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K-CUSTOM~「EBBRO-エブロ・hpi」ミニカーマニアでいこう!~

EBBRO-エブロ・hpiのミニカー紹介、愛車にまつわるエトセトラ
クルマ、バイク、チャリ。ヒトと同じじゃつまらナイ!

深紅のレーシングフェラーリ「迷走」

2005-12-16 23:51:05 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ126 C4 カーナンバー27」です。

1982、1983年と2年連続コンストラクターズ・チャンピオンを防衛したフェラーリチームでしたが、ドライバーズ・チャンピオンには今一歩及ばずにいました。
1984年シーズンは、それまでエースだったパトリック・タンベイがルノーチームに移籍。
代わりにティレルで活躍していた若手有望株のミケーレ・アルボレートが加入。フェラーリにとって1973年312B3を駆ったアルトゥーロ・メルザリオ以来のイタリア人ドライバーとなりました。

フェラーリチームの84年シーズン用のニューマシーンが126C4です。
しかし実際は前年型のC3からあまり進歩しておらず、上下2ピースで構成されるモノコックのアンダー・タブはC3と全く同一でアッパー・タブが若干異なる程度でした。
フェラーリの公表では、83年に比べてエンジン重量は10%軽量化されトランスミッションも軽量化し、車体の重心を下げることによりハンドリングとトラクション性能の向上を狙ったとされています。

シーズン序盤は、他のトップチームの多くがカーボンファイバーのブレーキローターを採用していたのに対し、フェラーリは引き続き従来の鋳鉄製ローターを使用していました。
そのため増大したターボパワーにブレーキが耐えきれず、ブレーキトラブルが多発しました。またラジエターのレイアウトにも問題があり、ラジエターを通過した熱い空気が燃料を温めてしまい、パーコレーションを引き起こすなどの不具合が発生するなどマシンの熟成にかなり手間取っていました。

シーズン後半になっても状態は変わらず、マシン開発の方向性が失われてしまいサスペンションやラジエター・レイアウトなどの変更がたびたび行われていました。
ラジエター・レイアウトを改良、ポンツーンにマクラーレンのようなコークボトルライン形状を取り入れた後期型も126C4となります。
迷走のシーズンは期待のイタリア人ドライバー、ミケーレ・アルボレートがベルギーGPで一勝を挙げるに留まりました。

深紅のレーシングフェラーリ「栄光から屈辱」

2005-12-15 23:39:17 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ312T4 カーナンバー12」です。

1979年、フェラーリ初のウィングカー312T4がデビューしました。
デザイナーはM・フォルギエリ。
幅広のフロントセクションや独特のフロントウィングマウント等、グランドエフェクトを得るための工夫が随所に見られます。
エンジンは一般的ボクサーエンジンとは異なる、フェラーリ独自の水平対向12気筒2991cc。
トランスミッションはオリジナル5速横置。
個性的なエンジンは幅が広く、ウィングカーのデザイン上サイドポンツーン際のサイドウィングと干渉してしまい、ウィングカーとしては決して優れたマシンとは言えませんでした。
しかし、熟成された12気筒エンジンのパワーに助けられシーズン中盤まで他のチームを圧倒しました。

1979年シーズンはロータス、マクラーレンなどの強豪イギリス勢が不調でフランスGPまでに優勝を獲得していたチームは、フェラーリとリジェだけでした。
シーズン中盤のフランスGP以降は、F1史上初のレーシングターボエンジンを熟成させたルノーと、優れたウィングカーを擁するウィリアムズ勢に苦戦を強いられましたが、それまでにジル・ビルヌーブ、シェクターが共に3勝していました。
そして注目のワールドチャンピオンには、着実にポイントを稼いだジョディ・シェクターが輝きました。

この年、フェラーリはドライバーズ・チャンピオンシップで1-2を獲得。更にコンストラクターズ・チャンピオンも獲得するなど、1979年のグランプリを完全制覇しました。
まさに、フェラーリチームは完全無欠の王者となったのでした。
ところが、次にタイトルを獲得するのは実に21年後。2000年のミハエル・シューマッハまで待たなければなりません。
これほどの長きに渡り、フェラーリチームが屈辱を味わい続けるなどとは、この時ダレも予想しなかったでしょう。

