今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

北海道 道北の旅 その1(宗谷岬・稚内公園)

2022年09月06日 | 北海道
訪問日 令和4年9月4日

宗谷岬(北海道稚内市宗谷岬)
自宅から国道231号-232号-40号-238号を約360km走る(北海道は広い)
先ず驚いたのは地元なのに読めない地名が多いことだ(恥)
読めますか(答えは最後に)
①花畔 ②生振 ③若生 ④知津狩 ⑤聚富 ⑥正利冠 ⑦望来 ⑧発足 ⑨安瀬 ⑩濃昼

第5回日本最北端わっかない平和マラソン2022だったが、影響を受けずに2時過ぎに到着した
40数年ぶりの宗谷岬になる



間宮林蔵像
江戸時代後期の徳川将軍家御庭番
樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した



文化5年(1808年)4月13日、幕府から命を受けた間宮林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発した
このとき、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれている
同年7月13日、第2次樺太探検のため出発し、トンナイ(旧真岡付近)で冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認した
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名された



「日本最北端の地」の碑
20代前半に勤務していた職員旅行で訪れたことがあり、変なポーズをとった写真が残っている
その時の様子と現在とでは何かが違っている



透き通った海水に無数の小魚が見える



宗谷岬音楽碑
スイッチを押すと「宗谷岬」が流れる



ダ・カーポの「宗谷岬」



奥に霞んでいるが見えるのが「樺太」



大岬旧海軍望楼(稚内市指定文化財)









大岬旧海軍望楼からの眺望






平和の碑






宗谷海域海軍戦没者 慰霊碑



あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万tと飼育乳牛50万頭突破記念



彫刻家:峯 孝 の作品 天北酪農の夜明けを象徴している



祈りの塔
「大韓航空機撃墜事件」1983年9月1日
大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件
乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した
塔は、「鶴が大きく羽を広げ、天空に首を持ち上げる姿」をしている



19.83mある塔の高さは事故発生の年を、16枚の羽は遭難者の母国を、269枚の白御影石は遭難者の数を表している



子育て平和の鐘



世界平和の鐘



宗谷丘陵展望休憩施設



宗谷岬灯台
日本国政府が管理する灯台としては日本国最北に位置する



国道238号から見える標高1,721mの利尻山(利尻富士)が美しい






稚内公園(北海道稚内市中央1丁目)
宗谷岬から30km程離れた稚内公園に移動した
ここには是非訪れてみたいと思っていた場所がある

氷雪の門
かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑



彫刻家:本郷 新 の作品
両側に高さ8mの門(望郷の門)があり、中央に2.4mの女性の像がある



女性の像は、顔は戦争で受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを
足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表している



「日本最北端の地」の碑で、変なポーズをとった写真が残っていると書いたが実はこの像の真似
もしかしたら、この像は宗谷岬にあったのではないかと思うのだが……



教学の碑



行幸啓記念碑
昭和43年(1968年)昭和天皇・皇后両陛下は九人の乙女の秘話をお聞きになった時
目頭に涙を浮かべ、深く頭をお下げになり、冥福をお祈りされた



この碑には、後日、この時のご感銘を詠まれた御製・御歌が刻まれている
御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」
御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」



九人の乙女の碑
この話しを初めて知ったのは「虎ノ門ニュース」というYouTubeの番組である
この話しに感動して稚内市にある慰霊碑に是非訪れてみたいと思っていた(実現した)



真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である

真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換職員による手動交換接続方式だった
特に戦時下における電話交換業務は国防用また緊急連絡用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていた



上田・真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けた
皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長だったが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられた
友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していた



「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受け、宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行った
郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていた
しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行した



『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった
ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません
局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた
居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っている



「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった
さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」と語っている



この物語は映画化されています「樺太1945年夏 氷雪の門」

読み方
①花畔(ばんなぐろ)②生振(おやふる)③若生(わかおい)④知津狩(しらつかり)⑤聚富(しっぷ)
⑥正利冠(まさりかっぷ)⑦望来(もうらい)⑧発足(はったり)⑨安瀬(やそすけ)⑩濃昼(ごきびる)

撮影日 令和4年9月4日

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