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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桜田壬午郎が体験した関東大震災

2015-07-13 04:18:18 | コラムと名言

◎桜田壬午郎が体験した関東大震災

 一昨日、神田神保町の古書展で、桜田壬午郎著『江戸の蛙』(三鈴社、一九四七)という本を入手した。総ページ数一七二ページ。最初から、粗悪な紙によって作られた本のようだが、それが半世紀を経て甚だ劣化している。当時の定価は二五円、古書価は、たしか二〇〇円だったと思う。見た目は一向に冴えない本だが、内容は、なかなか興味深いものがあるし、史料としての価値もあると見た。
 桜田壬午郎〈サクラダ・ジンゴロウ〉という名前に聞き覚えはなかったが、あとで調べたところ、一流の橋梁メーカーであったが、二〇一二年に破産した「サクラダ」の前身、「桜田機械製造所」の実質的な創業者であることがわかった(一八八一~一九四九)。

 同書は、「一、蛙」、「二、東京の今昔」、「三、東京鉄工業の変遷」、「四、裸」の四部に分かれているが、本日は、「三、東京鉄工業の変遷」から、関東大震災の体験を回想した部分を紹介してみよう。

  その 一九
 大正十二年〔一九二三〕九月一日関東大震災の日、私は砂町工場〔砂町は、今日の江東区〕の食堂に腰を下した瞬間、異様の音と共に身体が投げつけられさうであつた。四方の壁は落ち、家屋は潰れさうだから素早く室外に飛出した。外に立つてゐると地面が大きく揺れて、地上に生じた亀裂から丈余〔約三メートル以上〕の高さの水が噴き出した。汽罐室の外にある径六尺高さ百五十尺の鉄筋コンクリート造りの耐震煙突は、空に呪文でもかくやうに大きく揺れてゐる。工場舎宅は幾棟か崩壊して、家族は屋根を破つて無事に抜け出て来た。余震が度々あるので工場内の広場に出て、東京方面を見ると、砂煙〈スナケムリ〉が空一面に拡がつてをるので、これは容易ならぬことになつたと直覚した。直に〈タダチニ〉工場内怪我人の有無を調べ且つ防火方法とその警戒、食糧の用意を命じ、その部署を定めて午前三時気遣はれた自宅に向つて自転車で工場を出た。
 途中小名木川岸〈オナギガワ・ギシ〉から永代橋際〈エイタイバシ・ギワ〉の自宅に到る途中で、消防に来た自動車ポンプが、前後の火災の為めに立ち往生して動かれないで、吹鳴〈スイメイ〉をあげて助けを呼んでゐるのが数台もあつた。火をさけ路〈ミチ〉を替へやうやくたどりついた。家族は幸ひ皆無事であつた。まづ飯の用意をさせてゐる中〈ウチ〉に、風向きが変つて火の子が飛んで来るので、出来た飯を女中に脊負はせて、永代橋方面に一族全部を避難させて私一人殿り〈シンガリ〉をつとめた。天水桶〈テンスイオケ〉の水を方々にぶつかけ、三十分程遅れて家族の後を追つて、永代橋に行つて見ると、大勢の人で埋つてゐる。京橋の方面から追はれてくる人、大橋〔両国橋〕の方から逃げてくる人、右往左往に混雑してゐた。間もなく永代橋向ふの京橋の火が大川〔隅田川下流の通称〕を飛び越へて永代橋際の中島呉服店に転火した。私は浅野セメント会社の方に居たので、狼狽〈ロウバイ〉してこの呉服店の前を通る時には、超スピードで駈け抜けたが頭の毛が燃えたと思つた程熱かつた。漸く越中島〈エッチュウジマ〉から商船学校にかけ込んだ時には、隣の糧秣本廠〈リョウマツホンショウ〉はもう火焔に包まれて焼けてゐた。これでは商船学校も危いと思ひ川岸通りに出て見ると、月島〈ツキシマ〉の方に行く人と越中島から海の方へ逃げる人がある。河岸通りにはどこから持つてきたか、自動車が三、四台と四、五頭の牛と馬が川岸際の青草を平気で食べてゐる。その先きの川の中を見ると三十間〔六〇メートル弱〕程離れた水の上に、筏〈イカダ〉が一面に浮いてゐた。折から満潮〈マンチョウ〉であつたが私は思ひ切つて川の中に飛びこんで、筏の上に泳ぎつきこれに乗り移ると、もう商船学校には赤黒いものが立ち上つて燃えてゐる。その脇の相生橋〈アイオイバシ〉も燃え出したが誰れも消す者がない。
