K-CUSTOM~「EBBRO-エブロ・hpi」ミニカーマニアでいこう!~

EBBRO-エブロ・hpiのミニカー紹介、愛車にまつわるエトセトラ
クルマ、バイク、チャリ。ヒトと同じじゃつまらナイ!

苦戦も覚悟の上

2005-12-31 20:26:08 | ChoroQ・チョロQ
プロドリフト選手権。
「D1グランプリ」
シリーズが始まったのは2001年。
全てが手探りの中から始まりました。
初年度は個人所有のチューニングカーでの参戦がメインでした。
そんな中、いち早くメーカーワークスとして参戦した「HKS」
それに続く形で参戦してきたのが「BLITZ」でした。
本日紹介するのはチョロQ「BLITZ SKYLINE ER34 D1 SPL 2004年」です。

D1参戦初年度から、4ドアのスカイラインにこだわって参戦を続けるブリッツ。
だが、重いボディと長いホイールベースどのドリフトは明らかに不利。
「のむけん」の愛称で、絶大な人気を誇る野村謙選手のドライビングテクニックをもってしても公式戦では優勝までたどりつけませんでした。
そこで、ドライバーである野村選手からのリクエストに応えポテンシャルアップを図ったのが、この2004年用のニューマシンである。
野村選手からの要望はふたつ。
「車重を軽くしてほしい」「加速特性を向上させてほしい」
でした。

その要望に応えるべく、ボディはロールバーとセットで軽量化が考えられました。不要な部分を切り離し、ロールバーとスポット増しで補強することによって、剛性を上げつつ重量を抑えることに成功しました。
その結果、2003モデルよりも150kg、ノーマルよりも250kgの軽量化を実現しました。
一方で軽量化をするとリヤが軽くなりがちですが、そのアンバランスを改善するためにトランク内の一番後ろに安全タンクを搭載しています。しかも、60Lという大容量タイプを採用することで、燃料の増減によっても重量バランスを調整できるようにしています。

もうひとつの改善点が低速域のパワー特性の向上です。
まず、6連スロットルの採用とインタークーラーのパイピングを短くすることでレスポンスの向上を図っています。さらに、排気量アップも図り全域でのパワー向上を果たしています。また、タービンのエキゾーストハウジングを変更することでも低速トルクを調整しています。

お台場でのエキシビションでは車両展示のみで走行は行われませんでした。実戦投入はSUGOでの第2戦。
エキシビションでは2003モデルで優勝を果たすことができたブリッツ&のむけん。その勢いを持続させ、第3戦エビスラウンドで涙の公式戦初優勝を果たしました。それを記念するマシーンでもあります。

これくしょんのススメ その1

2005-12-27 23:40:50 | other minicar
ミニカーをコレクションするときに、皆さんは何を基準にしていますか?
ボディーカラー?自動車メーカー?車種?カテゴリー?
様々あるかと思います。
私の場合、F1モデルは「ドライバー」に的を絞りコレクションしています。
私が熱狂的に応援していたドライバーは「デイモン・ヒル」です。
その昔、私がカーターとして機能していたときには「ヒルレプリカ」のヘルメットで走っていたほど好きでした。

デイモン・ヒル(Damon Hill)
1960年9月17日
国籍 イギリス
活動年数 1992-1999
所属チーム ブラバム・ウイリアムズ・アロウズ・ジョーダン
出走回数 115
タイトル 1(1996)
優勝回数 22
通算獲得ポイント 360
表彰台(3位以内)回数 42
ポールポジション 20
ファステストラップ 19
F1デビュー戦 1992年イギリスGP
初勝利 1993年ハンガリーGP