深紅のレーシングフェラーリ「代償」

2005-12-14 23:04:48 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ126 C2 カーナンバー28」です。

このマシーンをドライブしたのはフランス人のディディエ・ピローニ。
F3、F2を経て1978年にティレルからF1にデビュー。この年はルノーからル・マン24時間レースにも出走し優勝。2年間ティレルに在籍したものの最高位は3位。
1980年からフランスに本拠を置くリジェに移籍しました。ここではF1キャリアで初の優勝・ポールポジション・ファステストラップを記録するも、リジェのマシンの競争力に納得がいかず、1年限りでチームを去ってしまいました。

そして1981年からは、名門フェラーリに在籍することとなりました。そこで出会ったのが、ライバルとなるジル・ヴィルヌーヴでした。1年目はヴィルヌーヴの速さの前に後塵を拝することが多かったが、だんだんとマシンの特性を掴んだのか、リタイアも多いヴィルヌーヴより前でフィニッシュすることも増えていきました。

1982年のシーズンは最初から荒れました。FISA(主催者側、主に大陸系チームがこちらについていた)とFOCA(チーム側、主に英国系のチームがこちらについていた)という、2団体による運営の混乱もあってか、第4戦のサンマリノGPではマクラーレンやウイリアムズといった英国系チーム(ただし、ティレルを除く)は不参加の中、わずか14台の出走で行われました。そこでピローニとヴィルヌーヴの仲を決定付ける事件が発生します。
3位以下に大量リードで1-2体制を築いていた2人。しかし、何を思ったのか2位だったピローニはトップのヴィルヌーヴを最終ラップで抜き優勝してしまいます。
体調が思わしくなかったヴィルヌーヴは、チームオーダー無視という許せない行為を行ったピローニに、激しい憎しみと強烈な対抗心を抱くようになります。
こうした険悪な関係の中、ヴィルヌーヴはゾルダーで行われたベルギーGPで、ピローニのタイムを破る為に予選タイムアタック中、スロー走行していたヨッヘン・マスに乗り上げる壮絶な事故を起こして他界してしまいました。
ピローニはヴィルヌーブと和解するチャンスを永遠に失ってしまいました。

その後、ピローニは混戦の中で堅実に入賞しポイントを重ね、ポイントリーダーに立ちました。
カナダGPではポールスタートの際エンジンストール。後続のリカルド・パレッティが激しく追突。そのまま命を落としてしまうクラッシュの原因となってしまいます。奇しくも「ジル・ヴィルヌーブ」の名を持つサーキットで・・・

そしてホッケンハイムで行われた運命の第12戦ドイツGP。雨の中の予選、ウォータースクリーンで視界を失ってしまい前方を走行していたルノーのアラン・プロストに激しく接触。
マシンが宙を舞うほどの大事故を起こしてしまいます。幸い命は取り留めたものの両足複雑骨折の大怪我で、この予選がピローニのF1キャリアのラストランとなってしまいました。
ちなみにこのとき、ピローニは暫定1位のタイムを記録していました。

この年、ピローニがサンマリノGPのチームオーダーさえ反故にしなければ、ドライバーズチャンピオン争いは混戦ではなく、フェラーリの2人で争っていたのかもしれません。あるいはドイツGPの事故さえなければ、シーズン1勝のケケ・ロズベルグにドライバーズチャンピオンをさらわれることもなかったでしょう。
実際に第13戦までピローニはランキング首位の座を誰にも譲らず、最終的に年間2位となっています。

その後、必死でリハビリを重ねたピローニはパワーボートの世界選手権に出て活躍したり、一時は本気でレギュラーシートを狙っていたりしたと言います。
ところが1987年8月、パワーボートの世界選手権中に発生した事故で帰らぬ人となりました。この時も大きく宙を舞い、海面に逆さまに叩き付けられました・・・・

