◎重光外相を中心とする外務省幹部の「希望観測」
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
「枢軸礼讃」外交の悲劇
それは、右にのべた、当時の藁をもつかみたい気持ちに多分に支配されたによるものであるが、しかしなんといってもそのいちばん大きな原因は、それだけにこの時期に大切な国際情勢を適確に判断する見識に欠けるところがあったからによるものであった。ではそれはどこからきたか。
それは、今の「自由国家礼讃」と軌を一〈イツ〉にする当時の「枢軸礼讃」外交の国際情勢にたいする「読み」の「狭さ」である。いいかえると、枢軸ドイツの「不敗」を「盲信」する日本外交が、世界の情勢の発展を正しくつかむことができなかったからによるものである。すなわち日本外交が柄軸ドイツの「不敗」を「盲信」する結果、今次の大戦が、米英軍がイタリアに上陸し、イタリアが枢軸から脱落して以来、その様相をかえたこと、すなわちそれはもはや米英ソの対枢軸戦ではなくなり、じつはすでにドイツ、ひいては日本の敗北を前提としたソ連と米英の熾烈な争覇戦に転化したことを、したがってソ連はアジアにおいても、米英、ことにアメリカが、日本ひいては中国を独占支配し、その結果、その銃先き〔ママ〕が直接ソ連の国境に突きつけられる事態がおこることを座視するはずがないことを、見ぬくことができなかったによるものである。そして私が想定したソ連の早期対日参戦すなわち、日本の対米敗北(それはもはや明白であった)の可能性は、まさにこのような戦争の様相の変化、国際情勢の発展を基礎とするものだったのである。そしてそれを裏づけるものとして枢軸国との戦争を相手の無条件降伏まで「共同して」遂行することを明らかにした一九四三年(昭和十八年)十月三十日の米英ソのモクワ共同宣言、その発展としてはじめて日本を「侵略者」と規定した一九四四年十一月六日の革命記念前夜祭のスターリン首相の演説をあげることができたのである。そしてソ連の日ソ中立条約廃棄の通告は、まさにこのスターリンの言明をうけてなされたのである。だからそれはソ連が対日参戦を意図し、そのためになされた手続とみるべきだったのである。だが重光〔葵〕外相を中心とする外務省幹部の右の会議は、これを全く「反対」に「希望観測」したのである。まさに小田原評定以下で、「枢軸礼讃」の片寄った判断のしからしめるところである。
このため日本は、事もあろうに、米英との斡旋をソ連に依頼するため、近衛〔文麿〕を特使に仕立ててモスクワに派遣方を申入れるという大失敗を仕でかし、そしてソ連が参戦するや周章狼狽し、強剛を誇った関東軍も不意をうたれてひとたまりもなく手をあげるという醜態をさらけだしたのである。〈95~96ページ〉【以下、次回】
文中、「銃先き」は、原文のまま。あるいは、「鉾先き」の誤植か。
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
「枢軸礼讃」外交の悲劇
それは、右にのべた、当時の藁をもつかみたい気持ちに多分に支配されたによるものであるが、しかしなんといってもそのいちばん大きな原因は、それだけにこの時期に大切な国際情勢を適確に判断する見識に欠けるところがあったからによるものであった。ではそれはどこからきたか。
それは、今の「自由国家礼讃」と軌を一〈イツ〉にする当時の「枢軸礼讃」外交の国際情勢にたいする「読み」の「狭さ」である。いいかえると、枢軸ドイツの「不敗」を「盲信」する日本外交が、世界の情勢の発展を正しくつかむことができなかったからによるものである。すなわち日本外交が柄軸ドイツの「不敗」を「盲信」する結果、今次の大戦が、米英軍がイタリアに上陸し、イタリアが枢軸から脱落して以来、その様相をかえたこと、すなわちそれはもはや米英ソの対枢軸戦ではなくなり、じつはすでにドイツ、ひいては日本の敗北を前提としたソ連と米英の熾烈な争覇戦に転化したことを、したがってソ連はアジアにおいても、米英、ことにアメリカが、日本ひいては中国を独占支配し、その結果、その銃先き〔ママ〕が直接ソ連の国境に突きつけられる事態がおこることを座視するはずがないことを、見ぬくことができなかったによるものである。そして私が想定したソ連の早期対日参戦すなわち、日本の対米敗北(それはもはや明白であった)の可能性は、まさにこのような戦争の様相の変化、国際情勢の発展を基礎とするものだったのである。そしてそれを裏づけるものとして枢軸国との戦争を相手の無条件降伏まで「共同して」遂行することを明らかにした一九四三年(昭和十八年)十月三十日の米英ソのモクワ共同宣言、その発展としてはじめて日本を「侵略者」と規定した一九四四年十一月六日の革命記念前夜祭のスターリン首相の演説をあげることができたのである。そしてソ連の日ソ中立条約廃棄の通告は、まさにこのスターリンの言明をうけてなされたのである。だからそれはソ連が対日参戦を意図し、そのためになされた手続とみるべきだったのである。だが重光〔葵〕外相を中心とする外務省幹部の右の会議は、これを全く「反対」に「希望観測」したのである。まさに小田原評定以下で、「枢軸礼讃」の片寄った判断のしからしめるところである。
このため日本は、事もあろうに、米英との斡旋をソ連に依頼するため、近衛〔文麿〕を特使に仕立ててモスクワに派遣方を申入れるという大失敗を仕でかし、そしてソ連が参戦するや周章狼狽し、強剛を誇った関東軍も不意をうたれてひとたまりもなく手をあげるという醜態をさらけだしたのである。〈95~96ページ〉【以下、次回】
文中、「銃先き」は、原文のまま。あるいは、「鉾先き」の誤植か。
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