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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

核戦争への「愛」を描いた『博士の異常な愛情』(1964)

2015-07-26 03:18:51 | コラムと名言

◎核戦争への「愛」を描いた『博士の異常な愛情』(1964)

 スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(コロンビア、一九六四)という映画は、これまで、何度も鑑賞している。最初は、たぶん、一九七〇年ごろ。どこかの名画座でリバイバル上映されているのを見たと思う。大いに衝撃を受けたし、大変な傑作だとも思った。その後、中古ビデオを購入して、自宅で観賞。さらに中古DVDも入手した。
 この映画のバージョンについて、詳しいことは承知していないが、記憶によれば、最初に映画館で見たときのバージョンと、ビデオ・DVDに収録されているバージョンとでは、異なる部分があった。具体的には、ピーター・セラーズが演ずるマンドレイク大佐(イギリス空軍の派遣将校)が、爆撃機のCRM装置を解除する暗号を割り出す場面である。この場面、最初に見たときは異様に長かったと記憶するが、ビデオ版、DVD版では、大幅に短縮されていた。
 今回、このコラムを書くために、またまた、DVDを取り出した。おそらく、この映画を見たのは、五回目か六回目であろう。やはり、傑作であった。
 映画の「あらすじ」を紹介しておく。最初、ウィキペディアの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」の項にあった「あらすじ」を引用しようと思ったが、気になる部分があったので、適宜、加除しているうちに、別の文章になってしまった。ただし、同項の「あらすじ」を踏まえたものであることに変わりはない。

 冒頭に、「この映画に描かれているような事故は、現実には起こりえないことを、合衆国空軍は保証する。また、登場人物は架空であり、実在の人物とは、いかなる関係もない」という断りが出る。
 バープルソン空軍基地の司令官リッパー将軍(スターリング・ヘイドン)が精神に異常をきたした。指揮下のB52爆撃機三十四機に対し、「R作戦」(ソ連への核攻撃)を命令したあと、基地を閉鎖した。爆撃機には、それぞれ、五〇メガトンの核兵器が搭載されている。その破壊力は、第二次世界大戦で使用された全爆弾・砲弾の十六倍にあたるという。英国空軍から派遣され、リッパー将軍に従っていたマンドレイク大佐(ピーター・セラーズ)が、将軍の常軌を逸した言動に気づき、命令の撤回を求めるが、将軍は応じようとしない。
 やがて、この事態を察知したアメリカ政府中枢は、ペンタゴンの戦略会議室に集まって、対策を練る。マフリー大統領(ピーター・セラーズ)、タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)、大統領科学顧問のストレンジラヴ博士(ピーター・セラーズ)といった面々である(ピーター・セラーズは、この映画では一人三役)。
 戦略会議室で、対策が練られている間にも、爆撃機は、それぞれ、ソ連内の目標に向かって飛行を続けていた。「R作戦」においては、各爆撃機の通信回路は、敵の謀略電波に惑わされないように、CRMと呼ばれる特殊暗号装置に接続される。一度、この装置に接続されると、一般の通信は遮断され、爆撃機を引き返させることが不可能となる。三文字の暗号を送信した場合にのみ、この装置は解除できるが、その三文字の暗号は、リッパー将軍しか知らない。
 戦略会議室の席上、タージドソン将軍は、こう主張した。「爆撃機を引き返せない以上、このまま攻撃させて、ソ連を壊滅させる以外ない」。マフリー大統領が、タージドソン将軍の考え方を厳しく批判し、将軍との間で、激しい議論となる。
 ここで、戦略会議室にソ連のサデスキー大使(ピーター・ブル)がはいってくる。事態の緊急性に鑑み、大統領が、あえて招いたのである。ソ連大使を通じ、アメリカ大統領とソ連首相とが、ホットラインで会談。この電話会談のなかで、ソ連が「皆殺し装置」(ドゥームズデイ・デバイス)と呼ばれる爆弾を完成させ、すでに実戦配備している事実が明らかになる。この爆弾は、ソ連が攻撃を受けた場合、自動的に爆発し、地球上の全生物を絶滅させるというものであった。
 大統領はすでに、戦略会議の席から、バープルソン空軍基地に近い陸軍基地に連絡し、空軍基地を攻撃するように命令していた。リッパー将軍から、CRMを解除させる暗号を聞き出すためである。しかし、陸軍部隊が、リッパー将軍の執務室に迫ってくると、将軍は、突然、銃で自殺してしまう。
 自殺の直前、リッパー将軍はマンドレイク大佐に対し、共産主義の陰謀によって、自分たちの高貴な「体液」が汚染されたといったことを口走っていた。この会話をヒントに、マンドレイク大佐が、CRM装置を解除させる暗号を割り出す。大佐は、基地内の公衆電話から、大統領にその暗号を通報し、これによって、爆撃機は攻撃を中止して、次々と基地へ引き返しはじめた。しかし……。

