今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

樋口季一郎記念館(北海道石狩市八幡町高岡103-3)

2024年09月16日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年9月13日

樋口季一郎記念館
北海道に住みながら「北海道を救った恩人、樋口季一郎中将」の存在を知ったのは最近になってからだ
YouTubeの「真相深入り虎ノ門ニュース」という番組内で、ジャーナリスト井上和彦氏の説明を聴いて驚いた
しかも、その記念館が私の住む、北海道石狩市にあるという



館長の江崎幹夫氏(北海道古民家再生協会理事長)は
「自分の信念を曲げない素晴らしい人道主義者で北海道を救った恩人なのになぜ広く知られていないのか」
そんな思いから、ゆかりの地である北海道に記念館を作った
「旧山谷家」を宿泊施設「古民家の宿Solii」へと生まれ変え、その「石蔵」に資料を展示している



こちらが、一棟貸し切り宿「古民家の宿Solii」



<樋口季一郎 年譜より抜粋>
1888年(明治21年)淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
1909年(明治42年)5月 陸軍士官学校卒業(21期)
1918年(大正7年)11月 陸軍大学校卒業(30期)
1937年(昭和12年)8月 ハルピン特務機関長
1937年(昭和12年)12月26日~28日 第1回極東ユダヤ人大会開催(ハルビン)
1938年(昭和13年)3月 ユダヤ人難民事件(オトポール事件)
1942年(昭和17年)8月 札幌北部軍司令官
1943年(昭和18年)北方軍司令官、アッツ島玉砕、キスカ島撤退(対アメリカ)
1945年(昭和20年)8月 終戦 18日以降の占守島・樺太防衛戦を指揮
1946年(昭和21年)小樽市外朝里に隠遁<その後、宮崎県、神奈川県、東京都に転居>
1968年(昭和43年)7月 札幌護国神社「アッツ島玉砕雄渾の碑」除幕式・慰霊祭に参列
1970年(昭和45年)10月11日老衰により逝去(享年82歳)



偉大なる人道主義者
樋口は1925年(大正14年)から、ポーランドに駐在武官として赴任。そこでユダヤ人の老人に出会う
老人は、樋口が日本人だと知ると家に招きいれ、ユダヤ人が世界中で迫害されていること、
きっと日本の天皇が、ユダヤ人を救ってくれる救世主になるに違いないと思っていることなどを涙ながらに話した
この時の出会いが、樋口の運命を大きく変えていく



カウフマンとの出会い
1937年(昭和12年)ハルビン特務機関長に着任した樋口のもとをあるユダヤ人が訪れた
アブラハム・カウフマン博士は、ハルビンで病院を経営する内科医で、ハルビン・ユダヤ人協会の会長でもある人物だった
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を世界に訴えるために、ハルビンで極東ユダヤ人大会開催の許可をもとめてやってきたのだ
ユダヤ人の悲惨な境遇を理解し同情していた樋口はそれを許可した
ユダヤ人の念願だった第1回極東ユダヤ人大会は、1937年(昭和12年)12月26~28日に開催
樋口も出席し祝辞を述べたが、その内容は暗にナチス・ドイツのユダヤ人迫害を批判するものだったため、物議をかもした
日独防共協定が締結されたばかりだったこともあり、ドイツ政府から外務省に抗議文が届いたが、樋口は「だから、どうしろと言うのか」と一蹴した



ユダヤ難民を救おう 樋口の決断
1938年(昭和13年)3月10日、樋口のもとに重大事件の一報がもたらされた
満州国満州里と国境を接した連領オトポールに、ナチスのユダヤ人迫害から逃れてきた約2万人(諸説あり)のユダヤ難民が、吹雪の中で立ち往生しているという
これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるためにシベリア鉄道を貨車で揺られてきたが、満州国が入国を拒否
カウフマンは直ちに樋口のもとを訪れ、食料は既につき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し危険な状態にさらされているという同胞の窮状を訴えた

樋口はこの緊急事態に、天皇陛下なら人道主義の道を取るだろうと考えた
保身と怠慢のために、助けを求める多くの人間を見殺しにしたら、それこそ世界に恥をさらす
困っている人を助けることこそ、日本の武士道だ
「カウフマン博士、難民の件は私が引き受けました。博士は難民の受け入れの準備にかかってください。食料と衣服をすぐに」
力強い樋口の言葉にカウフマンは感極まり声を上げて泣いた



樋口ルート
1938年(昭和13年)3月10日、樋口は直ちに満鉄の松岡洋右総裁に電話をかけて緊急の事情を説明し、救援を要請
松岡は直ちに、満州里からハルビンまでの救援列車の出動を命じた
オトポールに接する満州里からハルビンまでは900キロもの距離があり、列車の本数は1日1本だったが、13便の救援列車を出動させたと伝えられている
救出された難民の8割は上海経由でアメリカに渡った
後に建国されたイスラエルへ行った人々、残りの人々は開拓難民としてハルビンの奥地に入植したと伝えられている
ユダヤ難民たちは、その後もこのルートを使ってハルビンを経て上海などへと逃げることができたため、「樋口ルート」と呼ばれている



ヒトラーからの恫喝 関東軍の査問
オトポール事件が解決して2週間後、ユダヤ難民保護に対してドイツから強い抗議文が外務省に届いた
この抗議文は、陸軍省をも動揺させ、その日のうちに関東軍から出頭命令が樋口に通達。翌朝、樋口は関東軍のある新京へ到着した
樋口に対する査問は関東軍の実権を握っていた東条英機参謀長によって行われた
樋口は「日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであると言わねばならないでしょう。
日本はドイツの属国ではないし、満州国もまた、日本の属国ではないと信じています。
東條参謀長、あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーの お先棒をかついで 、弱い者いじめをすることを 、正しいとお思いになりますか 」
東条の顔を正面からみすえながらこう言った
さすがの東条も一言も返す言葉がなく。「樋口君、よくわかった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。ごくろうでした」と
東条は後年、敗戦の直接の責任者として、あらゆる弾劾をうけ、極東軍事法廷で裁かれる身となるが、樋口の行為を正常と判断する、冷静な良識を持って事件を処理した



