K-CUSTOM~「EBBRO-エブロ・hpi」ミニカーマニアでいこう!~

EBBRO-エブロ・hpiのミニカー紹介、愛車にまつわるエトセトラ
クルマ、バイク、チャリ。ヒトと同じじゃつまらナイ!

業務連絡という名のいいわけ

2006-01-31 21:03:01 | Weblog
最近仕事が忙しく、更新が間々なりません。
ネタ切れではないです。
飽きたわけでもありません。
ただ時間がないんです・・・

ネタはたくさんありますので時間を作り更新します。
しばらくお待ちください・・・

伝説の怪鳥 第一羽

2006-01-23 23:06:54 | Hot Wheels
かつて、世界の注目を浴びたレースカテゴリーがありました。
「Can-Am」
Can-Amというのは「カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ」の略。SCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)が1966年から1974年までオーガナイズドしていた排気量無制限のグループ7レーシングカーによる戦い。排気量無制限とあって数々のモンスターが活躍した人気のカテゴリーでした。

このカンナムで活躍したレースカーといえば、まず現代のF1でも有力なコンストラクターとして存在している「マクラーレン」。
そして多くのカテゴリーに市販レーサーを数多くリリースしている「ローラ」。
「フェラーリ」や「ポルシェ」もワークスマシンを送り込んでいました。
そしてその中に「シャパラル」という名の純アメリカンメイドのレースカーがありました。本日紹介するのはHot Wheels「シャパラル 2」です。

テキサス在住のレーシングドライバー、ジム・ホールが世に送り出した「シャパラル」。現代に伝えられている高い評価の源といえば、それは巨大なウイングを用いることで空力をレースカーのスタビリティ向上に積極的に利用した、最初のコンストラクターというものが主でしょう。

ジム・ホールはまずコンベンショナルなFR+チューブラースペースフレームのオリジナルレースカー、シャパラル1を製作しカンナムの前身ともなったUSRRC(ユナイテッド・ステーツ・ロードレース・オブ・チャンピオンズ)に送り込みました。
しかし、シャパラルがその名声を高めるきっかけとなったのは「シャパラル 2」の登場がきっかけだした。このレースカーが関係者を驚かせた最大の要因、それはロータスのコーリン・チャプマンが先鞭をつけたモノコック・シャシー+ミドシップというレイアウトを初めてスポーツ・レーシングカーに持ち込んだということでした。

同じく2Aの途中で見せたGMをバックにした軽量かつパワフルなオールアルミV8の投入。
裏技中の裏技というべきレース専用オートマチックミッションなど、アグレッシブでラジカルなトライを積極的に行いながらも、抜群の強さを見せたという事実もまたシャパラルの名声を後世に残す上での大きな動機となりました。

通常、こうした新しもの好きなコンストラクターのチャレンジは計画倒れになる例が多い。しかし、シャパラルは最新の独自理論を導入しながらもしっかりと結果を残しました。これが「シャパラル伝説」の真骨頂なのです。

検索ちゃん

2006-01-22 17:37:40 | Weblog
皆さんは「gooブログアドバンス」をご存知でしょうか?
これに加入することにより、様々な追加機能を利用することが出来ます。
アクセス解析機能はそんな「gooブログアドバンス」の特典機能であり、私はいつもこの機能を活用しています。
皆さんが当ブログにどのようにしてたどり着いたのか。
興味は尽きません。
様々なキーワードで検索していただき、このブログにやってきた方がいました。

しかし、先日驚くべきキーワードで当ブログへたどり着いた方が!!
その驚くべきキーワードとは、

「ebbro 倒産」

工エエェェ('A`)ェェエエ工工
ちょっ、ちょっと!!!!111
そんな話聞いたことないんですけど!?
ビックリしました。
そんなことはありません!!そんなことはないはずですっ!!
・・・おそらく
気になるので、このワードで検索された方メールください。

GT-Rを越えたGT-R 第一章

2006-01-22 13:08:15 | EBBRO・エブロ
「400R」
それはR33GT-Rをベースに開発されたコンプリートカーです。
GT-Rとはレースにおいて自らを超え、その結果をストリートカーにフィードバックすることを使命としてきた車です。
この1台もまた「ル・マン」をはじめとするレースでの実績からおしみないフィードバックを受け、公道を疾走する1台としてノーマルとは格段に違うスペックを与えられています。     
だがこの「400R」は、「ただ速ければよい」ということを目的にした車ではありません。ここが数あるチューニングカーとは、明確に一線を画す点です。    
すなわち、R33GT-Rが誇る
「意のままに操る楽しさ」
このコンセプトを明確に継承しているのです。    
本日紹介するのはEBBRO1/43ミニカー「ニッサン スカイラインGT-R(R33)NISMO 400R」です。