ヴィルヌーヴ死後に生まれたピローニの双子の子供には、「ジル」と「ディディエ」と、二人のファーストネームがつけられました・・・

深紅のレーシングフェラーリ「血の赤・・・」

2005-12-13 22:19:32 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
レーサーを志すもの全ての憧れ、チームの一員になることは最高の名誉とされます。
しかし、その速さゆえに命を失う者も少なくなく「フェラーリの赤は血の赤」とも言われています。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ126 C2 カーナンバー27」です。

1981年、フェラーリはターボマシン「126CK」を戦線に送り出しました。
開発が進んだとはいえフェラーリのV6ターボはまだスロットルレスポンス(ターボラグ)に問題を残しており、開発が先行するルノー・ターボと比較して未完成な状況にありました。
にもかかわらず、ジル・ヴィルヌーヴは2勝を記録しました。

そして1982年に向けてV6ターボの性能を活かす本格的なベンチュリーカー、「126 C2」を開発しました。設計は今は亡きハーベイ・ポストレスウェイト博士。
C2の車体はアルミハニカム材を使った「モノコック」。
それまでのフェラーリは軽合金製のフレームに板材を貼り付けたフェラーリ独自のシャシーを使い続けていました。
ここでライバルチーム同様のモノコック構造を採用した事は、フェラーリのグランプリ・カーにとって一つの大きな転機となりました。

優秀なシャシーを得て、フェラーリのV6ターボはその威力を発揮しました。
しかし、シーズン半ばにしてエースのジル・ヴィルヌーヴがベルギー・ゾルダーで壮絶な事故死を遂げてしまいます。
ほどなく、ヴィルヌーヴ亡き後シリーズを独走していたディディエ・ピローニがドイツ・ホッケンハイムで再起不能の重傷を負ってしまいました。
こうした大混乱に見舞われながらもC2は延べ3勝を記録。
3年ぶりにコンストラクターズチャンピオンをもたらしました。

しかし、この年フェラーリチームの失ったものは大きすぎました。
宙を舞うなど、ウイングカーのヴェンチュリー効果による危険なアクシデントが多発した為にフラットボトム規定が生まれたのでした。

モデルは小スケールながらモノコック内部まで再現したすばらしい完成度です。
もう店頭からは無くなってしまっているかと思いますが、要チェックです。

ラーマン・ターザン山田

2005-12-12 21:35:21 | EBBRO・エブロ
GT選手権にZで参戦するには、その短いオーバーハングとテールが「欠点」となっていました。「欠点」を補うべく日産は「Eタイプ」という延長したバンパーを前後に標準装備したマシーンを発売し、レギュレーションをクリアーするという荒業を見せました。
当然、そうなれば走行性能はUPします。
本日紹介するのはEBBRO1/43ミニカー「C-WEST ORC アドバンZ スーパー耐久2004年」です。

その「Eタイプ」でスーパー耐久選手権に参戦しているマシーンです。
さらにC-WESTのエアロで武装しています。
ドライバーは「最速の社長」こと尾本直史選手と、本当はイイ人なのに某雑誌で悪役を務めている「ラーマン」こと山田英二選手です。
雑誌やDVDの中では傍若無人なキャラクターになっていますが、私は以前サーキットでサインをいただいた際にとても丁寧な人柄に感動してファンになりました。

激戦区である「C-3」クラスに参戦。2004年は選手権2位の成績を残しました。
翌2005年は見事にブッチギリでチャンピオンを獲得しました。
チャンピオンを獲得した今年のモデルが発売されるかどうか期待したいです。

エンドレスワルツ

2005-12-11 13:46:13 | EBBRO・エブロ
日産のモータースポーツ部門を担当している「nismo」
昨年、創設20周年を迎えました。
主に日産ワークスレーシングカー製作を行っています。
2003年全日本GT選手権において、GT300クラスのチャンピオンマシーン「フェアレディZ」の開発も行いました。
本日紹介するのはEBBRO1/43ミニカー「エンドレス ダイシン アドバンZ 2004年」です。

