今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

船岡山 慈眼寺(新潟県小千谷市平成2丁目3-35)

2024年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

船岡山 慈眼寺(じげんじ)
作家 司馬遼太郎氏が昭和40年に取材で「慈眼寺」を訪れた時の写真である
学生時代「国盗り物語」を読んだのが初めで大ファンに
今回の旅に出る前に映画「峠 最後のサムライ」を視たのが慈眼寺を訪れるきっかけとなった



これまで持っていた本は全て処分したので、帰宅後に文庫本を購入して読む
若い頃には理解できなかった河井継之助の魅力をこの年齢になって得心した
小説では慈眼寺の歴史的場面は文庫版の「下」の後半数ページに記載がある



河合総督・岩村軍監「会見の間」
慶応4年(1868年)5月2日、戦いを避けるために藩主の嘆願書を持った長岡藩家老・河井継之助が
小千谷に本陣を構える新政府軍(西軍)の軍監、土佐藩士・岩村精一郎と講話談判をおこなった場所



談判は岩村軍監が嘆願書を無視し、長岡藩に降伏を迫ったため決裂し、北越戊辰戦争の発端となった
河井継之助はやむなく戦火を交える事となり、最終的に落城し長岡藩は滅亡する事となった(戊辰戦争)



長岡藩家老「河井継之助」(42歳)



土佐藩士「岩村精一郎」(23歳)



会見の間の額



会見の様子を人形で表現している
河井継之助は上段の間にも入れてもらえなかったとの説明もあった



官軍戦死者 位牌



会見の間に隣接している本堂前の額には山号の「船岡山」



廊下側欄間の彫刻






本堂内の様子






内陣欄間の彫刻









本尊:聖観世音菩薩



慈眼寺拝観は事前予約が必要ということを直前に知り、居多神社駐車場から連絡を取る
廊下に置かれている弥勒菩薩のような対応をしていただき拝観することができた(感謝)



本堂
平成16年(2004年)10月の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊した
多くの寄付などにより、平成18年(2006年)9月に復旧した



真言宗智山派の寺院
慈眼寺の創建は弘文元年(672年)薩明大徳が開山したのが始まりと伝わっている
当初は船岡山の麓にあり「池源寺」と称し、弥彦明神と神仏習合した後は「魚沼神社」の別当寺として隆盛した



南北朝の争乱による敗北と、戦国時代の兵火により衰退し寛永元年(1624年)に「船岡山観音院慈眼寺」として現在地に再興された






司馬遼太郎 石碑
作家司馬遼太郎は小説「峠」の取材にて昭和四十年八月当慈眼寺を訪れ 左記の一文を残している
河合継之助の風 姿を知らむがため 慈眼寺に来る 山内の蝉声を聞きつつ
昭和四十年八月 司馬遼太郎



司馬遼太郎直筆の一文
戊辰150年を記念して建立



六地蔵



山門(国登録有形文化財)
明治25年(1892年)の造営
入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、上層部高欄付き






風神雷神像
山門観音堂側に安置












手水舎



山門正面に観音堂が見える
周辺に遊具があるが、幼稚園が併設されている



船岡観音堂
木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間4間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張



「船岡観世音」の扁額と彫刻






本尊:聖観世音御菩薩



この地を訪れた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている



向拝の彫刻









前述したが、帰宅後に「峠」を再読
地震後、復元された「会見の間」のことを思いつつ余韻を愉しんだ

撮影 令和6年6月5日
コメント
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