今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

律宗 総本山 唐招提寺(奈良県奈良市五条町)

2021年07月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月26日

律宗 総本山 唐招提寺
薬師寺の隣にあるのが唐招提寺
開基は中国・唐出身の僧鑑真である

南大門
昭和35年(1960)に天平様式で再建された、五間の中央に三扉とする、切妻造り



額には寺号の「唐招提寺」
扁額は複製で、実物は新宝蔵に収蔵



南大門から金堂を見る



世界遺産 唐招提寺の石碑



境内案内図



金堂(国宝)
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたもの
寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る
正面7間、側面4間(「間」は柱間の数)で、手前の7間×1間を吹き放しとすることがこの建物の特色



中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の国宝3体の巨像を安置
写真家土門拳氏の「千手観音立像」を撮った写真はあまりにも有名
以前は堂内で拝観できたが、今回は外からのため魅力が半減した



鐘楼



戒壇へと続く道






戒壇
戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所
戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に放火により焼失して以来再建されていない



現在、3段の石壇のみが残っている
昭和53年(1978年)にインド・サンチー式の古塔を模した宝塔が壇上に置かれた



戒壇から観た金堂



右に金堂、中央は鼓楼、左は講堂



鼓楼(国宝)
鎌倉時代の仁治元年(1240年)建立
西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称する



この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため「舎利殿」とも称する



講堂(国宝)
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された
入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面4間



講堂は僧侶が習学するための空間であったことから講師、読師が座る論義台が置かれる
堂内には本尊弥勒如来坐像(重文)と、持国天、増長天立像(国宝)を安置
ここも拝観は堂外からとなる



礼堂・東室(重要文化財)
桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き
中央やや南寄りに馬道(めどう)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は礼堂となる

「礼堂(らいどう)」
隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂



堂内には清凉寺式釈迦如来立像(重文)と日供舎利塔(重文)を安置



「馬道(めどう)」
土間の通路で礼堂と東室の中央にある






宝蔵・経蔵(国宝)
礼堂の東側に並んで建つ(北が宝蔵、南が経蔵)
奈良時代の校倉造倉庫。宝蔵と経蔵の外観は似ているが、規模は経蔵の方がやや小さい



「宝蔵」
唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれる
経蔵より一回り大きいその堂々たる姿は、校倉の典型といえる



「経蔵」
唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれる



唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉



開山堂
元禄時代に徳川家歴代の御霊殿として建立
かつては御影堂安置の国宝「鑑真和上坐像」が安置されていた



平成25年(2013年)鑑真和上の姿を写した「御身代わり像」がつくられ祀られている



芭蕉句碑



御廟への道






開山御廟
鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された
「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味する
一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある



出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならない
当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた



天平5年(733年)遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた
彼らが揚州の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった
普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た



鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ
弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する
しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時、唐から出国することは国禁を犯すことであった



鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった
1回目の渡航計画(743年)は密告により普照と栄叡が捕縛
2回目の渡航計画(同年)では強風で難破、第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫



748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流、栄叡が病死し、高弟の祥彦も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった
753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた



天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した
同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた
鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、唐招提寺の地を与えられた
大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった



「新宝蔵」
昭和45年(1970年)に完成した収蔵庫
特に印象に残るのは「木造如来形立像」だ(右端の写真の像)
頭部、両手先、両脚先を欠失し「唐招提寺のトルソー」の通称で著名な像は必見



金堂から見える南大門



撮影 令和3年5月26日

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