◎ドイツ機の残骸の上にあがって中をのぞいてみた(前芝確三)
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「モスクワ攻防戦」の章を紹介している。本日は、その後半。
それからずいぶんたくさんのドイツ機を、搫墜したようにいうが、本当かという質問が情報局の記者会見で外国記者団から出た。ウソだと思ぅなら見せてやろうというわけで、ある日撃墜したドイツ機の残骸をそのままにしておいて、車でぐるっとモスクワの周辺を回って見せてくれた。死屍累々、いや残骸累々です。そのとき私は撃墜されたドイツ機の上にあがってなかをのぞいてみた。ところが、あくる日のプラウダを見ると、私がドイツ機の残骸の上にあがっている写真が説明入りでのっている。いうまでもなく、当時日本はドイツの盟邦でしょう、その盟邦の特派員が、ドイツ機の残骸の上にあがっているのだから、これほど的確な証拠はないというわけです。これには一本まいったね。(笑)
そんなことで、夏の間は空襲もだんだん間遠【まど】うになるし、レニングラード、キエフ、オデッサなどの攻防戦や、モスクワのはるか西方では死闘が展開されていたが、モスクワ市中は割に平静でした。ところが秋が迫ってくるとともに、ドイツ軍はモスクワ正面に必死の攻撃をかけてきた、そのときはもう空軍と地上部隊の緊密な連携作戦で、一挙に中央突破をめざす猛烈な攻勢です。当時のモスクワには実に悲壮な切迫感がみなぎっていた。モスクワ防衛司令部は「各ビルを要塞に、各窓を銃眼に」という布告を出す。市民の間では「ナポレオンには焼け野原、ヒトラーめには瓦礫の山」などという調子のいいスローガンが叫ばれる、ヒトラーの軍隊がはいってくるなら、最後まで戦い、撤退するときには、みずからモスクワ全市を爆破しようというわけだ。実際そういう決意だったようです。去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが、あれを読んでみれば、それがどんなに捨て身の惨烈な防衛戦だったかがわかるでしょう。
十月上旬には、モスクワに対する半円形の包囲態勢がますます圧縮されてくる。モスクワでは老幼婦女子の疎開が行なわれはじめた。しかし、戦闘力のある市民はすべて踏みとどまって戦え、というわけです。七月三日のスターリンのアピールにこたえて、すでにゲリラ戦の訓練は市内の公園や郊外の草原で行なわれていたのでした。私はしばしばその訓練をみたが、一見きわめて、のんきなものです。モスクワの八月初旬はまだ相当暑い。訓練に参加している市民たちは、ほとんど上半身裸で、なかには新聞紙を折ってつくったかぶとみたいな帽子をちょこんと頭にのっけてるのもいる。そうした連中が、小銃をかついでワッショ、ワッショとやってるんです。手投げ弾を投げるけいこもやっていた、ドイツの戦車が市中に突入してきた場合、窓から火炎びんを投げてそれを爆破する訓練もしきりにやっていました。私は、ドイツの歯まで武装した機械化部隊に、紙の帽子などかぶったゲリラがどの程度立ちむかえるかと、はなはだ心もとなく思いながら見ていた。しかし地方の戦場では、ゲリラが後方攪乱に着々と成果を上げているらしい。そのとき私がはじめて気づいたのは、ソ連の農業の機械化、これが相当モノをいったということです。ソ連にはトラクターやコンバインの操縦技術、修理能力を身につけたコルホーズ農民がかなりいる、そうした連中がドイツ軍が遺棄した戦車を手早く修理し、それに乗っかって、ドイツ軍部隊の後方に、あるいは空軍基地に突っ込む。こうして、相当の戦果をあげていたんです。しかしモスクワの危機は刻々せまってくる。
「モスクワ攻防戦」の章は、ここまで。
文中に、「去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが」とある。前芝・奈良本対談があった年がハッキリしないが、仮に1968年とすると、ジューコフ元帥が「モスクワ攻防戦の回顧録」を書いたのは、1967年ということになる。
『体験的昭和史』(雄渾社、1968)という本は、なかなか興味深い本で、さらに紹介を続けたいと思っているが、明日は、いったん話題を変える。