 映画をまだ、御覧になっていない方も多いかと思うので、この先は言わない。
 戦略会議室の席上、マフリー大統領とタージドソン将軍とが衝突する場面がある。これはまさに、一九六二年のキューバ危機の際、ケネディ大統領とルメイ将軍、パワー将軍との間で起きた衝突を再現したものであろう。
 松尾文夫氏の『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)を読んだおかげで、『博士の異常な愛情』という映画を、より深く観賞することができた。松尾文夫氏には、厚く感謝申し上げます。明日は、『銃を持つ民主主義』の紹介に戻ります。

*このブログの人気記事 2015・7・26(7・8位に珍しいものがはいっています)

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核戦争の瀬戸際に立ったキューバ危機(1962)

2015-07-25 07:25:19 | コラムと名言

◎核戦争の瀬戸際に立ったキューバ危機(1962)

 昨日の続きである。松尾文夫氏は、その著書『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)から、第一章「ルメイ将軍への勲章」の内容を紹介している。本日は、その三回目。昨日は、ルメイ将軍の「核先制攻撃」構想について述べている部分を紹介した。すなわち、「ソ連が百五十発の核爆弾の発射準備に一カ月の時間を必要としているうちに、アメリカは七百五十発の核爆弾を一気に使用して、数時間でソ連を壊滅状態に追い込む」(「日曜日のパンチ」計画)といった類の構想である。
 この構想を耳にして、スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』(コロンビア、一九六四)を連想された方がいたとしたら、その方は、相当の映画通、あるいは軍事通のはずである。
 同映画のストーリーは、明らかに、カーチス・ルメイ将軍が主張していた「核先制攻撃」を踏まえている。もちろん、ルメイ将軍をモデルにしたと思われるような登場人物も出てくる。『銃を持つ民主主義』によれば、この映画が作られた直接のキッカケは、一九六二年(昭和三七)のキューバ危機だったという。以下は、同書からの引用である(四三~四五ページ)。