タイトルを防衛すべく更なる進化を遂げたマシーンです。
2003年型のマシーンはFTA-GT参戦を主眼に開発された為、全日本GT選手権ではライバル相手に苦戦が続いていました。

弱点であった足廻りとエアロダイナミクスを中心にモディファイが行われました。
ドライバーには、2003年チャンピオンの木下みつひろ選手と「日本一速い男」のDNAを受け継ぐ星野一樹選手が選ばれました。

モデルは一見、ボディサイドのグラフィックはブレーキディスクだけ

に思えますが、実は反対側はイメージキャラクターの

「パンサー」になっています。
「右側」と「左側」
見る方向が違うだけでまったく印象の違うマシーンになっています。
2003年型の金型に新造パーツが組み込まれただけのように見えますが、

ボディラインなどの細かい部分が大きく異なります。
そのため、全くの新金型ボディが使用されています。

深紅の跳ね馬に魅せられて・・第七回

2005-12-10 21:07:50 | Hot Wheels
Hot Wheels「フェラーリ」こだわりコレクション。
数回に渡り一車種ずつ紹介、解説します。

第七回は「フェラーリ 250テスタロッサ」です。
250テスタロッサは、すでに500TRCでレース経験のある顧客に、はるかにより強力なエンジンを搭載した車を提供するために設計されました。
前モデルの特徴だった優れたハンドリング性を保つため、同様のシャシーを採用しています。そのため、250グランツーリスム用の高性能V12エンジンを搭載。6連装ツインチョーク・キャブレターで大胆にチューンアップがされています。

500TRCとの違いは、バルブカバーに赤の塗装をほどこしている点だけですが、「テスタロッサ」の名は健在で、1958年のマニュファクチャラーズ・ワールド・チャンピオンシップで勝利を収めたテスタロッサの意味は「赤い頭」
V12のカムカバーが赤い事からこの名前が付けられました。

新たなる挑戦への入り口

2005-12-09 22:18:54 | TOMICA
世界一過酷といわれている、自動車ラリーのパリ・ダカ(通称)で1997年1月に日本人初の総合優勝を果たした篠塚建次郎選手が、12月31日スタートの今回のパリ・ダカを最後に現役を引退することを29日明らかにしました。
そんな篠塚選手の活躍をミニカーで振り返ってみようと思います。

パリ・ダカ参戦のきっかけは、俳優・夏木陽介氏の出場でした。
1986年、夏木氏と共に出場。三菱自動車は、これを機に日本人によるパリ~ダカールラリーでの総合優勝を狙うことを宣言しました。
その後は三菱チームのエースとして活躍。
1997年には日本人として初の栄冠を勝ち取りました。
本日紹介するのはトミカ「三菱パジェロ ラリータイプ」です。
篠塚選手が三菱チームで最後のパリ・ダカに出場した際にドライブしたタイプのマシーンを再現しています。
この頃のパリ・ダカはワークスチームのT3クラス参戦を禁止していました。
そのため、より市販車に近いT2クラスといわれる市販車改造クラスでの参戦となりました。結果は残念ながらクラッシュにより負傷、リタイヤという結果に終わりました。

このモデルは、通常品としてノーマルを再現したモデルに、ワークスマシーンのカラーリングを施したものとなっています。
そのため、リヤハッチ部分やスペアタイヤカバー、ルーフレールなどはそのままとなっています。しかし、雰囲気はとてもよく出ていると思います。

転機の瞬間

2005-12-08 23:52:55 | TOMICA
世界一過酷といわれている、自動車ラリーのパリ・ダカ(通称)で1997年1月に日本人初の総合優勝を果たした篠塚建次郎選手が、12月31日スタートの今回のパリ・ダカを最後に現役を引退することを29日明らかにしました。
そんな篠塚選手の活躍をミニカーで振り返ってみようと思います。

