やまばのおとこ白ゆきの、逝って見ることのできない、わが身の見は)。

 

「越くに…国の名…名は戯れる。山ば越えたところ、京を超えたところ」。

「よそ…他所…望む所ではない…そのて前」「白山…山の名…ものの名は戯れる。雪の山、おとこ白ゆきふる山ば」「雪…ゆき…行き…逝き」「みる…見る…観る」「見…み…身…媾…まぐあい」「は…主語を示す…強調を示す…詠嘆の意を表す」。

 

白山を拝める君がうらやましいよ、行って雪観ることもできないわが身には――歌の清げな姿。

遠くより恋しい思い続くよ、おとこの色に染まった山ばの、白ゆき、逝き、見ることできないわが身は――心におかしきところ。

 

おとこの儚い性(さが)、悲哀の詠嘆。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (379)白雲のこなたかなたにたちわかれ

2018-01-04 19:42:16 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

友の東へまかりける時によめる 良岑秀崇

白雲のこなたかなたにたちわかれ 心を幣とくだく旅哉

(友が東国へ赴任したる時に詠んだと思われる・歌……誕生以来の伴立ちが、吾妻へいった時に詠んだらしい・歌)(良岑秀崇・伯耆国守)

(白雲のように、こちらあちらにたち別れ、お互いを思い・心を幣のように砕く苦慮の旅だなあ……白々しい心雲が、こちらにも、あちらにもたち、別れ、男心砕き、幣のように、かみに・女に、たむける吾妻路の旅だなあ)。

 

「ぬさ…幣…布などを細かく砕いて神に捧げるためにまき散らしたもの…神へ捧げるもの…女にたむけるもの…おとこのこころ」「と…のように…比喩を表す」「神…かみ…言の心は女」「哉…かな…だなあゝ…感動・詠嘆の意を表す」。

 

お互いのことを気遣いつつ、別れゆく、友の旅路を思う――歌の清げな姿。

誕生以来の伴立ちのわが貴身が、吾妻路をゆき、ぬさをかみのために、うちくだき、たむけるさま――心におかしきところ。

 

匿名の女歌にくらべると、男どもの歌は、どうしてこうも、エロスが弱々しく面白くないのだろう、うしろめたい思いをいつも抱いていて、言い訳がましくなるからかな。

 

男どもも、外聞、地位、出世の全てを捨てたならば、よみ人しらずの女歌に優るとも劣らないだろう。

人麿、業平は、それらを捨てた人である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

 

 


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (380)白雲の八重にかさなる(381)わかれてふ事は色にも

2018-01-03 19:09:33 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

陸奥国へまかりける人に、よみて遣はしける

貫之

白雲の八重にかさなるをちにても おもはむ人に心隔つな

(みちのくにへ赴任した人に、詠んで遣った・歌……未知の・路のくにへ入った男に、詠んで遣った・歌)(つらゆき)

(白雲の八重にかさなる遠方にても、君を思っているであろう、京の人々に、心隔てるなよ……白々しい心雲が八重にかさなる、落ち・堕ち、にても、おも食む女に心隔てるな)。

 

「白雲…大空の白い雲…白々しい心雲」「雲…心にわきたつもの…白くも…厭き…白けた情」「をち…遠方…おち…落ち…堕ち…(山ばから)堕ちたところ…いけ…池…逝け」「おもはむ…思うであろう…心配しているであろう…おも食む…おに喰らい付くであろう」「お…を…おとこ」「も…強調の意を表す」「人…人々…女」「心隔つな…(疎んじて)遠ざけるな」。

 

遠方へ赴任した若き男への、はなむけの言葉――歌の清げな姿。

ものは伏したままでも、最後まで、おんなのために、心砕きぬさをたむけ、心隔てるな――心におかしきところ。

 

和合の心得その一。


 

 

人をわかれける時に、よみける   (つらゆき)

わかれてふ事は色にもあらなくに 心に染みてわびしかるらむ

(人と別れた時に、詠んだ・歌……女と別れた時に詠んだ・歌)

(別れと言う事は、色ではないのに、心に染みて、わびしい、どうしてだろう……峰の京での・別れという事は、色素でも・色情でもないのに、心に浸みて、せつなく哀しい、どうしてだろう)。

 

「わかれ…別れ…離別…身離れ…山ばでの男女のわかれ…(女と男のさがの違いにより)ものには峰の別れがある」「いろ…色…色素…色事…色情」「しみて…浸みて…浸透して…染みて…染まって」「わびし…侘びし…切ない…哀しい…心細くやりきれない」「らむ…どうしてなんだろう…原因理由などを推量する意を表す」。

 

遠方へ赴任した人と別れた時の独白――歌の清げな姿。

峰の別れの後の、おとこのどうしょうもない悲哀、どうしてだろう――心におかしきところ。

 

和合の難しさその一。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)