 筏の上から近くは深川、京橋方面、遠くは日本橋、本所〈ホンジョ〉方面を見ると、一面の火で天をこがしてゐる。その中〈ウチ〉に飛火して月島が焼け出した。午前三時頃になつて白い煙りが立ち始めた。私は漸く助つたのかとぼんやり思つたが、まだ嬉しいと云ふ感じがしない。
 間もなく東の空が白んで来た。筏の上に立つてゐた人々の顔も見えてきた。焼けた伝馬船〈テンマセン〉が、永代橋の方から沢山流れてくる。暁紅〈ギョウコウ〉が人々の横顔に輝き始めた。何れを見ても不安の影が漂つてゐる。私も永代橋付近に、もう五分間多くゐたなら、今頃は黒焼けにゐたであらう。その途端に思ひ出したのが、昨日別れた家族の安否であつた。助つたであらうか、今頃どこにゐるのであらうか、何となく案ぜられて困つた。
 干潮〈カンチョウ〉となつて筏伝へ〈イカダヅタエ〉に商船学校前の川岸に上つで見ると商船学校は全焼して跡形もない。昨夜路傍に青草を食べてゐた牛や馬は、何れも肉がむしり取られて骨許り〈バカリ〉となつてゐる。死んだから肉をとつたのか、殺して肉をとつたのが人の行為であつたとすれば人の心は浅ましいものだ、といやな気持になつた。私は急いで自宅に来た。家屋は丸焼けで金庫のみが残つてゐた。永代橋を渡つて銀座に来て見ると、ここの事務所も丸焼けで金庫が残つてゐた。只〈タダ〉前の軌道に電車が一台無事に残つてゐる。私はこの空電車〈カラデンシャ〉に一人乗つて焼け跡を眺めたり、考へごとをしてゐると、小さな荷物を持つたり、子供を脊負つたり又手をひいて行く人もあり、日本橋の方から来て新橋の方へ行つたり、またその反対の方向に歩いてゐる者もあつた。私は暫く行き交ふ人共を黙つて跳めてゐた。
 それから地震は大きな破壊力を持つてゐるものだと思つた。僅か半日でこんな大きな災害を惹起したが、財産を持つて働かないで贅沢する人々も、年中働いても尚生活に困つてゐる人々も、等しく鉄槌を受け財産を平均にしたり、頭の上らぬ正直な人々をいたはつたりするのも、天の配剤かと思つた。
 こう考へたので、元気が出て急いで砂町工場に行き、若し工場が焼けてゐたら九十九里浜の郷里に行つて百姓をして暮さう。その中にはまた何とかなるだらうと考へて急いで出掛けた。
 それから頭の中が明快になつた。足早に歩いて深川の猿江〈サルエ〉に来て見ると遥か先きに黒いものが残つてゐる。更に勇気が出て飛ぶやうに走つたが、工場の安全な姿がはつきりした。浦安から白米が三十俵届いてゐる。昨夜から罹災者に炊出しをしてゐたとの事であつた。
 内閣では後藤新平が内務大臣と復興局長官となつた。私は銀座に仮建築を始めた。その中に区画整理が出来て鉄骨建築に着手した。後藤の計画に批評を加へるものがあつた。毎年九月一日を震災記念日とした。東京の人々に大震災を忘れないやうにしようとする当局の計らひと思へる。しかし忘れないで用心許りしてゐては何事も出来ないが又「咽喉元〈ノドモト〉すぐれば熱さ忘れるとか」これ程の大犠牲を無意味としてはならない。「忘れるがよいか。忘れないのがよいか」この大試練に対する東京人の考はどうか。

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