スペシャルチューニングを施したビルシュタインショックアブソーバー(ENP製)、チタン製マフラー、H.I.Dライティングシステム等々。    
その開発とセットアップには徹底した煮詰めの作業が行われ、公道において十分満足できる安全性、耐久性、信頼性を獲得しています。    
例えるなら野生馬の様な、あたかもドライバーにとって友好的ですらあります。    
ただし、それはテクニックを有すればこそ。
鋭敏な味覚にも似た感受性とそれに裏打ちされた経験。それ無くして、真のドライビングプレシャーを手にすることなどありえません。
世界限定限定99台、幻のマシーンです。

実車の特徴をよく再現したモデルとなっています。
但しこのモデル、リアガラスのワイパー部の取り付け穴のバリが酷いものが多数あります。
タイヤも変形しているものが多いので購入時は要チェックです。

ありがとう・・・

2006-01-17 19:47:01 | Weblog
-1月17日-
みなさんは今日、この日が何の日かご存知でしょうか。
大きな被害をもたらした「阪神大震災が起こった日」と答える人がほとんどでしょう。

-1971年1月17日-
この日、生を受けたひとりの世界チャンピオンがいます。
「リチャード・バーンズ」

彼はレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれました。
8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めたそうです。
彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、1984年にドライバーとなりました。

1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させました。彼はそこでフォード・エスコートを運転しました。その後は故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受け、イギリス国内選手権に参戦しました。

1990年にデヴィッド・ウィリアムズからプジョー・205GTIを与えられ、彼はプジョー・チャレンジに参戦。見事シリーズチャンピオンに輝き、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たしました。
翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢。1992年まで同チームに在籍しました。

1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、ボクスホールを駆るアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、史上最年少チャンピオンとなりました。

1996年に三菱に移籍。1998年のサファリ・ラリーで悲願のWRC初優勝を達成。
1999年にはスバルに復帰。2001年ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが、彼は同年の世界チャンピオンとなりました。

そして2002年はプジョーに移籍。

運命の2003年11月。
彼はグレートブリテン・ラリーに参加のため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かう途中の車内で突然失神。検査の結果脳腫瘍が発見されました。
2004年シーズン、スバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養。
実質的な引退となっていたが2005年11月25日にこの脳腫瘍のため死去。享年34。

バーンズ選手が病に倒れることが無ければ、今日この日、35歳の誕生日を迎えるはずでした。明日からは当ブログも通常営業に戻りたいと思います。

リチャード!!あなたは偉大な人でした。どうぞ安らかに・・・

Z旗の下に・・・「レースフィールド」

2006-01-16 23:48:41 | KYOSHO・京商
昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場しました。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車です。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念がありました。
全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、世界的評価を獲得するまでは並々ならない苦労がありました。
本日紹介するのは京商1/100フェアレディZコレクション「Z(Z33)JGTC カーナンバー22」です。

Z旗の下に・・・「復活」

2006-01-15 19:44:38 | KYOSHO・京商
昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場しました。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車です。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念がありました。
全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、世界的評価を獲得するまでは並々ならない苦労がありました。
本日紹介するのは京商1/100フェアレディZコレクション「Z(Z33)COUPE」です。

世界初の「量産スーパーカー」を目指し、それを達成した前代のZ32では「Z」の名前の示す如く究極の美しさを手に入れました。
その反面極限まで切り詰められた設計が仇となり技術的なアップデートが容易ではなかった事。世界的にも評価されている完成されたデザインを壊す事を恐れ、販売的にもアップデートを躊躇してしまうという予想外の事態を発生させました。
やがてスポーツカ-が売れない時代が到来し、誰にでも買えるとは言えない程高価になったフェアレディZを経営不振に陥っていた当時の日産ではもはやアップデートする事はおろか、生産を維持する事も困難となっていました。
その結果、大きなアップデートを施される事も無く2002年の8月にZ32は14年間の生産を終え、「Z-car」の名も同じくして歴史から姿を消しました。世界中の「Z-car」フリーク達の深い落胆と共に・・・