前芝確三・奈良本辰也著『体験的昭和史』(雄渾社、1968)から、「モスクワ攻防戦」の章を紹介している。本日は、その後半。
それからずいぶんたくさんのドイツ機を、搫墜したようにいうが、本当かという質問が情報局の記者会見で外国記者団から出た。ウソだと思ぅなら見せてやろうというわけで、ある日撃墜したドイツ機の残骸をそのままにしておいて、車でぐるっとモスクワの周辺を回って見せてくれた。死屍累々、いや残骸累々です。そのとき私は撃墜されたドイツ機の上にあがってなかをのぞいてみた。ところが、あくる日のプラウダを見ると、私がドイツ機の残骸の上にあがっている写真が説明入りでのっている。いうまでもなく、当時日本はドイツの盟邦でしょう、その盟邦の特派員が、ドイツ機の残骸の上にあがっているのだから、これほど的確な証拠はないというわけです。これには一本まいったね。(笑)
そんなことで、夏の間は空襲もだんだん間遠【まど】うになるし、レニングラード、キエフ、オデッサなどの攻防戦や、モスクワのはるか西方では死闘が展開されていたが、モスクワ市中は割に平静でした。ところが秋が迫ってくるとともに、ドイツ軍はモスクワ正面に必死の攻撃をかけてきた、そのときはもう空軍と地上部隊の緊密な連携作戦で、一挙に中央突破をめざす猛烈な攻勢です。当時のモスクワには実に悲壮な切迫感がみなぎっていた。モスクワ防衛司令部は「各ビルを要塞に、各窓を銃眼に」という布告を出す。市民の間では「ナポレオンには焼け野原、ヒトラーめには瓦礫の山」などという調子のいいスローガンが叫ばれる、ヒトラーの軍隊がはいってくるなら、最後まで戦い、撤退するときには、みずからモスクワ全市を爆破しようというわけだ。実際そういう決意だったようです。去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが、あれを読んでみれば、それがどんなに捨て身の惨烈な防衛戦だったかがわかるでしょう。
十月上旬には、モスクワに対する半円形の包囲態勢がますます圧縮されてくる。モスクワでは老幼婦女子の疎開が行なわれはじめた。しかし、戦闘力のある市民はすべて踏みとどまって戦え、というわけです。七月三日のスターリンのアピールにこたえて、すでにゲリラ戦の訓練は市内の公園や郊外の草原で行なわれていたのでした。私はしばしばその訓練をみたが、一見きわめて、のんきなものです。モスクワの八月初旬はまだ相当暑い。訓練に参加している市民たちは、ほとんど上半身裸で、なかには新聞紙を折ってつくったかぶとみたいな帽子をちょこんと頭にのっけてるのもいる。そうした連中が、小銃をかついでワッショ、ワッショとやってるんです。手投げ弾を投げるけいこもやっていた、ドイツの戦車が市中に突入してきた場合、窓から火炎びんを投げてそれを爆破する訓練もしきりにやっていました。私は、ドイツの歯まで武装した機械化部隊に、紙の帽子などかぶったゲリラがどの程度立ちむかえるかと、はなはだ心もとなく思いながら見ていた。しかし地方の戦場では、ゲリラが後方攪乱に着々と成果を上げているらしい。そのとき私がはじめて気づいたのは、ソ連の農業の機械化、これが相当モノをいったということです。ソ連にはトラクターやコンバインの操縦技術、修理能力を身につけたコルホーズ農民がかなりいる、そうした連中がドイツ軍が遺棄した戦車を手早く修理し、それに乗っかって、ドイツ軍部隊の後方に、あるいは空軍基地に突っ込む。こうして、相当の戦果をあげていたんです。しかしモスクワの危機は刻々せまってくる。
「モスクワ攻防戦」の章は、ここまで。
文中に、「去年ジューコフ元帥が、モスクワ攻防戦の回顧録を書いたが」とある。前芝・奈良本対談があった年がハッキリしないが、仮に1968年とすると、ジューコフ元帥が「モスクワ攻防戦の回顧録」を書いたのは、1967年ということになる。
『体験的昭和史』(雄渾社、1968)という本は、なかなか興味深い本で、さらに紹介を続けたいと思っているが、明日は、いったん話題を変える。
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