『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

極まって2

2011年12月31日 13時11分38秒 | 航海日誌
今年ラストの記事は、いつもに増して長いですよ~(笑)

前回の記事で、身体でわかることがあると書きました。頭だけではせいぜい半分だと。身体でわかるということを、もう少し説明したいと思います。

たとえば、胃痛に悩んでいたとして、しかし仕事優先で我慢していたとします。胃は現状を訴えています。しかし頭では仕事をこなさねばならないと考え、胃のシグナルを無視しています。

身体の言葉が、ここでは痛みです。それを放っておけば、胃潰瘍まで進行し、入院することになるかもしれません。よくよく考えれば、そうなのですが、我慢する場合も多いものです。

では、なぜ胃痛になったのか。その原因は何なのか、それはどうすれば解消できるのか、などなど原因を根本から見直す必要があるのではないか。胃は、「マッタ!」をかけているのです。まだ大丈夫と、それを無視すれば身体が壊れるのです。

胃痛の喩えは、経験者も多いのではないでしょうか。かくいう私もその経験者です。夜中に四つんばいになり、胃を抱えて唸りました。原因はわかっていました。仕事上の人間関係によるストレスが主要因でした。それを自覚して、相手のことを観察し、なぜそういうキツイ態度を取るのか、相手の視線から自分を観てみました。すると仕事のやり取りでズレがあります。やり方、表現方法が合わないので、相手は苛ついています。なんでコイツはこうなんだと腹が立つわけです。

そこまで観て、その人との対応の間合いを少し変えました。それから、自分のことを気にかけてくれているのだと思いかえし、感謝の念を送っていました。すると、相手の態度も少しずつ変わりました。胃痛がだんだんやわらいでいき、数週間後には痛みが消えていました。潰瘍が自然治癒していると、後に受けた検診でわかりました。さらに、その人も同じころ胃潰瘍になりかけていたことを知りました。

【身体すべてがセンサー】

脳からの思考が自分をつかさどっていると思いたいところですが、そうだとは言えません。胃は第二の脳とも言われ、生命活動上、重要な指揮権を持っています。食物を消化し、栄養素を腸へ下ろして、そこで血液を生む(千島学説)といった生命維持に欠かせない働きをしています。

ですから、精神バランスを崩すと、生命維持が困難になるとシグナルを発し、その刺激(痛み)を脳が受け取って、異変が起こっていると察知する仕組みになっているわけです。また、胃だけでなく、ほかの臓器も神経細胞がネットワークし、バランスを取りながら生命を維持しています。さらに、遺伝子が生命の基本情報を保持し、細胞の修復もおこないます。まだ解明されていない遺伝子情報も多くあるようです。

これがトータルに機能して、健康な状態で生きていけるのでしょう。しかし、機能論だけでは、なぜ生きているのか説明のつかない領域があるのです。

【魂はどこに在るのか】

さて。ここからは、いつものように常識をはずれた話の展開(笑)

ちょっとばかり実験してみましょう。いま、このブログ画面から目を外し、目を閉じてゆっくり呼吸を整え、なにかを「考えている」のは身体のどの部分なのか、確かめてみてください。

大抵は、眉間の奥、つまり大脳の真ん中あたりと感じるのではないでしょうか。言語脳で言葉がうまれるので、言葉によって考える作業は、脳がおこないます。

では、今度は、「感じる」のはどこかを、感じてみてください。

どうですか? 感じるのは頭ではなく、胸のあたりではありませんか? よく言われるように、予感は、胸のあたりからじんわり湧いてくる感触です。また、とても楽しいとき、胸がわくわくするというのも同じです。恋をして、胸がキューンとなるのもね。言葉を超えて、身体で感じている。

これらを言葉で伝えようと思っても、どうでしょう。伝えきれないほどのいっぱいがありませんか。

考えるんじゃない、感じるんだ!

と、身体が云っている。

言葉に惑わされるな! 感じるものに従え。

そのセリフって、誰が云っているのか?・・・

胸の奥に響く、言葉になる前の・・・

その胸の奥から湧くものを、頭へ上げると、「感情的になるな」といさめる言葉が発せられます。その胸の奥から湧くものを腹に下ろせば、決心がつきます。

さて。魂はどこら辺に在るのか。

胸の奥なのか・・・

胸の奥に感じるセンサーを持つ魂は、身体全体を覆い、地球を覆い、次元へ超えた向こう側へ繋がった、固定されない波長のようなもののようです。しかし、個人にとっては、個性的な波動と呼べばいいでしょうか。

自我意識(個人)→ 無意識(個人)→ 真我(個人)→ 集合意識(エリア)→ 集合無意識(地球)→ 宇宙意識(太陽系)→ 大宇宙 ここまでが3次元+時間の意識領域

そこから先は次元を超えますから、言語化できません。言葉にすると、般若心経のように、解釈がさまざまになり、脳で捉えることが非常に困難となります。また、言語化すると考える作業が中心になるので、迷いが生じて、堂々巡りとなってしまいます。言葉による答えはありません。

そこで、脳だけに任せるのではなく、身体を使うというわけです。禅もそうだし、山伏の荒行も、そういうアプローチです。言語を超える作法です。けれども、そうやすやすと超えられる峠でもなさそうです。

有名な話に、お釈迦さんが菩提樹の木陰で息絶え絶えで座っていると、村の娘さんが一杯の乳を差し出し、それを飲んで身体に力が蘇ったことで悟りを開いたというスジャータの物語があります。

身体をいくらいじめてみても、言葉を超えて悟りへ至らず、身体すべてで感じ取る、その先に、蓮の花がポンと開くように、至る。そういう感じかなと思います。

色即是空・・・一切遠離転倒夢想・・・考えてもわかりません。

だれにでも感じるセンサーは備わっています。ワクワク、ドキドキのさらにその奥に、魂の領域があり、そこに至る。

遠くも近くもなにも、そこに繋がって身体を活かしているから生きている。

生きていることを忘れているから、想い悩み苦しんでいる。

生きている実感は、胸の奥によく手をあてて、感じ取る。

いま、これを書きながら、私が私に想うことです。

その感じを言葉にすれば、「有り難い」です。

この貴重な時間空間のなかで、身体をもって遊んでいられることの、有り難さです。

今年という期間限定の時間(約束事)が終わろうとしているなかで、ますますそれを感じます。

そして、頭のなかで、ああ、いろんなことがあった、哀しみの年でもあった、フクシマのあの幼子はどうしているだろうか、と、言葉の渦が巻いています。

生きているのに生きていることを忘れていては生きていることがもったいない。もったいないから、有り難い。だから、生かしていただいて有り難うございますと、なります。感じるところ、で、そう感じます。

感じるから、想い、考えます。順番はそうです。

感じたことを素直に言葉にしましょうと、小学校の国語の先生がよく言っていましたが、そのとおりです。

でも、先生はとてもむずかしいことを伝えていたのかもしれませんね。

さてさて。

今年もお付き合いいただき、
みなさん、ありがとう。

心身ともに良い年をお迎えください。