パリ・ダカ参戦のきっかけは、俳優・夏木陽介氏の出場でした。
1986年、夏木氏と共に出場。三菱自動車は、これを機に日本人によるパリ~ダカールラリーでの総合優勝を狙うことを宣言しました。
本日紹介するのはトミカ「三菱パジェロ ラリータイプ」です。
篠塚選手が初出場した際にドライブしたタイプのマシーンを再現しています。
ちなみに初参戦の際はT3クラスのモンスタープロトタイプではなく、T1クラスといわれる市販車無改造クラスでの参戦となりました。結果は総合46位・クラス6位という結果に終わりました。
結果こそ平凡でしたが、後の篠塚選手へと変貌させるきっかけとなった一戦となりました。

このモデルのほかに、メインスポンサーであった「シチズン」のカラーリングを再現した、より実車に近いモデルもあります。
1/60というサイズながら特徴をよく捕らえたモデルだと思います。

幸せな幕引き

2005-12-07 22:56:30 | other minicar
自動車ラリーのパリ・ダカ(通称)で1997年1月に日本人初の総合優勝を果たした篠塚建次郎選手が、12月31日スタートの今回のパリ・ダカを最後に現役を引退することを29日明らかにしました。 
57歳の篠塚選手は在住5年目になるパリで、
「(昨年12月31日開幕の)前回のパリ・ダカは完走を目指して余裕を持って走ったのに転倒し、力の衰えを認めざるを得なかった。ラリーを始めて40年になるし、いい区切りじゃないかなと思った」
と、引退の理由を語りました。
篠塚選手は91年に世界ラリー選手権(WRC)で日本人初優勝も遂げるなど、日本ラリー界の第一人者として活躍していました。

本日紹介するのはSKID製1/43ミニカー「三菱パジェロエボリューション パリ・ダカールラリー1998年」です。篠塚選手のドライブで総合2位を獲得したマシーンです。

ココで篠塚選手のプロフィールを紹介します。
1948年11月20日、東京都大田区にて生まれる。
東海大学工学部を卒業後、三菱自動車工業(株)入社。
ラリーは1967年、大学在学中(18歳)からはじめ、1970年には三菱のファクトリードライバーとして、参戦するようになる。
国内においての速さは圧倒的で、1975年に海外ラリーデビューを果たす。
1976年、サファリラリーで日本人初の総合6位に入り、国際舞台での活躍が期待されていたのだが、1977年排ガス規制により、日本の自動車メーカーはモーター・スポーツから撤退。
その結果、篠塚選手もラリー活動を休止し、社員本来のデスクワークに専念することになる。
以後8年、ドライバーとして、全くハンドルを握らない歳月が流れた。
ラリー活動再開のきっかけは、俳優・夏木陽介氏のパリ~ダカールラリー出場であった。
1986年、夏木氏と共に出場。三菱自動車は、これを機に日本人によるパリ~ダカールラリーでの総合優勝を狙うことを宣言した。
1987年総合3位、1988年総合2位の好成績を挙げた篠塚は、同時にWRC(世界ラリー選手権)にも出場をきめ、1988年アジア・パシフィックラリー選手権(APRC)の初代チャンピオンを皮切りに、1991年、1992年のWRCアイボリーコーストラリーで2年連続総合優勝を勝ち取った。
そして、1997年パリ~ダカールラリーで総合優勝を成し遂げ、ラリー活動再開以来、日本人初づくしの輝かしい戦績を残している。
2000年パリ~カイロラリー(パリ・ダカ)にて大クラッシュ。再起を危ぶまれたが怪我を克服。
この年9月より、ラリー活動専念を希望してパリに赴任し、現在はフリードライバーとなりパリに在住している。
2002年、モーター・スポーツ部門より現役引退を突然言い渡されたが、現役続行の意志は固く、三菱自動車退社を決意。プロドライバーの道を選択した。その後、ニッサンと契約。
56歳の今も、世界の舞台で戦うことのできる数少ない日本人ドライバーの一人として頑張っている。

私がモータースポーツに興味を持ったきっかけは篠塚選手でした。
世界を相手に戦うその姿、ファイティングスピリッツに痺れました。
現在篠塚選手のラストランを応援するHPが開設されています。
ぜひ、覗いてみてください。
http://www.shinoken-lastrun.com/