◎松岡外相は、ひそかにスターリンと会見した(前芝確三)
今月の11日から14日にかけて、尾形昭二の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という文章を紹介した。尾形昭二は、日ソ中立条約の締結時に、外務省調査局ソ連課長を務めていた人物である。
その後、たまたま前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)という本を手にしたところ、そこにも「日ソ中立条約」についての記述があった。同書のうち、「スターリン・松岡会談」の章を、何回かに分けて紹介したい。
『体験的昭和史』は、ジャーナリストの前芝確三と歴史学者の奈良本辰也の対談を記録したもので、前芝確三が主たる発言者である。日ソ中立条約締結時における前芝確三の肩書きは、毎日新聞モスクワ特派員。
スターリン・松岡会談
――日ソ中立条約――
前芝 二千六百年のお祝いの直前に日独伊軍事同盟が結ばれたんだが、年があけて昭和十六年〔1941〕になると、三月に松岡〔洋右〕外相が、同盟が結ばれたあいさつという触れ込みで独伊を訪問する。そのときに随員の中にいま北京にいる西園寺公一〈サイオンジ・キンカズ〉君がいた。どういうわけで彼が随員の一人に選ばれたのか、私もはっきり知らないんだが、近衛〔文麿〕首相との連絡係りではなかったかとも思います。妙な因縁で戦後、たしか昭和二十九年〔1954〕だったと思うが、西園寺君が京都市長選挙に立候補したとき、私は介添役のような役割をつとめさせられたものです。
ところで松岡さんだが、ドイツへいく前にモスクワで、ドイツ行きの列車に乗り替えるあいだの時間を利用して、実はひそかにスターリンと会見したんです。これは独伊に対する儀礼上極秘にしていたんだが、スターリンと会断して日ソ中立条約の瀬踏みをした上で独伊へむかった。ヒトラーやムッソリーニにあう前に、スターリンとあったということ、これは非常に重要な事実ですよ。こうしておいて松岡さんは独伊を訪問した帰りに、四月になってもう一度モスクワに立ち寄る。そしてそこに一週間ばかり腰を据えて、ついに日ソ中立条約をものにしたというわけです。
この交渉にもいろいろないきさつがあったが、交渉が相当煮詰まったと思われる頃、四月の十日に、松岡さんは息抜きに、ちょっとレニングラードへ行きたいといい出し、私もついていったんです。モスクワを夜行の寝台車で出発したんだが、あくる朝、朝食をいっしょに食わないかという誘いがかかってきたので、私は食堂車へ出ていった。そこで松岡さんは朝飯を食べながら、独伊の印象を話しはじめたものです。「ドイツはどうでしたか」とたずねると、「もちろん非常な大歓迎だったが、底になにか冷たいものがあったよ。ムッソリーニの方は実にフランクだったが、ヒトラーやリッペントロップにはなのか冷たいものを感じたね」と、ひょっこり、もらしたものです。そして残雪がキラキラ朝日に輝く窓の外に目をやりながら、「どうも北へくるほど天気がよくなるようだ」というんです。私はそのひとことで、これじゃ条約はできるな、とピンときたわけです。その日はレニングラードでいろんなところを見物したが、松岡さんが非常な関心を示し、一度たち去りかけてからまたひき返して見たのは、「ピオネール宮殿」でした。それはもと王室の使っていた大きな建物を改装して、学校から帰りに小さな子供たちがきて、両親が働いて帰るまで有効に余暇を過ごす、つまり楽しみながら勉強したり遊んだりしているうちに、共産主義的な人間形成の土台をつくる場所なんです。だいたいコムソモール(青年共産党員)がチューターをやっていました。「これは日本でも学ばなきゃいかん」といって、松岡さんはしきりに感心していた。まさか共産主義教育まで学ぼうというわけではないだろうけど……(笑) その夜有名なレニングラードのキーロフ劇場のバレーを見て、翌日帰ってきたと思ったら、もうそのあくる日はすぐ調印でした。〈223~225ページ〉【以下、次回】