アッツ島とキスカ島の戦い
アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)はアメリカアラスカ州アリューシャン列島に位置し、北方地域における日米を結ぶ中継地点で、戦況を左右する重要拠点となりうる地域であった
この島を大本営はミッドウエイ海戦の陽動作戦も兼ねて1942年(昭和17年)6月に占領した
アメリカ軍は、潜水艦や爆撃機を投入し15,000名が1943年(昭和18年)5月12日 アッツ島(熱田島)に上陸を開始した
日本軍は守備隊長山崎保代大佐率いる2,600名が迎え撃った
樋口中将は増援部隊を準備したが海軍が船を出さず大本営の中止通告により断腸の思いで断念した
山崎大佐以下守備隊は士気が高く、3日で制圧すると言うアメリカ軍の想定を遥かに超える18日間を戦い抜いて玉砕した
樋口中将はこの18日の戦いで山崎大佐との応援部隊を出す約束を守れなかった苦悩で10gk痩せたと言われている

キスカ島(鳴神島)にはまだ5,800名の将兵が取り残されている
樋口中将はアッツ島は諦めるがキスカ島の将兵は絶対撤退させるとの思いで大本営を承諾させ、実行に移す
1943年(昭和18年)5月27日から作戦が始まり、第一期撤退作戦は潜水艦での撤退であったが損傷、損失が多く断念
第二期撤退作戦は濃霧に紛れて、駆逐艦・巡洋艦10隻で高速、素早く収容し離脱する計画
指揮は木村昌福少将で、7月10日から出撃するも、霧がかからず、反転、幌筵へ帰投した
7月22日再出撃し、7月29日にキスカ湾に突入、樋口中将は収容時間を短縮するために三八式歩兵銃を海に投棄させ身軽に撤退させた
55分で守備隊員5,200名を収容し、幌筵島に無事帰還した
アメリカ軍は日本軍が撤退したことに気が付かず2週間後に34,000名が上陸
霧が晴れて日本軍が全軍撤退した事が判明した。これをアメリカ軍はパーフェクトゲーム、太平洋戦争の奇跡と呼んだ



北海道を守れ 樋口季一郎の英断
1945年(昭和20年)8月8日、漁夫の利を狙うソ連は、日ソ中立条約を一方的に破り、日本に対し宣戦布告をした
スターリンは参戦にあたって、トルーマン米大統領に対し、日本の降伏条件として千島列島全部と留萌と釧路の北海道北半分の占領を要求した
樋口は作戦参謀会議で、ソ連軍兵力を二個師団と判断し、北樺太から南樺太に向かって、南下作戦をとると予想した
対ソ連戦略の研究を積み重ねてきた樋口には、ソ連の手の内はよくわかっていた
樋口は打電した「断固反撃に転じ上陸軍を粉砕せよ」ソ連軍の日本上陸を水際で食い止めなければならない



占守(シュムシュ)島と樺太の戦い
日本軍の占守島と幌延島の総兵力は陸海部隊合わせて32,000名、火砲200門、戦車85輌、艦攻機8機であった
18日午前零時、凄まじい砲弾の炸裂音。これがソ連軍による占守島への上陸作戦の開始だった
やがて凄まじい艦砲射撃とともに18日午前1時過ぎには、ソ連軍の上陸部隊が占守島北端の竹田浜に上陸してきた
激戦の末、21日午前8時にやっと双方は停戦
ソ連軍の損害は戦死行方不明者4,500名、艦隊撃沈14、舟艇20。日本軍の死傷者は600名
樺太でも日本軍はソ連軍の陸海空からの猛攻に耐え続け、南樺太を北海道侵攻の前線基地にしようとするスターリンの作戦を不可能にした



スターリンはトルーマン米大統領に対し、22日、不満ながら北海道占領を断念する旨の回答を送った
ついに樋口は、北海道という本土防衛を戦い抜いたのだった
もし北海道北半の武力占領が実現していたら、ソ連は北海道だけでなくさらに東北地方の占領、首都東京の分割統治まで視野に入れていたと伝えられている
その意味で、占守島と樺太の戦いは、ソ連の果てしない野望を完全に破壊したものといえる



樋口の孫の明治学院大名誉教授 樋口隆一氏の話しによると
祖父にはアッツ島(熱田島)の戦いを玉砕に終わらせ2,600名将兵を死なせた悔いがいつまでもあり
毎朝起きるとアッツ島を描いた絵の前で、戦死した部下の冥福を祈っていたという
その姿を見て、子供心に痛々しく感じていたという



樋口季一郎記念館(登録有形文化財)
令和6年3月に登録された
令和4年10月には、生誕地である淡路島の伊弉諾神宮に銅像が建立された 



「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官 杉原千畝(すぎはらちうね)
彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られている
杉原千畝が「命のビザ」を発行したのは、樋口季一郎のユダヤ人難民事件(オトポール事件)の2年後である
その時も「東条英機」がかかわっている

杉原千畝記念館にも2014年と2023年に訪れた事がある(2度目は館内撮影禁止になっていた)
初めて訪れたときの館内の様子 →「杉原千畝記念館2014年」

撮影 令和6年9月13日
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