春日山 林泉寺
5年前にキャンピングカーを購入して始めて訪れたのがこの林泉寺だ
同じくブログを始めて5年、最初の投稿もこの寺で撮った写真からだ。私にとっては記念すべき寺である
惣門
5年前JAFという雑誌の表紙に朝霧に包まれた惣門が掲載されていた。その写真に感動し記念の場所にしようと考えていた
惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられている
その時はこの寺が上杉謙信縁の寺などとは、まったく知らなかった
今回は川中島古戦場の一騎打ちの像に刺激され、来てしまった
ところが驚いたことに惣門の姿が大きく変わっていた
5年前の写真があったので掲載する。茅葺きの屋根が銅板になっていた(H25.5撮影)
山門
惣門から歩いて間もなく大きな山門が見えてくる
大正14年(1925年)、上杉謙信公生誕400年を記念して山門(二重門)が再建された
扁額には山号の「春日山」
寺を護る仁王像だが、金網に護られている
直江津の彫刻家滝川美堂作の仁王像
山門を通過する際、上を見ると龍の画がある。
鐘楼
以前訪れたときに印象に残っている小さな像が無くなっている
またまた5年前の写真。係の人に聞くと落下して壊れてしまったとのこと
可愛い像で個人的には寺のチャームポイントと思っていただけに残念である
上杉謙信公墓所
雨が小降りになったので墓所から
ネットで調べると、上杉家転封の際に墓所の下の甕(遺骸)も会津、その後米沢に移動したという記録は残っていない
寺の歴史(口伝)の中にも墓所を移したという情報はなく、この地に眠っていることとして供養されているそうだ
天正6年3月13日と刻まれている<(1578年4月19日)享年48歳>
川中島戦死者供養塔
墓所から降りてきた時に見かけたのだが思わず笑ってしまった
本堂
平成9年(1997年)、開創500年を記念して新たに本堂が建立された
長尾為景の四男(次男説もあり)として生まれる
嫡男ではないため、謙信が7歳になると林泉寺に預けられ、住職の天室光育に教えを受け育つ
謙信は仏教の教えを学ぶ一方で、兵学にも興味を示した
扁額には寺名の「林泉寺」
謙信は、越後国主に任じてくれた将軍家に感謝し、乱れた秩序を回復させ、天下を静謐にすることを大事にした
本来の領土を追われた武将を庇護し、復権させることが第一と考え、北条氏康・武田信玄との戦いに臨むことになった
信義など形骸化していた時代に、唯一人心から「義」を大事にした謙信の生き様は、敵味方を問わず戦国の世に生きる人々の心を捉えていった
宝物館から山門を見る
謙信筆の「第一義」(複製) 宝物館に本物がある
天井画。謙信は「越後の龍」と呼ばれていた
撮影 平成29年5月25日
5年前にキャンピングカーを購入して始めて訪れたのがこの林泉寺だ
同じくブログを始めて5年、最初の投稿もこの寺で撮った写真からだ。私にとっては記念すべき寺である
惣門
5年前JAFという雑誌の表紙に朝霧に包まれた惣門が掲載されていた。その写真に感動し記念の場所にしようと考えていた
惣門は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられている
その時はこの寺が上杉謙信縁の寺などとは、まったく知らなかった
今回は川中島古戦場の一騎打ちの像に刺激され、来てしまった
ところが驚いたことに惣門の姿が大きく変わっていた
5年前の写真があったので掲載する。茅葺きの屋根が銅板になっていた(H25.5撮影)
山門
惣門から歩いて間もなく大きな山門が見えてくる
大正14年(1925年)、上杉謙信公生誕400年を記念して山門(二重門)が再建された
扁額には山号の「春日山」
寺を護る仁王像だが、金網に護られている
直江津の彫刻家滝川美堂作の仁王像
山門を通過する際、上を見ると龍の画がある。
鐘楼
以前訪れたときに印象に残っている小さな像が無くなっている
またまた5年前の写真。係の人に聞くと落下して壊れてしまったとのこと
可愛い像で個人的には寺のチャームポイントと思っていただけに残念である
上杉謙信公墓所
雨が小降りになったので墓所から
ネットで調べると、上杉家転封の際に墓所の下の甕(遺骸)も会津、その後米沢に移動したという記録は残っていない
寺の歴史(口伝)の中にも墓所を移したという情報はなく、この地に眠っていることとして供養されているそうだ
天正6年3月13日と刻まれている<(1578年4月19日)享年48歳>
川中島戦死者供養塔
墓所から降りてきた時に見かけたのだが思わず笑ってしまった
本堂
平成9年(1997年)、開創500年を記念して新たに本堂が建立された
長尾為景の四男(次男説もあり)として生まれる
嫡男ではないため、謙信が7歳になると林泉寺に預けられ、住職の天室光育に教えを受け育つ
謙信は仏教の教えを学ぶ一方で、兵学にも興味を示した
扁額には寺名の「林泉寺」
謙信は、越後国主に任じてくれた将軍家に感謝し、乱れた秩序を回復させ、天下を静謐にすることを大事にした
本来の領土を追われた武将を庇護し、復権させることが第一と考え、北条氏康・武田信玄との戦いに臨むことになった
信義など形骸化していた時代に、唯一人心から「義」を大事にした謙信の生き様は、敵味方を問わず戦国の世に生きる人々の心を捉えていった
宝物館から山門を見る
謙信筆の「第一義」(複製) 宝物館に本物がある
天井画。謙信は「越後の龍」と呼ばれていた
撮影 平成29年5月25日
惣門が5年にして変わるのは何かあったのか、老朽化か寄進があっての事か…いずれも綺麗ですね。
「安全第一義」は謙信の意図するものを車止めにしたのでしょうか。天上画は素晴らしいです。時折思うのは天上を張ってから画いたのか、画いてから貼ったのかと。
素晴らしいものはどの角度から観てもいいですね。
妙高高原で長い期間に合宿で行っていました。でも上越に遊びに行くことはありませんでした。
上越市で合宿中にOGが慰問に来ました。あした佐渡に帰るとのこと。一緒に行きましょうと誘われました。何処に泊まるのかを聞いたら誰もいないから私の家、と。それは不味いだろうと思い断りましたが…今思えば「行けば良かった」と。勇気がなかったのかムダな倫理観が働いてしまったのか…
今の私のようなワルであればよかったと後悔しています。余計な事を記して失礼しました。
謙信は「第一義」ですが、私は「第一旅」「第一賭」になります。OTETHUDAI@さんは、何がはいりますか?