今月の11日から14日にかけて、尾形昭二の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という文章を紹介した。尾形昭二は、日ソ中立条約の締結時に、外務省調査局ソ連課長を務めていた人物である。
その後、たまたま前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)という本を手にしたところ、そこにも「日ソ中立条約」についての記述があった。同書のうち、「スターリン・松岡会談」の章を、何回かに分けて紹介したい。
『体験的昭和史』は、ジャーナリストの前芝確三と歴史学者の奈良本辰也の対談を記録したもので、前芝確三が主たる発言者である。日ソ中立条約締結時における前芝確三の肩書きは、毎日新聞モスクワ特派員。
スターリン・松岡会談
――日ソ中立条約――
前芝 二千六百年のお祝いの直前に日独伊軍事同盟が結ばれたんだが、年があけて昭和十六年〔1941〕になると、三月に松岡〔洋右〕外相が、同盟が結ばれたあいさつという触れ込みで独伊を訪問する。そのときに随員の中にいま北京にいる西園寺公一〈サイオンジ・キンカズ〉君がいた。どういうわけで彼が随員の一人に選ばれたのか、私もはっきり知らないんだが、近衛〔文麿〕首相との連絡係りではなかったかとも思います。妙な因縁で戦後、たしか昭和二十九年〔1954〕だったと思うが、西園寺君が京都市長選挙に立候補したとき、私は介添役のような役割をつとめさせられたものです。
ところで松岡さんだが、ドイツへいく前にモスクワで、ドイツ行きの列車に乗り替えるあいだの時間を利用して、実はひそかにスターリンと会見したんです。これは独伊に対する儀礼上極秘にしていたんだが、スターリンと会断して日ソ中立条約の瀬踏みをした上で独伊へむかった。ヒトラーやムッソリーニにあう前に、スターリンとあったということ、これは非常に重要な事実ですよ。こうしておいて松岡さんは独伊を訪問した帰りに、四月になってもう一度モスクワに立ち寄る。そしてそこに一週間ばかり腰を据えて、ついに日ソ中立条約をものにしたというわけです。
この交渉にもいろいろないきさつがあったが、交渉が相当煮詰まったと思われる頃、四月の十日に、松岡さんは息抜きに、ちょっとレニングラードへ行きたいといい出し、私もついていったんです。モスクワを夜行の寝台車で出発したんだが、あくる朝、朝食をいっしょに食わないかという誘いがかかってきたので、私は食堂車へ出ていった。そこで松岡さんは朝飯を食べながら、独伊の印象を話しはじめたものです。「ドイツはどうでしたか」とたずねると、「もちろん非常な大歓迎だったが、底になにか冷たいものがあったよ。ムッソリーニの方は実にフランクだったが、ヒトラーやリッペントロップにはなのか冷たいものを感じたね」と、ひょっこり、もらしたものです。そして残雪がキラキラ朝日に輝く窓の外に目をやりながら、「どうも北へくるほど天気がよくなるようだ」というんです。私はそのひとことで、これじゃ条約はできるな、とピンときたわけです。その日はレニングラードでいろんなところを見物したが、松岡さんが非常な関心を示し、一度たち去りかけてからまたひき返して見たのは、「ピオネール宮殿」でした。それはもと王室の使っていた大きな建物を改装して、学校から帰りに小さな子供たちがきて、両親が働いて帰るまで有効に余暇を過ごす、つまり楽しみながら勉強したり遊んだりしているうちに、共産主義的な人間形成の土台をつくる場所なんです。だいたいコムソモール(青年共産党員)がチューターをやっていました。「これは日本でも学ばなきゃいかん」といって、松岡さんはしきりに感心していた。まさか共産主義教育まで学ぼうというわけではないだろうけど……(笑) その夜有名なレニングラードのキーロフ劇場のバレーを見て、翌日帰ってきたと思ったら、もうそのあくる日はすぐ調印でした。〈223~225ページ〉【以下、次回】
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