引退して早6年。1999年の鈴鹿は今でも忘れられません。

前置が長くなってしまいましたが今回紹介するのは、ヒルのF1デビューマシーンとなったMINICHAMPS1/43ミニカー「ブラバム JUDD BT60・1992」です。
マシン自体の型は古いですが、製品化されたのが最近の為ディテールなどは申し分ありません。
実車では「デーモン小暮閣下」がスポンサーになり話題を集めました。このモデルではそのバージョンになっています。
その他にも「日本バブル」当時のスポンサーが見え隠れしているところが面白いです。

コレクションを整理していたら懐かしいモデルが色々と出てきたので「デイモン・ヒルシリーズ」と銘打ち紹介していきたいと思います。

挑戦の果て

2005-12-26 23:12:27 | ChoroQ・チョロQ
プロドリフト選手権。
「D1グランプリ」
シリーズが始まったのは2001年。
全てが手探りの中から始まりました。
初年度は個人所有のチューニングカーでの参戦がメインでした。
そんな中、いち早くメーカーワークスとして参戦した「HKS」
本日紹介するのはチョロQ「HKS GENKI RACING PERFOMER IS220R」です。

2004年第6戦、HKSはシルビアからアルテッツァ(IS220)にマシンチェンジを敢行しました。
そのシーズン、HKSシルビア&谷口選手は第5戦まで全戦でポイントを獲得し、ランキングトップを走ってきました。

アルテッツァといえば、2002年にはアペックスチーム&今村選手が大苦戦の末、マシーンチェンジを余儀なくした決してドリフト向きの車種とは言えません。
HKSは新車で買えるコンパクトな4気筒のFR車として、近年アルテッツァのチューニングに力を入れています。アルテッツァはアメリカを始めアジア諸国でも売っている車種であり、HKSとしてもターボキットを設定しておりエンジンパーツ・エアロパーツを販売している車両です。そのアルテッツァでD1を戦いたかったのでした。

アルテッツァのD1への投入計画は、実は2004年初頭からありました。
HKSのオイルシリーズが一新されるタイミングに合わせて、D1にもアルテッツァを投入したい考えがありました。そのためアルテッツァのカラーリングは、オイルシリーズのイメージカラーとなっています。
もちろん、2002年のアペックスの失敗を見ているため、各部の弱点の克服は試みています。まず大パワーに耐えられないノーマルミッションは、オリジナルのドグミッションに交換されています。スロットルもトラクションコントロール用の電子制御スロットルを取り外しています。
また、コーナリング中に好ましくない動きをするリヤのサスペンションは、アームをイケヤフォーミュラと共同開発したモノや、オリジナルのモノに交換して改善を試みています。

しかし、そのいっぽうでこのアルテッツァは、ユーザーに近い仕様で戦いたいというコンセプトによりシルビアのような大幅なボディ加工は行われていません。
また、ワンオフスペシャルパーツの採用も極力抑えています。
そのせいか、従来のシルビアに比べて戦闘力ダウンした感は否めませんでした。

アルテッツァでD1を戦うという試みは、果敢な挑戦として称賛されるべきことだと思います。
しかし、アルテッツァを投入した以上HKSはトップレベルのシルビアと互角に戦えるアルテッツァを作り上げて、ドリフトマシンに新たな可能性を切り開いてほしいです。
それはある意味、HKSチームの義務であるとも言えます。

このモデルはそんな複雑且つ、カラフルなHKSカラーをとても精密に再現しています。
アルテッツァのチョロQは現在特注品しか存在していませんが、プロポーションも良好です。D1チョロQのコレクションには欠かせない一台でしょう。

深紅の跳ね馬の血統

2005-12-25 19:10:10 | KYOSHO・京商
フェラーリは伝統ある最高級スポーツカーコンストラクターです。
そのディテールは攻撃的且つ、まるで芸術品のよう美しさを持ち官能的でさえあります。
そのため、モデル化をするにあたりフェラーリ社の厳しい審査があります。特にこのようなディテール再現の難しい小スケールは、高い技術を持つ企業にしか許されません。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリコレクション2「フェラーリ575M マラネロ」です。