 しかし、〔ルメイ将軍は〕ケネディ政権下で空軍参謀長にまで昇りつめたあと、六二年十月のキューバ危機でホワイトハウスと正面から対立、ついに引導をわたされることになる。ソ連のキューバに対するミサイル配備を、ケネディ大統領がフルシチョフ首相との対決で撤回させた、いわゆるキューバ危機に際して、ルメイ将軍、および彼の長年〈ナガネン〉の腹心で、この時には後継の戦略空軍司令官に就任していたトーマス・パワー将軍は、ケネディ大統領に対し、キューバの軍事施設に対する爆撃を即時実施するよう強く進言する。パワー司令官は、四五年〔昭和二〇〕三月十日の東京大空襲の時の部隊指揮官の一人。ルメイ将軍以上に激しい好戦主義者で、アメリカ空軍内部でも「サディスト」で通っていた。
 ケネディ大統領の実弟で司法長官をつとめていたロバート・ケネディは、著書『13日間』のなかで「大統領がソ連はどう出るかと聞くと、ルメイ将軍はなにもしないだろう、と答えた。しかし大統領はこれに懐疑的で、彼らがなにもしないわけがない。キューバでなにもしなくても、ベルリンでは間違いなく行動に出るだろうと述べて、彼らの提案をしりぞけた」とのエピソードを紹介している。ケネディ大統領には、マクジョージ・バンディ国家安全保障問題担当特別補佐官が政権発足直後から軍部制服組が核戦争を始めてしまう危険性をブリーフしていたのだという。
 ルメイ-パワー提案にかわって、大統領が採用した封鎖作戦が成功し、危機が去ったあと、ケネディ大統領が三軍の首脳をホワイトハウスに招いて労をねぎらった際、ルメイ空軍参謀長一人が「われわれは戦争に負けた、攻撃して彼らをやっつけるべきだった」と述べて座を白けさせたと、当時のロバート・マクナマラ国防長官が八七年に述懐している。
 事実、ルメイ空軍参謀長とパワー司令官はこの時、大統領命令で、アメリカ軍全体が通常の防衛体制であるデフコン(ディフェンス・コンディション、DefCon)「5」からデフコン「3」に高められ、さらに戦略空軍に対しては統合参謀本部の判断でデフコン「2」つまり、デフコン「1」の戦闘状態一歩手前まで警戒体制が高められた状況を利用しようとした。
 B52とB47合わせて六百七十二機が、三百八十一機の空中給油機とともに、空中待機または二十四時間出撃態勢にある状態を生かそうと考えた。アメリカ軍の歴史でも、デフコン「2」が発動されたのは、後にも先にもこの時だけという状況下で、なんとか対ソ全面核戦争の開始に持っていくチャンスを執ようにうかがっていたことが明らかになっている。
 その時、上空待機中だったB52パイロットの一人は、通常より意図的にソ連領に接近、ソ連側を挑発するよう命じられており、開戦となったら直ちにレニングラード(現・サンクトペテルブルク)を攻撃することになっていた、と証言している。B52は最大四発の核爆弾が搭載可能で、数字上は、合計千六百二十七発の核爆弾の実戦使用が可能な状態だった、という。
 この辺のホワイトハウス内でのケネディ大統領と彼らとの対決の場面は、ロバート・ケネディの『13日間』をもとに二〇〇〇年につくられたロジャー・ドナルドソン監督、ケビン・コスナー主演の映画「13デイズ(原題Thirteen Days)」で巧みに再現されている。
 世界は、このとき間違いなく核戦争の瀬戸際に立っていた。

 ここでは、映画『博士の異常な愛情』の話は出てこないが、その数ページあと(四八ページ)に出てくる。キューバ危機が一九六二年、同映画の公開が一九六四年である。核戦争の瀬戸際に立つ人類を描こうとしたこの映画が、キューバ危機に触発されたものであることは間違いない。というわけで、次回は、映画『博士の異常な愛情』について。

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ルメイ将軍の「核先制攻撃」構想

2015-07-24 03:29:53 | コラムと名言

◎ルメイ将軍の「核先制攻撃」構想

 昨日の続きである。松尾文夫氏は、その著書『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)の第一章「ルメイ将軍への勲章」において、第二次大戦以降におけるルメイ将軍の言動についても詳述している。本日は、その部分を紹介させていただこう。

