◎石油罐の中味は調べても見なかった(高倉盛雄)
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)=「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、吉野宗一執筆の記事「チャンドラ・ボースの死因と財宝」を紹介している。本日は、その三回目。
ボ ー ス 横 死
日本敗戦の報を、チャンドラ・ボースは、台北で聞いた。しかし日本にはインド独立のために、これまでも助力を借しまなかった親しい友人が幾人か待っていてくれるに違いない。
―再起の時期を待とう。
チャンドラ・ボースは決して失望落胆しなかった。彼の背後には独立の日を熱望しているインド民族の輝ける瞳が光っている。それをボースはひしひしと心に感じとっていた。
日本軍も彼のために待別輸送機を仕立ててくれた。
そして、八月十八日の暁闇をついての出発となったのだった。
これが運命の日だったのである。
燃え上る飛行機に駆けよった人人は、異臭をつくガソリンと紅蓮〈グレン〉の焔につつまれていた。
その間の経緯を私はシンガポールにあって、直接に見聞していただけに、この突然の惨事に呆然〈ボウゼン〉としてしまったのだ。
必死の消火作業はつづけられ、猛火の中から大火傷〈オオヤケド〉を負ったボースの身体〈カラダ〉が運び出され、直ちに台北の陸軍病院南門分院に収容されて、院長の吉見胤義軍医大尉の手当を受けた。
ボースに同行していた副官ラーマン大佐は、敢なく〈アエナク〉も焼死を遂げた。無任所大臣サビグレナンは右手を火傷した。
ボースの手当は夜の十一時近くまで続けられたが、最早その甲斐はなかった。
敗戦の慌しさの中に、それでも鄭重にポースの遺骸は荼毘〈ダビ〉にふされた。
その遺骨と彼の携行していたトランク在中の宝石や貴金属は、改めて石油罐二箱に詰められて、東京へ送られたのだ。
インド独立国民軍司令官チャンドラ・ボースは、全くあッと云う間もなく、その雄図〈ユウト〉を胸中深くに秘めて他界したのだった。
「ボース氏の遺骨と遺品が大本営へ到着したのは九月七日で、当時大本営第二部第八課に勤務していた私の手に渡された。そして、その翌日、私は在日インド独立連盟東京支部長ムルテイ氏に引渡した。その時渡した石油罐の中味は調べても見なかったが、金の延棒〈ノベボウ〉にダイヤなどだったとは、後で聞かされた。当時のわれわれは敗戦の後始末に寧日〈ネイジツ〉もなく、おまけに東条〔英機〕大将の自決事件などがあって、今にして思えは何か手落ちがあったように思える」と、元陸軍中佐高倉盛雄は語っている。〈149~150ページ〉【以下、次回】
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)=「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、吉野宗一執筆の記事「チャンドラ・ボースの死因と財宝」を紹介している。本日は、その三回目。
ボ ー ス 横 死
日本敗戦の報を、チャンドラ・ボースは、台北で聞いた。しかし日本にはインド独立のために、これまでも助力を借しまなかった親しい友人が幾人か待っていてくれるに違いない。
―再起の時期を待とう。
チャンドラ・ボースは決して失望落胆しなかった。彼の背後には独立の日を熱望しているインド民族の輝ける瞳が光っている。それをボースはひしひしと心に感じとっていた。
日本軍も彼のために待別輸送機を仕立ててくれた。
そして、八月十八日の暁闇をついての出発となったのだった。
これが運命の日だったのである。
燃え上る飛行機に駆けよった人人は、異臭をつくガソリンと紅蓮〈グレン〉の焔につつまれていた。
その間の経緯を私はシンガポールにあって、直接に見聞していただけに、この突然の惨事に呆然〈ボウゼン〉としてしまったのだ。
必死の消火作業はつづけられ、猛火の中から大火傷〈オオヤケド〉を負ったボースの身体〈カラダ〉が運び出され、直ちに台北の陸軍病院南門分院に収容されて、院長の吉見胤義軍医大尉の手当を受けた。
ボースに同行していた副官ラーマン大佐は、敢なく〈アエナク〉も焼死を遂げた。無任所大臣サビグレナンは右手を火傷した。
ボースの手当は夜の十一時近くまで続けられたが、最早その甲斐はなかった。
敗戦の慌しさの中に、それでも鄭重にポースの遺骸は荼毘〈ダビ〉にふされた。
その遺骨と彼の携行していたトランク在中の宝石や貴金属は、改めて石油罐二箱に詰められて、東京へ送られたのだ。
インド独立国民軍司令官チャンドラ・ボースは、全くあッと云う間もなく、その雄図〈ユウト〉を胸中深くに秘めて他界したのだった。
「ボース氏の遺骨と遺品が大本営へ到着したのは九月七日で、当時大本営第二部第八課に勤務していた私の手に渡された。そして、その翌日、私は在日インド独立連盟東京支部長ムルテイ氏に引渡した。その時渡した石油罐の中味は調べても見なかったが、金の延棒〈ノベボウ〉にダイヤなどだったとは、後で聞かされた。当時のわれわれは敗戦の後始末に寧日〈ネイジツ〉もなく、おまけに東条〔英機〕大将の自決事件などがあって、今にして思えは何か手落ちがあったように思える」と、元陸軍中佐高倉盛雄は語っている。〈149~150ページ〉【以下、次回】
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