「フェラーリ575M マラネロ」は、1996年より販売が開始されました。
新世代フェラーリへの幕開けを担った 12気筒ベルリネッタのフラッグシップモデル「550マラネロ」に、最新テクノロジーを投下して誕生しました。Mは“Modified”(改良)の頭文字で、エンジン・ギアボックス・インテリアなど車全体に改良を施しています。
そのスタイリングは、ピニンファリーナの手による調和と落ち着きを備えた「550マラネロ」のフォルムを踏襲しながら、フロント部にデザイン変更が施されより美しく洗練されたものとなっています。

2シーターのFR(後輪駆動)モデル。フロントに搭載される伝統のV12DOHCエンジンは、その名前通り5.5Lから5.75Lに引き上げられ、最高出力は515psを発生。最大トルクは60.0kg-mを発揮。名実共に世界最高峰の2ドアクーペとなりました。
最大のニュースは、市販12気筒フェラーリとして初の2ペダルセミAT(セミMT)6速ミッションのF1マチックを搭載したことです。これは、クラッチペダルがなくハンドル奥にあるパドルを操作するだけでシフトチェンジを可能にするシステムです。
早くからF1には導入されていました。もちろんコレまで通り、クラッチワークを必要とする6MTもラインナップされています。

やや大柄な高級GTカーにしか見えないかも知れません。
しかし理想的な重量配分やトランスアクスルをもつため、FRスポーツカーとしての性能も超一流なのはさすがは跳ね馬と言えるでしょう。やはり赤が似合います。

G・M・ハマー

2005-12-24 22:02:54 | TOMICA
日本に上陸して早数十年。
他を圧倒する大規模店舗、大量在庫、ロープライスを武器に日本中のおもちゃ屋さんを駆逐した「トイザらス」。
その店舗数は全国で100店舗を超え、さらに新規オープンしています。
「トイザらス エクスクルーシブ」と言う、限定品の企画はその店舗数がなせる技です。
本日紹介するのはトイザらス限定トミカ「ハマー H2」です。
スケールは1/83、リアハッチが開くギミックがあります。
他のトミカよりも大きく、重量感もあります。トヨタのメガクルーザーと並べてみましたが迫力はハマーが上でした。

アメリカの軍隊で用いられた高軌道車両を市販モデルにした先代シビリアンハマー(H1)は、ミリタリースペックをもつ地上最強の4WDとして君臨しました。
その後を継ぐのがH2で、その力強さはそのままにより一層一般ユースを考慮した仕様に仕上げています。クロームパーツを多用したフロントマスクなどはその最たるものです。
街中で見かけると、大きさには驚きますが先代モデルほどの違和感(自衛隊の戦車を国道で見るような)は感じしません。エンジンはアメリカらしく6リッター!!のV8OHVで最高出力320ps、最大トルク49.8kg-mを発揮します。
3重の防音シールドに守られた室内は至って“平和”です。豪華な本革シート、至る所にある収納スペースやカップホルダー、ドライバーにはインフォメーションディスプレイと、まるで高級ラグジュアリィセダンのような仕上がりになっています。
ちなみにレーサーの織戸学選手の愛車としても知られています。

そんなハマーが今年で28回目を迎えるパリ・ダカールラリーに参戦します。
12月31日にポルトガルのリスボンをスタート、モロッコ、モーリタニア、マリ、ギニアを経てゴールの地、セネガルのダカールを目指します。コースを走るハマーは、生産ベースのV8エンジンを使用。サスペンションとシャーシーは、ロビーゴードンのオフロードチームが、特別にチューンアップしたものを装備します。
ロビーゴードンといえば、NASCARやインディ500で知られる有名なレーサーであり、ダカールラリーへの出場は、フォルクスワーゲンワークスから出場した前大会に続き2回目。前回は2ステージで勝利し、今年はハマーで総合優勝を目指します。