 ルメイ将軍は、日本降伏三カ月後の一九四五年〔昭和二〇〕十一月、ニューヨークのオハイオ協会で演説、「次の戦争はロケット、レーダー、ジェット・エンジン、テレビ誘導ミサイル、超音速航空機、そして原子爆弾といった想像を絶する新兵器で戦われる空の戦争となる。われわれは空軍部隊の戦力をどこまでも限度なしに強化しなければならない」としたうえで、「この戦争は始まってしまうと止めることは不可能になる。従ってわれわれは空軍戦力を、攻撃を受けたら直ちに報復できる状態にして、攻撃をさせないようにしておかねばならない」と述べた。後に「阻止力」と呼ばれる概念をいち早く提示していたことになる。
 しかし、四年後の一九四九年〔昭和二四〕、旧ソ連の原爆保有が明らかになると、その前年、戦略空軍司令官に就任していたルメイ将軍は、アメリカが核戦力での対ソ優位を保っているうちに、戦略空軍が保有する核戦力を「ムダな資産」としないためにも、アメリカは第一撃、つまり先制攻撃を躊躇すべきではない、との立場を鮮明にする。
 これは東西冷戦終結までの約半世紀の間、国際情勢の座標軸となった核戦力の「相互抑止」による平和共存の維持という、ルールそのものへの挑戦であった。トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンと四代の大統領の権限に対して「反乱」すれすれの行動に出る。日本への爆撃で、現場指揮官としての「裁量」で焦土作戦を実施した実績の再現を繰り返し試みる。
 最初は一九四九年。当時アメリカが保有していた百三十三個の原爆全部を、ソ連の七十都市に投下、三カ月間で死者二百七十万人、負傷者四百万人という損害を与えて事実上「ソ連を殺す」計画を作成、トルーマン大統領に拒否される。五三年〔昭和二八〕春には、私が目撃した東京初空襲の英雄、ドーリットル隊長が空軍中将で退役後、委員長をつとめた対ソ戦略についての委員会から、ソ連に対し二年間の期限付きで核兵器の廃棄を要求し、これが受け入れられない場合には、核先制攻撃を加えるとの提案が飛び出す。ルメイ将寧の意を受けたものだった。
 しかし、アイゼンハワー大統領はこれを退け、翌年「基本的国家安全保障政策」と銘打って、「アメリカとその同盟国は予防戦争の概念や戦争挑発を意図するような行為は拒否する」との特別声明を出す騒ぎとなる。
 それでもルメイ将軍はあきらめない。偵察機をソ連領内に常時飛ばして、ソ連側を挑発し続ける。五四年〔昭和二九〕三月十五日付の戦略空軍司令部のブリーフィング出席者のメモが残っていて、ルメイ司令官は席上、ソ連が百五十発の核爆弾の発射準備に一カ月の時間を必要としているうちに、アメリカは七百五十発の核爆弾を一気に使用して、数時間でソ連を壊滅状態に追い込むとの「日曜日のパンチ」計画、つまり核先制攻撃構想を得々と説いている。
 五七年〔昭和三二〕までには、原子爆弾の保管が原子カエネルギー委員会から戦略空軍に移され、ルメイ将軍は事実上「核戦争のボタン」を押す権限を手中にする。つきつめると、その権限を行使するかどうかは、大統領への忠誠次第という状況となっていた。その大統領についての彼の発言も残っている。「もしソ連が核攻撃準備に入ったことを探知したら、私は彼らを発進前にやっつける。大統領がその政策を変更出来るようにするのが私の仕事だ」といい切ったという。
 この間、五〇年〔昭和二五〕からの朝鮮戦争ではルメイ将軍は戦略空軍司令官として、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の都市や農業ダムや農村地帯に対し、無差別爆撃を強行、人口の二〇%に相当する約二百万人を死亡させている。日本の都市への焦土作戦での死者五十万人をはるかに上回る数字である。この事実はほとんど知られていない。

 文中、「私が目撃した東京初空襲の英雄、ドーリットル隊長」という字句がある。著者の松尾文夫氏は、ドーリットル空襲があった一九四二年(昭和一七)四月一八日当時、新宿区の戸山国民学校の三年生だった。そして、この日、同校の校庭から、ドーリットル攻撃隊の一番機(隊長機)を目撃した体験を持つ。
 松尾氏は、『銃を持つ民主主義』の「プロローグ」において、この目撃体験を語っている。これについては、数日後、このブログで紹介することになろう。

*このブログの人気記事 2015・7・24(穂積八束関係が多いようです)

 

 

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ルメイ将軍の夜間無差別焼夷弾爆撃

2015-07-23 06:01:14 | コラムと名言

◎ルメイ将軍の夜間無差別焼夷弾爆撃

 例年、この時期になると、テレビや新聞で、「戦争」の話題が採りあげられることが多くなる。そこで、このブログでも、「戦争」について、話題を提供してみたい。
 今月一九日のコラム「アメリカの銃規制問題と日本の集団自衛権問題」で、松尾文夫氏の『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)という本に言及した。この本の第一章「ルメイ将軍への勲章」には、アメリカのカーチス・ルメイ将軍が立案し、若き日のロバート・マクナマラ(元アメリカ合衆国国防長官)が協力した「夜間無差別焼夷弾〈ショウイダン〉爆撃」のことが出てくる。