しかし、「Z-car」は消え去りませんでした。当時の経営陣にフリークの熱い思いが伝わり、そして知らしめたのです。

「これ程お客様から作ってくれと懇願され、愛されている車をなくしてはいけない」と、

2001年のデトロイトショーのコンセプトカ-で正式に復活を告げ、2002年の7月30日。
約2年の眠りから覚醒した「Z-car」が市場に戻って来ました。
5代目となるZ33は2シーターのFRでNA3.5リッターV6DOHCエンジンを搭載しており、新開発の6速MTとドライブ・バイ・ワイヤにより高い反応と一体感を達成しています。
スタイルは主要部分を中央に集め、タイヤを4隅に張り出した「ニンブルフォルム」と呼ばれる物で、4代目Z32と初代S30のイメージをとりこみつつ、5代目独自の「Zらしさ」を演出しています。
高価過ぎ、且つ設計の自由度の無かった先代のZ32の反省により、シャシーはFMパッケージと呼ばれる共用の高いポテンシャルを持つFR車プラットフォームを採用。
ベースグレードの価格を抑える事を可能とし、究極のアップデートマシンでGT選手権や外国のGTレースへの参戦にも耐えうる高い設計の自由度を得る事に成功しました。
高度なハイテクを駆使し、早く走る事を宿命としている「GT-R」とは対象的に、操る楽しさを追求したZ。どちらも日産の魂を象徴する車です。

オートサロンにいてきたよ~

2006-01-14 21:18:38 | L オートサロン
そんなわけで、オートサロンに行ってきました。

先輩の弟が某チューニングメーカーに勤めていることもあり、
「関係者パスで入れるから任せて!!」
なんて言っていたのに・・・
あっさり入手に失敗。
前売り券を購入の上、長蛇の列に・・・
役立たずっ~

何はともあれ入場。
チューニングカーとお姉さんとお姉さんとお姉さんの夢世界。
カメラ小僧のテンションスゲエエェェeee!!
撮影というより、盗撮のような状態でした。
正直、アレはどうかと・・・
そう考えながら、おねいさんのセクスィーショットを狙うのでした・・・

Z旗の下に・・・「IMSA」

2006-01-14 15:26:06 | KYOSHO・京商
昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場しました。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車です。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念がありました。
全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、世界的評価を獲得するまでは並々ならない苦労がありました。
本日紹介するのは京商1/100フェアレディZコレクション「Z 300ZX(Z32)IMSA」です。

89年のデビューイヤーからZ32型はレースで戦ってきました。
スペースフレームとファイバー製のカウルを組み合わせた最新のGTOマシンは、Z32型のスタイルをしてはいましたが全くの別物でした。
95年には最終的にインフィニティ用の4リッターV型8気筒NAエンジンを搭載。このZ32型300ZX-Tは、92年・94 年にはスティーブ・ミレンのドライブでGTSのチャンピオンを獲得!!
94年には、デイトナ24時間で総合優勝。同年のル・マン24時間でもクラス優勝、総合5位入賞を飾っています。

JGTCにも参戦し、当時若手有望株だった影山正美/立川祐路両選手のドライブで参戦していました。最後は貰い事故から全損、廃車となってしまいましたが・・・

Z旗の下に・・・「贅沢」

2006-01-13 00:36:24 | KYOSHO・京商
昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場しました。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車です。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念がありました。
全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、世界的評価を獲得するまでは並々ならない苦労がありました。
本日紹介するのは京商1/100フェアレディZコレクション「300ZX CZ32」です。

1989年に発表された4代目フェアレデイZ。
パワープラントには可変バルブタイミング(NVCS)を持つ3リッターV型6気筒のDOHC (VG30DE)とDOHCツインターボ(VG30DETT)の2種類が用意され、左右2系統の独立した吸/排気系システムを持つ贅沢な設計となっています。
ちなみに、国産車自主規制枠一杯の280psを初めて実現したのはZ32でした。
スタイルは秀逸で獲物を狙う肉食獣をイメージさせますが、高級ホテルに乗りつけてもさまになる上品さも備えています。 10年たっても他を圧倒する力強さと気品に満ちたそのスタイルは国産車随一で、決して外国のスーパーカーにひけは取らないと思います。

時はバブルで、日産の元気な頃であり2シーターと2by2のボデイは別設計となってます。
ホイールベースはもちろん車幅、車高まで違います。
Z31までの課題であった「2by2の間延びするスタイル」を解消しました。最近はその伸びやかなスタイルと、前後重量バランスの良さから来る素直な操縦性を持つ2by2の方か人気が高いです。また、92年に追加されたコンバーチブルの美しさは、国産車オープンカーNo.1であると言われています。

日本ではグッドデザイン大賞。米国ではインポートカーオフザイヤーを受賞しており国内外においても高い評価をうけています。フェラーリなどのスーパーカーをデザインしているピニンファリーナからも 「完璧なデザイン」と絶賛されました。
アウディ・TTクーペもZ32を手本にしてデザインしたとのウワサもあります。ランボルギーニ・ディアブロが1999年以降のモデルからZ32のヘッドランプを流用しているのは有名なエピソードです。
やはりスポーツカーはスタイリングということですね。