最近、新鮮さがなくなってきたハマー。新たなる挑戦を始めるなど、再びスポットライトを浴びようとしています。

ズィーカー

2005-12-23 19:26:46 | KYOSHO・京商
昭和45年、一台の日本製スポーツカーが登場しました。
フェアレディーZ。発売後たちまちアメリカ市場を席巻し、スポーツカーとしては世界一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車です。
開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念がありました。

「手頃な値段で高性能のスポーツカーを作れば、きっと売れる。二流のイメージも払拭できるはず。」

しかし、当時は大衆車が主流。スポーツカーなど売れないと社内では猛反発にあいました。その時、立ち上がったのは遊園地のゴーカートを作っていた若手デザイナー、バキュームカーなど特殊車両専門の設計者、農機具修理からたたき上げた子会社の技術者たちでした。皆、いつかは自分たちの手で花形の車を作りたいとの思いを秘めていました。

開発は、デザインとハードの激しいせめぎ合いとなりました。
デザイナーが思い描いたのは、斬新な低い流線型のシルエット。しかし、新型6気筒エンジンを積み込むとボンネットに収まらず上部に出っ張りました。特徴的な短い後部のため、ガソリンタンクとギアがぶつかり故障しました。メンバーは試行錯誤を重ね、東名高速でテスト走行を繰り返しました。
全くの手探りで開発に挑んだ日本製スポーツカーが、世界的評価を獲得するまでは並々ならない苦労がありました。
本日紹介するのは京商1/100フェアレディZコレクション「Z33 JGTC カーナンバー22」です。

初代から現行車、そしてレー シングチームのマシンまで、フェアレディZのヒストリーを彩ったメモリアルモデルが28種もラインアップされています。、「サークルK」「サンクス」で販売された「缶コーヒー190ml」1本に1台付属していました。
ラインアップは、
1969年 Z-432(PS30)
1969年 Z-L(S30)
1971年 240ZG(HS30H)
1980年 280Z-T(HS130)
1983年 300ZX(HZ31)
1989年 300ZX(CZ32)
1994年 Z 300ZX(Z32)IMSA
2002年 Z(Z33)COUPE
2004年 Z(Z33)JGTC
2005年 Z(Z33)S-TUNE GT
です。
ちなみにシークレットは「2004年 Z(Z33)JGTC」のカーナンバー12です。
小スケールながらゴムタイヤを使用するなどこだわりっぷりには驚かされました。
京商の底力を痛感させられるモデル達です。

深紅のレーシングフェラーリ「フォルツァ!!」

2005-12-21 23:19:47 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
イタリア人ドライバーなら誰もが憧れるチーム。
そのイタリア人で現在点で最後に優勝を飾ったドライバー「ミケーレ・アルボレート」
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ126 C4・F1-87/88C カーナンバー27」です。

Michele Alboreto 1956年12月23日生まれ。
イタリアF3、ヨーロッパF3チャンピオンを獲得し、1981年に24歳でティレルからF1デビューを果たします。翌年も引き続きティレルでF1参戦。更にうれしい初優勝を飾ります。
その翌1983年には早くも2勝目を挙げました。

1984年、アルボレートは17年ぶりのイタリア人フェラーリドライバーに抜擢されました。過去にロレンツォ・バンディーニがモナコGPで焼死して以来、フェラーリの総帥エンツォ・フェラーリは
「もう二度とイタリア人ドライバーはフェラーリに乗せない。」
という誓いを立てていました。
しかし、総帥エンツォ自らがその誓いを破ってまで抜擢した唯一のイタリア人ドライバーがアルボレートでした。フェラーリに移籍し、チームメイトのルネ・アルヌーをすぐに凌駕すると、1985年にはマクラーレンのアラン・プロストとチャンピオン争いを演じ、中盤戦まではタイトルレースをリードしたのでした。

イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が、唯一最大の願いであり、そのファンの中でもアルボレートはイタリア人ファンに愛されました。これにはアルボレートの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。その為、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れますが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!(ミケーレ頑張れ!)」であったと言われています。