 マクナマラ氏によると、太平洋戦争末期、グアム島のルメイ司令部で働き、日本の六十七都市に対する焼夷弾爆撃を効果的に行なうための仕組みづくりと数学上の計算に従事した、という。そして「もしアメリカが戦争に負けていたらルメイ将軍も私も戦争犯罪者だった」とルメイ将軍と同じことばを述べたあと、「これだけの都市の人口の五〇%から九〇%を焼夷弾爆撃で殺傷したうえで、原爆を投下したのは余計なことでもあった」とも語っている。【中略】
 これまでマクナマラ氏が、アーノルド司令官直轄の第二十航空軍に勤務していたとの記録は、明らかにされていた。しかし、その下部の実戦部隊であった第二十一爆撃軍のルメイ司令官のもとで、対日焦土作戦に直接かかわっていた事実については、マクナマラ氏自身も口にしておらず、今回〔二〇〇三年の映画『戦争の霧』〕初めて明らかになった。【中略】
 つまり、ルメイ将軍の「夜間無差別焼夷弾爆撃」は、アーノルド司令官への「焼夷弾」レポート〔国家防衛調査委員会(NDRC)作成〕と同じように、当時の「アメリカという国」の最高頭脳が総力を上げてかかわり、支えていたということである。
 マクナマラ氏の告白通り、〔一九四五年〕三月十日以後、この「夜間無差別焼夷弾爆撃」は東京、名古屋、大阪、神戸、横浜、川崎の六大都市に続き、六月十七日からは鹿児島、大牟田、浜松、四日市の四都市を皮切りに降伏前日の八月十四日の熊谷、伊勢崎まで六十一の中小都市に加えられた。わが福井市はその第十波目の四都市のうちの一つだった。これらの都市のB29被爆経験も風化しつつあるという。次の世代のためにあえてその日付と中小都市名を記録しておく。
 六月十七日 鹿児島・大牟田・浜松・四日市
 同 十九日 豊橋・福岡・静岡
 同 二十八日 岡山・佐世保・門司・延岡
 七月一日 呉・熊本・宇部・下関
 同 三日 高松・高知・姫路・徳島
 同 六日 千葉・明石・清水・甲府
 同 九日 仙台・堺・和歌山・岐阜
 同 十二日 宇都宮・一宮・敦賀・宇和島
 同 十六日 沼津・大分・桑名・平塚
 同 十九日 福井・日立・銚子・岡崎
 同 二十六日 松山・徳山・大牟田
 同 二十八日 津・青森・一宮・宇治山田・大垣・宇和島
 八月一日 八王子・富山・長岡・水戸
 同 五日 佐賀・前橋・西宮・御影(現・神戸市東灘区)・今治
 同八日 八幡・福山
 同十四日 熊谷・伊勢崎
 グアム島の二基地、テニアンの二基地、サイパンの一基地、それに八月に入ってからは沖縄基地を加えて、最後には千五十六機にふくれ上がったB29を動員して、延べ三万二千六百十二機にのぼる出撃だった。この合計六十七都市に対する出撃で投下された焼夷弾は九万四千トン、通常爆弾が五万三千トンで合計十四万七千トン、ほかに一万二千トンの機雷が港湾地域に投下された。
「ルメイの爆撃」の華々しい成果に刺激され、海軍航空隊も戦後の影響力維持のためにと、空母部隊の艦載機〈カンサイキ〉による「無差別」の空爆を、長野市など各都市を対象に強化するという副次効果まで生み出した。

 文中、「わが福井市」とあるのは、この本の著者である松尾文夫氏が、福井空襲を体験しているからである。当時、国民学校六年生であった松尾氏は、福井市東部の手寄上町〈テヨセカミチョウ〉で、被爆したという。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2015・7・23(9・10位に珍しいものがはいっています)

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家永三郎博士の期待から瀬木比呂志教授の絶望まで

2015-07-22 07:37:23 | コラムと名言

◎家永三郎博士の期待から瀬木比呂志教授の絶望まで

 昨日の続きである。家永三郎の名著『司法権独立の歴史的考察』(日本評論社、一九六二初版)の中から、裁判所をめぐる「危機的状況」を告発している部分を紹介している。本日は、その二回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く(一四六~一四八ページ)。
 
