◎大野晋さんの話は素人受けしやすい
田中克彦さんの『ことばは国家を超える』(ちくま新書、2021)を紹介している。
本日は、その三回目(最後)で、第四章の「Ⅰ」から、大野晋の著書について語っている部分を紹介してみたい。
†大野さんのスタイル
大野さんの著書にはよくあることだが、その説の提唱者、発明者のことにふれることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどん話が進められるのである。だから大野さんの話はしろうと受けしやすいのである。ことばについてしろうとという点で最たる人たちは作家である。たぶんこれは大野さんが親しくつきあわれたらしい作家たちのよくない習慣に学んだものではないかと思う。作家という名を帯びる人たちは研究者たちの仕事から多くのヒントを得ながらも、決してそれには言及しないという文芸世界特有の流儀が身についているらしいのである。
それからまた大野さんには、単に「著者」という立場を超えた、一種「エディター(編集者)気質」のようなものが感じられる。それは自分の手で研究し開発したというよりも、近隣の畑から気に入った野菜を集めてきて、楽しい料理を作ってしまうわざにたとえられよう。その気軽な気質が、自分のとは異なるいろいろな専門の研究室を渡り歩いて必要な知識を集めるという作業に向いているのであろう。いまのような時代は、たぶん大学の研究室はそんな開放的な雰囲気はないと思う。しかし一九五七年頃の学生には、大野さんの話されるふるまいは、うらやましいような自由さがみなぎっているように思われた。
この編集者的な著作は最近はずっと増えてきた。もちろん集積される材料は、自ら、外国語の原典から集めたオリジナルな資料ではなく、たいていは日本語に翻訳された材料ばかりである。今日、いかに多くの著作が、自らの著述というよりも編集によって成り立っているかは今日しばしば見かけるとおりである。五〇〇頁でも六〇〇頁でもこえる気の遠くなるような著作がキカイのおかげであっという間に書けてしまうからであろう。読んでみると、まるで百科辞典のように、知識を集めた物知り本である。【以下、略】〈156~157ページ〉
最初のところで、田中克彦さんは、大野晋の著書について、「その説の提唱者、発明者のことにふれることは一言もなく、まるで全部がご自身の発明かのようにしてどんどん話が進められる」ということを述べている。これは鋭い指摘である。要するに田中さんは、大野晋の著書のスタイルは、学問的に問題があると指摘したかったのだと思う。
昨年11月24日の当ブログに私は、〝「一型アクセント地帯」の成立に関する大野仮説〟という記事を寄せた。そこで私は、大野晋の『日本語の源流を求めて』の記述中、「気になった箇所」について述べた。
以下、同日の記事を抄出する。
今回、大野晋の『日本語の源流を求めて』を再読して、最も気になったのは、大野がいわゆる「一型(いっけい)アクセント」の成立についての仮説を提示し、その仮説に基づいて、「ヤマトコトバ」が普及していった過程を説明しようとしている箇所である。
結論から言えば、大野は、この本において、「一型アクセント」に言及する必要はなかった。「ヤマトコトバ」の普及過程を説明するのに、「一型アクセント」を持ち出すべきではなかった。同書を担当した岩波書店の編集者は、この点について、大野に助言すべきであった。
【中略】
さて、大野は、二番目に引用した部分のすぐあとで、次のように述べている。太字は引用者による。
《 「一型アクセント地帯」については、全く異なる言語、あるいは異なるアクセント体系をもつ二つの言語地域が接触する地帯で人々のアクセント意識が曖昧になり、定型のアクセントを正確に守らず、曖昧に発音するようになって、やがて一型アクセント化するといわれている。隼人語を話していた人々とヤマトコトバ族とが接触したためにそこに暖昧アクセントを生じ、さらに進んで一型アクセント地帯を生じたのではないかと私は想像している。
茨城・栃木・福島・宮城にわたる地域では、その北にアイヌ語があった。九州では南端に隼人語があった。日本の北と南とに広い一型アクセント地帯があり、それがヤマトコトバとアイヌ語、ヤマトコトバと隼人語の接触地帯に生じているのは、同じ原因によって同じ現象が生じたのだろうという推測を導く。
この考えはなお深い考察を要するが、一つの試案として提出しておきたい。〈258ページ〉 》
ここで大野は、日本における「一型アクセント」の成立、「一型アクセント地帯」の成立について、ひとつの仮説を立てている。この大野仮説には、大きな問題がある。
第一に、「やがて一型アクセント化するといわれている」とあるが、誰が、いつ、そのような説を述べているのかを示していない。また、その説に信憑性があるのかどうかについても言及がない。
【中略】
大野晋は、日本語のアクセントには詳しくなかったのだと思う。にもかわらず彼は、一型アクセントについての、信憑性に欠ける知見に基づき、「想像」や「推測」に従って、「試案」を示している。その「試案」に関わる数ページは、本書『日本語の源流を求めて』において、最も弱い部分である。あえて述べる必要のない部分であったと思う。【以下、略】
以上、昨年11月24日の記事であった。ここで私は、大野晋の著書には、出所不明の知見に基づいて、想像や推測に従って論理を展開するという難点がある、と言おうとしたのであった。
このブログを書いたときには、まだ、田中克彦さんの『ことばは国家を超える』を読んでいなかった。その後、同書を一読し、「大野さんのスタイル」に関する指摘に接したとき、ハタと膝を打った。そして、大野晋の「学問」には、やはり問題がある、という感を深めたのであった。
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