ですが、その後フェラーリのマシーンは思うような速さを発揮できず、タイトルはプロストのものとなってしまいました。

アルボレートは通算5勝を挙げていますが、88年を最後にチャンピオンシップの主役から脇役に回り、ティレル、ローラ、アロウズ、フットワーク、ふたたびローラ、そしてミナルディと下位チームを渡り歩き、14年間にわたり休むことなくF1と共に過ごしてきました。そんな彼も1994年にF1を引退することとなりました。

1995年、アルボレートはF1を離れアルファロメオを駆りDTM(ドイツツーリングカー選手権)に参戦。
1997年にはポルシェを駆り、ル・マン24時間レースで優勝もしています。
F1を離れてもレースに懸ける情熱はまったく衰えることはありませんでした。

そして、運命の時が訪れます。
2001年4月26日。アルボレートはル・マン24時間レース出場に備えて、アウディのマシーンでテスト走行を行なっていました。しかし、メインストレートを全開走行中、リアタイヤが突然バースト。コントロールを失ったマシーンは宙を舞い、コースを外れてコックピット部分からバリアに激突。
アルボレートは帰らぬ人となりました。頭部と首を強打し即死状態でした。

ティフォシ達から愛されたイタリアン。ミケーレ・アルボレート。
その最期はあまりにも壮絶なものとなってしまいました。

深紅の跳ね馬に魅せられて・・第八回

2005-12-20 01:08:34 | Hot Wheels
Hot Wheels「フェラーリ」こだわりコレクション。
数回に渡り一車種ずつ紹介、解説します。

第八回は「フェラーリ 308GTB」です。
ディーノ246GTの後継モデルとして1973年のパリ・サロンにデビューしたのが「ディーノ308GT4」です。3リッターのV8を横置きミッドシップ搭載し、フェラーリとしては珍しいベルトーネ・デザインのボディをまとった2+2クーペですが、これをベースにした本格的な2シータースポーツが1975年のパリ・サロンにて発表されました。
これこそが、今日まで連綿と続くミッドシップV8フェラーリのルーツ的存在である、「フェラーリ(ディーノではない)308GTB」です。

美しいベルリネッタ(クーペ)のスタイリングを手がけたのは、やはりピニンファリーナ!
ボディの材質は当初FRPが採用されていました。
1977年のフランクフルト・ショーにはデタッチャブル・ルーフのGTSが登場。GTBの「B」はベルリネッタを。GTSの「S」はスパイダーを意味しています。また、主要マーケットである北米での安全基準を満たすためにボディはスチール製に改められました。FRP製の308GTBの生産台数は200台未満といわれています。

308GTBのパワーユニットである3リッターV8DOHCは、デビュー当初255ps/30.0kgmを発揮しました。インレットからの吸気音とエンジン自体の発するハイトーンのサウンドのハーモニーは、まさにフェラーリ・ミュージック!!しかし、年々厳しくなるエミッション・コントロールに対応するため、1981年にはインジェクション化されました。
翌1982年にはヘッドが4バルブとなって「クワトロバルボーレ(イタリア語で4バルブの意味)」が車名に付加されました。

深紅のレーシングフェラーリ「一度きりの栄光」

2005-12-18 21:27:45 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリ412T2 カーナンバー27」です。

1994年ジョンバーナードが設計したマシーン412T1。
当初ティアドロップ型のインテークで登場しました。サイドポンツーンの形状が特徴的なマシーンでしたが、成績は低迷しました。
悲劇のサンマリノGPでのローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故により、空力デバイスに対して大きな制限がなされることになりました。
そのためグスタフ・ブルナーが規定に合わせてモディファイしたマシーンが412T1Bです。改良点はフロントウイングの翼端板の短縮、エアボックスに対する穴開け。そしてディフューザー長の短縮。
65度V型12気筒・3496ccエンジンを搭載し、この年エンジニア部門に元ホンダの後藤治が加入しました。 