 (二)既成事実に対する屈伏ないし迎合 裁判官が捜査・検察官の調書に絶大な信頼をかけるのは、前記のような行政官憲との一体感にもよるが、同時に行政官憲のつくり出した既成事実――たといそれが拷問等の違法行為を含むとしても――に弱いためでもある。裁判所が法令の違憲審査に怯惰〈キョウダ〉の傾向をもつことは、違憲立法であるとの判決の確定した〔最高裁1953・7・22〕のが政令三二五号以外まだ一つもないという事実からも察せられるが、その原因もまったく同じであって、裁判官が立法・行政府と一体感をもつとともに、立法・行政府のつくり出した既成事実を厳格に批判する勇気に欠けているためと考えるほかない。砂川事件上告審判決〔最高裁1959・12・16〕田中耕太郎裁判官の補足意見に、「かりに(米軍)駐留が違憲であったに」ても、刑事特別法二条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてかりにそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。(中略)既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」とあるのは、そうした裁判官の傾向を憚る〈ハバカル〉ことなく公言したものとして、注目に値しよう。
 (三)人権擁護の熱意の欠乏 上記のような、行政・立法権力に傾斜する裁判官の精神的姿勢は、裏からいえば、国家権力による侵害に対し国民の権利を擁護する裁判官の重大な使命――それこそ新憲法下の裁判官の最大の責務であるはずだが――をまったく自覚していないことを意味するものにほかならない。松川上告審判決〔最高裁1959・8・10〕中の「事件発生以来十年を経過しようとしている(中略)。差戻〈サシモドシ〉の結果は、審理のためさらに第二審第三審数年という年月を要することになりそうである。これでは裁判の威信は地を払ってしまう」という田中裁判官の少数意見や、「指折り数えてみると、本件は、当審に繋属して以来五年余を経過し、事件当初からは、すでに一〇年の歳月が流れている。一切の事情を考慮しても、破棄差戻の判決をなすべき案件ではない。自分は、この際、本件に終止符を打つことが、当審としてなすべき適正な裁断であることを疑わない――という池田克裁判官の少数意見などは、これらの裁判官が人権の尊貴をいかに軽ぐ考えているかの端的な証拠であろう。そこでは、人権の保障が目的であって、国家機関はすべてこの目的を実現する手段としての組織にすぎない、という憲法の基本的構造は完全にネグレクトされているのであった。
 以上は、「巨大な山脈の雲表〈ウンピョウ〉に現れた嶺にすぎない」(松川上告審田中少数意見のことば)けれど、最高裁・下級審を通じ、新憲法下の裁判所の内部を支配する憲法感覚がどんなものであるかを「推認する」ことは、決して困難ではあるまい。戦後の裁判官の思想的情況を規定する基本的条件がここにあることを、まず銘記しておく必要がある。

 家永三郎は、「裁判官の思想的情況」を批判しているが、それに絶望しているわけではない。「新憲法下の裁判所の内部を支配する憲法感覚」という言い方でもわかるように、家永は、裁判所の内部に、旧憲法的な憲法感覚が残存していることを問題にしているのである。したがって彼は、これから先、「裁判官の思想的情況」が好転してゆくことを期待していたし、その可能性は十分にあると見ていたと思う。
 事実、『司法権独立の歴史的考察』の増補版(一九六七)の刊行から六年たった一九七三年(昭和四八)四月四日には、尊属殺人に対する重罰規定は、憲法の定める「法の下の平等」に反し、「違憲」であるとする最高裁判決が出ている。
 その一方で、私たちは、『絶望の裁判所』(講談社現代新書、二〇一四)の著者・瀬木比呂志さんから、今日の裁判所をめぐる状況が、「絶望的」であると聞かされている。おそらく瀬木さんの言われていることは、本当だと思う。
 では、こうした絶望的状況は、いつごろから、どのようにして定着してしまったのだろうか。少なくとも、一九七三年四月四日の時点においては、そうした絶望的状況は存在しなかった。その後、なぜ、今日のような絶望的状況にまで到ったのか。是非とも、その経緯が知りたい。その経緯を、わかりやすく解説した本を読みたいと思う。

*このブログの人気記事 2015・7・22(5・9位に珍しいものがはいっています)

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