◎ワイマール憲法は、こうして空文化された
一九四一年(昭和一六)六月に発行された『法律時報』第一三巻第六号(通巻一三八号)に、内田源兵衛〈ウチダ・ゲンベエ〉の「戦時体制形成強化の基本法(一)」という論文が載っていた。この論文で内田は、ワイマール憲法が、どのようにして空文化されたのか(「ナチス憲法」に変わったのか)を、非常にわかりやすく解説している。論述は、冷静で客観的であるが、言葉の端々に、日本における「戦時体制形成強化」は、ナチス・ドイツに比べて徹底さを欠いている、という批判が見て取れる。
戦時体制形成強化の基本法(一) 内田源兵衛
我国戦時体制形成強化の基本法規たる国家総動員法は、昭和十三年五月制定〔昭和一三年法律五五号、四月公布、五月施行〕以来の実績と時局の要請とに鑑みて、幾多の諸点に亘つて、今回その強化が行はれた〔改正昭和一六年法律一九号を指すか〕。
現下の真に重要なる時局下に於て、戦時体制の強化は更にその度合を急速に苛烈に要請せらるるであらう。之と伴つて総動員法は、その運用部面を拡大せしめらるると共にその既に運用を見つゝある部面に於てもその程度を深化するの必然性を持つものである。
然し乍ら、過般の改正に依つて強化拡大された総動員法を以てしても尚且つ現下の重大時局に処して果して政府をして神速〈シンソク〉果敢な法的手段を講ぜしめ得るの賦課〈フカ〉に応へ得るか否かは相当問題とされなければならぬ。
筆者は今此の問題に論及するに先立つて、今次第二次欧洲大戦に於ける列強の戦時体制形成強化の基本法規に考察を進めたい。
ドイツの戦時体制形成強化の基本法たる役割をなすものは彼の有名な「国民及国家ノ艱難ヲ除去スルタメノ法律」所謂「授権法」である。
本法はナチス政権樹立の最大のモニユメントである。一九三三年〔昭和八〕三月二十四日付の此の法律を根拠としてナチス政府は国政全般に亘る一切の立法権を賦与せられ、伝統を誇るドイツ帝国議会は之と共にその機能を喪失するに至つた。
同法の内容は次の通りである。
第一条 ドイツ国法律は憲法に於て予定したる手続によるの外〈ホカ〉、ドイツ国政府に依りても亦議決せらるることを得。ドイツ国憲法(所謂ワイマール憲法)第八十五条第二項(予算協賛権)及第八十七条(国債募集)に特定せられたる法律に付〈ツキ〉亦同じ。
第二条 ドイツ国政府に於て議決したる法律は、ドイツ国々会及ドイツ国参議院の制度それ自体を対象とせざる限り、ドイツ国憲法に抵触する定めをなすことを得〈ウ〉。ドイツ国大統領の権能は、之がため妨げらるることなし。
第三条 ドイツ国政府によりて議決せられたるドイツ国法律は、ドイツ国宰相之を編成し且官報を以て之を公布す。右法律は、別段の定なき限り、公布の翌日より之を施行す。ドイツ国憲法第八十六条乃至八十七条(立法手続)の規定は、ドイツ国政府の議決する法律に対しては其の適用なし。
第四条 独立国の立法事項に関係するドイツ国の外国との条約は、立法に参与する機関の同意を必要とせず。ドイツ国政府は此等の条約の執行に必要なる規定を制定す。
第五条 本法は公布の日より之を施行す。本法は一九三七年四月一日を以て其の効力を失ふ。本法は又現在のドイツ国政府が他の政府に依りて交迭〈コウテツ〉せられたるときは其の効力を失ふ。
此の近世民主政治将又〈ハタマタ〉立憲制度上真に歴史を画する大法制の確立はナチス独裁制の基底をなすものであると共に爾後〈ジゴ〉に於ける約六年に亘る戦争準備の段階に於けるドイツ国防国家建設の基本法規であり又第二次欧洲大戦の幕が切つて落されるやドイツ戦時体制形成強化の基本法を為すものに外ならぬのである。
授権法の戦時基本法としての特色は次の点に存する。
政府は一切の立法権の全面的委任を受けてゐる。予算及国債の如き議会制度の本質的職能と見做されたる権限も亦政府に委譲された。斯くて政府は戦時に於ける経済其の他諸般の非常措置を遺憾なく果敢に執り得るのみならず、戦時に於ける租税その他戦時財政の運営に付ても亦議会の掣肘〈セイチュウ〉を離脱して臨機応変の措置を講じ得ることになつたのである。
蓋し〈ケダシ〉国民の一般権利義務に関する所謂立法事項に付ての委任立法が如何に広大に行はれてゐるとしても、予算の協賛に関する機能が議会に留保されてゐる限りに於ては、戦時に於ける諸施設は多く予算と不可分の関係を有するものであるから、従つて議会の行政府に対する制約の力は尚極めて大であり、予算の協賛を通じて政府の行動に多大の発言権を有すべきことは、我国議会に於ても予算総会若は〈モシクハ〉分科会に於ける言論を想起すれば思ひ半ばに過ぎるものがあらう。然るにナチスの授権法は斯る〈カカル〉権能に付ても政府への委任を敢行したものであつて其の意義は極めて重大である。
次に其の委任の方法に於て包括的であり、何等の目的、制限を付することなき包括性は、之が戦時法規としての適性を最高度に具備したものとしなければならぬ。否〈イナ〉之を端的に言へば最早立法府への権限委任と云ふよりも、立法府そのものの事実上の否認に外ならぬのである。
第三に本法は政府に対して憲法抵触の立法をも容認してゐることである。議会及参議院制度自体に対する改編を除外したのであるが而も既に死せるに等しき議会の独立性存置は事実上大なる意義を有するものでないことは明である。国の危急存亡の岐るる〈ワカルル〉関頭〔せとぎわ〕に於て憲法の条規も亦畢竟〈ヒッキョウ〉第二義的を有するに過ぎぬとする理念に外ならぬのである。我国帝国憲法に於ける非常大権を説明するに当つて憲法義解の著者伊藤〔博文〕公は、船長は船舶の遭難に際して一部の載貨を海中に投棄して船客及般員の生命を救ひ、或は良将は戦局全般の見地より一部の軍隊を犠牲とするの考慮あるべしとの例を挙げてゐるが、斯る超法規的原理は戦時法規の基本理念を為すものであつて、筆者は嘗て〈カツテ〉憲法至上主義のアメリカ議会に於ける戦時法制準備の委員会に於て行はれたる大統領の権限はアメリカ憲法の拘束を受くるものなりや否やの論義を興味深く想起するものである。
第四に条約の締結に付ても政府の専権は確立された。立法参与機関の同意を必要とせざるべき旨の条規は外交に関する政府の活動を容易ならしむるものであつて、特に戦時法規として之を観るときは又極めて重要なる意義を有するものである。蓋し戦略と外交とは盾の両面であり、政戦両略の一致こそは近代戦に於ける中心的要請に外ならぬのである。
斯くてドイツの授権法は勿論国々に於ける特殊の条件を別として之を法制の側面のみより抽出して考察するならば、戦時体制形成強化の基本法規としては殆んど完璧に近い形態を有するものであつて、ドイツの赫々〈カッカク〉たる戦勝の背後には近代兵器の優秀性もさることながら、その法制上の武器に於ても真に電撃作戦を可能ならしむる用意あることを見逃してはならないであらう。
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