翌1995年。伝統の12気筒エンジンを積んだ最後のフェラーリが412T2となります。
この年のフェラーリはかつての競争力を取り戻し、若干のトラブルは出るものの完成度・信頼性・速さを持っていました。
しかし、最強のV10ルノーエンジンを搭載するベネトン・ウイリアムズには一歩及ばないレースが続いていました。予選は大抵セカンドグリッド以降。決勝でも2・3位と表彰台を獲得するものの、優勝にはあと一歩届きませんでした。
実は、412Tは慢性的に燃費の問題を抱えていました。
クールダウンラップでにガス欠を起こした事もあるほどでした。

そんな中、長年フェラーリチームに尽くし、ティフォシ達に絶大な人気を誇っていたジャン・アレジがカナダGPで劇的な自身初優勝を遂げます。しかし、トップ独走中のミハエル・シューマッハがトラブルでスローダウンしたための「タナボタ優勝」でした。
完全な自力優勝。しかもベルガーとの1-2確実であったイタリアGPでは自分のマシーンから車載カメラが落下。後続のベルガーを直撃!!するというトラブルが発生。更に落ちた車載カメラのケーブルがハブに絡まりアレジ自身もリタイヤという最悪の結果になってしまいました。
結局、その後アレジは移籍を繰り返すものの二度と優勝のチャンスは訪れませんでした。
フェラーリで記録した、たった一勝がベストリザルトとなりました。

深紅のレーシングフェラーリ「惨敗」

2005-12-17 23:14:43 | KYOSHO・京商
F1の世界で、一際輝く名門チーム「フェラーリ」
市販車を売る為にF1に参戦するのではなく、F1に参戦する為に市販車を売る生粋のレーシングチームです。
本日紹介するのは京商1/64フェラーリF1コレクション「フェラーリF1-87/88C カーナンバー27」です。

フェラーリチームは1985年ドイツGPでのミケーレ・アルボレートの勝利以降、翌1986年は不振が続いていました。
86年末、ついにチーム体制が変更されました。それまでマシン開発の陣頭指揮を執っていたグスタス・ブルナーがチームを去り、なんと前年までマクラーレンのチーフデザイナーだったジョン・バーナードが新たにテクニカルディレクターとして就任したのでした。
元々このF187は、ブルナーがデザインをしたもので開発はほぼ終了していましたが、バーナードはモノコック形状、シャーシ各部のレイアウト、サスペンション・ジオメトリー等変更の他、マクラーレン時代から彼の十八番であるリアエンドを絞り、跳ね上げる空力ランプ(ディフュザー)の追加修正を行いました。
シーズン中のマシン熟成は、ハーベイ・ポストレスウェイト博士が担当しました。

エンジンもまったくのニューエンジンが投入されました。Vバンク角が120度から90度へ変更。シリンダーブロックの剛性も高めて信頼性を強化しました。
これにともない6速トランスミッションのレイアウトも横置きから縦置きとなりました。タービンはこれまでのKKK製からギャレット製に変更され、パワーは880ps/11500rpmをマーク!!
サスペンションは、前シーズンと同じく前後ともプルロッドを採用。
ドライバーは引き続きミケーレ・アルボレートと、ベネトンから電撃移籍したゲルハルト・ベルガー。ベルガーは、この年の鈴鹿日本GPでフェラーリに久々の勝利をもたらしました。

そしてこのモデル、フェラーリF1-87/88Cは1988年の新規定に合わせモディファイされた実績のある完成されたマシーンでした。
しかし、この年はアイルトン・セナ、アラン・プロストの駆るマクラーレン・ホンダがシーズンを席巻。16戦15勝という驚くべき結果を残しました。
フェラーリチームはマクラーレンが落とした地元イタリアGPで挙げた一勝に留まりました。
ちなみに、この勝利は御大エンツォ・フェラーリが直接報告を受けた最後の勝利となりました。