今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

高館義経堂(岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)

2016年09月14日 | 神社・仏閣
毛越寺で入手した資料で高館義経堂の存在を知った
義経終焉の地という文字に興味が湧き、中尊寺の近くにあるその地に車を走らせた

駐車場から緩やかな坂を上がると受付所がある



受付を済まし更に坂を歩くと案内板がある。左方向を選択した



ふだんあまり花など撮らないのだが、緑の中で咲く一輪の花が気になった



「頼三樹三郎 詩碑」
儒学者 頼山陽の第三子






資料館
民家のような建物の入口の表札に「資料館」と書かれている。



内部には資料として義経最期の様子などがイラスト入りで展示されている



常盤御前が美人でなかったら日本史も変わっていたろう。この時代の影の主役である



 


全国を車で旅をしていると、義経と弁慶が至る所に現れてくる
日本人が大好きな人物ということがわかる



特に弁慶の非業な最期の場面は感動的だ。その場所がこの地だとは知らなかった



「義経堂上梁文(拓本)」 義経堂落慶のとき納めた棟札



「仁王像」
東北地方で出会った仁王像にはユニークなものが多いが、これは横綱級



「北方的な趣がある彫像」との説明書きがある



換気扇のある狭い部屋に安置されているのも面白い



義経堂
資料館を出て少し歩くと左手に石段があり、遠くに義経堂が見えてくる



扁額「白旗大明神」



頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられた
文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている



天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村が義経を偲んで建てたのが義経堂。義経公の木造が安置されている






「源義経公供養塔」



高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれている
現在、北上川に浸蝕され狭くなっているが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡の時代から、要害地とされていた



芭蕉が平泉を訪れたのは元禄2年(1689)旧暦5月13日(6月29日)のこと
高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経を思い、かの名句を詠んだ



芭蕉句碑
夏草や  兵どもが 夢の跡

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す
先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也(中略)
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ



受付所ちかくにある案内板が面白い。観光連盟と観光協会…






撮影 平成28年5月24日

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