礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問

2013-07-29 05:31:17 | 日記

◎西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問

 最近、近所の古本屋で、西部邁氏の『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)という本を入手した。その最後のほうに収められている「読売憲法改正試案を論ずる」は、その時代における氏の「日本国憲法」論である(初出は、一九九五年一月)。
 二〇年も前の論文について、今さら論評するというのもどうかと思ったが、いくつか指摘しておくべきだと思うことがあったので、以下に述べさせていただきたい。
 西部氏のこの論文は、次のような文章で締め括られている。

 最後に小生の立場を確認しておくと、改憲論者ではなく廃憲論者である。つまり成文憲法ではなくイギリスと同じく不文憲法のうちにおのれらの歴史的憲法感覚を確立するべきと考える。その意味においてならば、聖徳太子の十七条憲法や江戸の武家諸法度、明治大帝の五箇条の御誓文を経て大日本帝国憲法に至るまでの、日本人の憲法感覚の歴史的進展を国民が多様なレベルで議論し確認する、それこそが憲法の明日を決めるのである。

 引用してみて、「その意味においてならば」の「ならば」がどこにかかるのか、非常に気になったが、今、そのことにはこだわらない。「聖徳太子の十七条憲法や江戸の武家諸法度、明治大帝の五箇条の御誓文を経て大日本帝国憲法に至るまでの、日本人の憲法感覚の歴史的進展」という議論の建て方に、恐ろしく雑なものを感じたが、今はこの点も問わない。
 イギリス型の不文憲法を支持する立場から、「廃憲論」を唱えるという氏の主張は、一応理解できる。だとすると、明治政府関係者が、苦心の末、大日本帝国憲法を制定し、それが一九四七年(昭和二二)まで維持されたという歴史的事実をも否定する趣旨になるが、そう読んでよいのか。
 また、既存の成文憲法を廃止して、不文憲法という体制を採用した例が、かつてあったのか。あったとすれば、その例について言及すべきである。ドイツのワイマール憲法は、ナチスの全権委任法(一九三三)によって死文化したと言われるが、それ以降、ナチス崩壊までのドイツは、不文憲法の体制だったと捉えてよいのか。
 読んでいて、次から次へと疑問が生じるが、この論文の最大の弱点は、氏が、明治維新あるいは大日本帝国憲法をどのように捉えているかが、まったく見えてこないというところにあると思う。
 ともかく、西部氏の主張を聞こう。氏は、「読売憲法改正試案を論ずる」の第二節にあたる「歴史の知恵として発見されるイギリスの不文憲法」ところで、次のように述べている。

 憲法がその国の根本規範であるという意味は、いかなる国もそれなりの歴史を持つものである以上、歴史のなかから指し示されるその国のナショナルな性格というものを表現するものでなければならないということである。この点にこだわってみると、実は憲法論議を成文憲法から始めるということに大きな瑕疵〈カシ〉があることにまず気づくのである。
 つまり憲法には不文憲法と成文憲法という二種類があり、近代社会のほとんどの国は後者の成文憲法を創造する、発明するという形で近代へと突入した。その典型がフランス革命であり、その百三十年後のロシア革命であった。つまり成文憲法で国をつくり上げるという態度の根本には、過去の歴史のなかにその国民の欠陥や過誤のみをみる思考がある。それゆえに過去の歴史を否定した上で成文憲法を書き記すというやり方、それが近代における成文憲法の創造・発明という態度なのである。そうした態度は、その国の根本規範というものを歴史のなかからではなく、知識人・政治家・ジャーナリストその他のいわば観念のなかからつくり出そうとしているという意味で、歴史否定的な方向におもむくことは明白である。
 他方、イギリスにみられるような、不文憲法の立場というものは、国民の根本規範は特定の時代の、特定の世代の、特定の人物の、特定の能力において創造・発明されるものではなく、長い歴史のなかで徐々に蓄積・貯蔵されてきた歴史の知恵として発見される、とする見方のことにほかならない。【中略】
 日本は、イギリス以上に連続したかつ安定した歴史を持っていたわけであるから、イギリスよりもさらに重厚広汎な形での不文憲法を持とうと構えるべきであった。しかし、あの大東亜戦争あるいは太平洋戦争における無残な敗北のあまり、日本人はおのれらの歴史に自信を持たないもしくは持つべきでないという精神的外傷に襲われ、結局のところ憲法感覚を不文憲法として表現する道を捨てて外国仕込みの成文憲法におのれの魂を委ねてしまった。今の時代の転換点に当たって否定してかからねばならないのは、こうしたアメリカニズムへの長きにわたる拝跪〈ハイキ〉という戦後日本の悪しき風潮なのではないか。

 西部氏の「過去の歴史を否定した上で成文憲法を書き記すというやり方、それが近代における成文憲法の創造・発明という態度なのである」という指摘は、まさにその通りだと思う。明治維新によって成立した明治政府もまた、「過去の歴史」(この場合は、徳川封建体制)を否定し、西欧的な近代国家として、急速にみずからの国家体制を整えていった。そうした過程の中で、大日本帝国憲法の制定もあった。
 西部氏の考察は、戦後の日本国憲法のみを対象としていて、明治期の日本がおかれた立場と大日本帝国憲法の成立には及んでいない。というより、明治国家そのもの、大日本帝国憲法そのものを否定する趣旨になるが、それでよいのか。西部氏は、明治期の日本に、「不文憲法」を選択する道があったと考えておられるのか。氏は、明治憲法が「外国仕込みの成文憲法」と捉えているのか。そう捉えるがゆえに、明治憲法を否定するという立場に立つのか。【この話、続く】

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1 コメント

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Unknown ( 金子)
2013-07-29 22:42:17
 日本のいわゆる保守の論客は(保守政治家も含めて)あまり日本の伝統ということをことさら強調する割にはあまり歴史に忠実に取材せず、勝手なイメージで語っている場合が多いようです。

 小沢一郎や小泉純一郎も結局、イギリスの議会政治が一番すぐれているなどと100年前の岩倉使節団と同じ思考回路をしています。何故、議会制民主主義が普遍的で日本に向いているという保障がどこにあるのでしょうか?西部氏の考えもその延長線上にあると思います。大体、アメリカを批判する時はイギリス側に立って言っています。
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