今、コレクションの新たな楽しみに
「モデルにドライバーからサインをもらう」
があります。
これまで数々のモデルに、サインをいただくことが出来ました。
しかし、このモデルには永遠にサインをもらう事はできません・・・
本日紹介するのはEBBRO1/43ミニカー「DENSO SARD SUPRA JGTC 1995」です。
このマシーンをドライブしていたのは、ジェフ・クロスノフ選手です。
1964年9月24日生まれでアメリカ出身のクロスノフ選手は、幼い頃よりテレビアニメ「スピードレーサー(邦題:マッハGoGoGo)」のファンだったそうです。
また、近所に元F1ドライバー「ロニー・バックナム」住んでおり、長女スージーとは同い年でした。
小学校時代に同じクラスとなった際、授業の一環の中でスージーが父のヘルメットとレーシングスーツを持参し、その仕事を紹介。
これ以後、ますますレースに興味を持つようになったそうです。
1977年の「F1アメリカ西GP」を観戦。F1ドライバーへの思いを強く持たそうです。
1983年にジム・ラッセル・レーシング・スクールに入り、レース活動を開始。
その後、フォーミュラ・マツダやフォーミュラ・アトランティックに参戦しました。
1988年に来日し全日本F3000、全日本GT選手権等に参戦しました。
そして、本日紹介のマシーンで1995年まで活動。
日本のレースファンには御馴染みのドライバーとなりました。
陽気かつ紳士的な性格からパドックでも人気は高く、特に参戦時に知り合ったエディ・アーバイン、ローランド・ラッツェンバーガー、マウロ・マルティニらは親友として知られています。
漫画家・小説家のすがやみつる氏とも親交が深かったとのことです。
1996年、クロスノフは日本を離れアルシェロ・ウエルズ・レーシング(AWR)から、トヨタの開発ドライバーとしてCART参戦を開始。
トヨタも彼同様参戦1年目であったことから、上位に食い込むことは出来なかったが、チームのためにクロスノフ選手は懸命にマシンを走らせていました。
そして運命の 1996年7月14日。
第11戦トロントのレース終盤。
クロスノフ選手はアンドレ・リベイロ、ステファン・ヨハンソンと数珠繋ぎで走行していました。
95周で行われるレースの92周、クロスノフがヨハンソンを抜こうと挙動を変えた瞬間、ヨハンソンもリベイロを抜こうと、同じ向きに挙動を変えました!
この結果、クロスノフ選手のマシンの左フロントタイヤが、ヨハンソンのマシンの右リヤタイヤに乗り上げ、クロスノフ選手のマシンが高く宙を舞いました・・・
宙を舞ったマシンは、ヘルメット側からフェンスに激突。フェンスに沿って何度も回転しながら粉々に砕け散り、クロスノフ選手は頭部に致命的な損傷を負って即死。
享年31歳でした。
また、事故現場付近にいたコースマーシャル1人も、この事故に巻き込まれて亡くなってしまいました。
遂に、F1への参戦を目標にしていたクロスノフ選手の夢が叶う事はありませんでした・・・
事故の翌年、アルシェロ・ウエルズ・レーシングはクロスノフ選手のヘルメットと、座右の銘としていた言葉
「Stay Hungry (ハングリー精神をいつまでも)」
のステッカーをマシンに貼り付けてシーズンを戦いました。
2002年、事故現場の木にクロスノフ選手と亡くなったマーシャルの2人の名前が刻まれたプレートが埋め込まれています。
「EBBRO・ebbro・エブロ!!~K-CUSTOM別館~」も、ぜひご覧下さい。
「モデルにドライバーからサインをもらう」
があります。
これまで数々のモデルに、サインをいただくことが出来ました。
しかし、このモデルには永遠にサインをもらう事はできません・・・
本日紹介するのはEBBRO1/43ミニカー「DENSO SARD SUPRA JGTC 1995」です。
このマシーンをドライブしていたのは、ジェフ・クロスノフ選手です。
1964年9月24日生まれでアメリカ出身のクロスノフ選手は、幼い頃よりテレビアニメ「スピードレーサー(邦題:マッハGoGoGo)」のファンだったそうです。
また、近所に元F1ドライバー「ロニー・バックナム」住んでおり、長女スージーとは同い年でした。
小学校時代に同じクラスとなった際、授業の一環の中でスージーが父のヘルメットとレーシングスーツを持参し、その仕事を紹介。
これ以後、ますますレースに興味を持つようになったそうです。
1977年の「F1アメリカ西GP」を観戦。F1ドライバーへの思いを強く持たそうです。
1983年にジム・ラッセル・レーシング・スクールに入り、レース活動を開始。
その後、フォーミュラ・マツダやフォーミュラ・アトランティックに参戦しました。
1988年に来日し全日本F3000、全日本GT選手権等に参戦しました。
そして、本日紹介のマシーンで1995年まで活動。
日本のレースファンには御馴染みのドライバーとなりました。
陽気かつ紳士的な性格からパドックでも人気は高く、特に参戦時に知り合ったエディ・アーバイン、ローランド・ラッツェンバーガー、マウロ・マルティニらは親友として知られています。
漫画家・小説家のすがやみつる氏とも親交が深かったとのことです。
1996年、クロスノフは日本を離れアルシェロ・ウエルズ・レーシング(AWR)から、トヨタの開発ドライバーとしてCART参戦を開始。
トヨタも彼同様参戦1年目であったことから、上位に食い込むことは出来なかったが、チームのためにクロスノフ選手は懸命にマシンを走らせていました。
そして運命の 1996年7月14日。
第11戦トロントのレース終盤。
クロスノフ選手はアンドレ・リベイロ、ステファン・ヨハンソンと数珠繋ぎで走行していました。
95周で行われるレースの92周、クロスノフがヨハンソンを抜こうと挙動を変えた瞬間、ヨハンソンもリベイロを抜こうと、同じ向きに挙動を変えました!
この結果、クロスノフ選手のマシンの左フロントタイヤが、ヨハンソンのマシンの右リヤタイヤに乗り上げ、クロスノフ選手のマシンが高く宙を舞いました・・・
宙を舞ったマシンは、ヘルメット側からフェンスに激突。フェンスに沿って何度も回転しながら粉々に砕け散り、クロスノフ選手は頭部に致命的な損傷を負って即死。
享年31歳でした。
また、事故現場付近にいたコースマーシャル1人も、この事故に巻き込まれて亡くなってしまいました。
遂に、F1への参戦を目標にしていたクロスノフ選手の夢が叶う事はありませんでした・・・
事故の翌年、アルシェロ・ウエルズ・レーシングはクロスノフ選手のヘルメットと、座右の銘としていた言葉
「Stay Hungry (ハングリー精神をいつまでも)」
のステッカーをマシンに貼り付けてシーズンを戦いました。
2002年、事故現場の木にクロスノフ選手と亡くなったマーシャルの2人の名前が刻まれたプレートが埋め込まれています。
「EBBRO・ebbro・エブロ!!~K-CUSTOM別館~」も、ぜひご覧下さい。