今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

関ケ原古戦場 決戦地(岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202)

2024年07月05日 | 名所・旧跡
訪問日 令和6年5月16日
国史跡 関ケ原古戦場 決戦地
笹尾山・石田三成陣跡
関ケ原の北西、北国街道を押さえる位置にあり、西軍を指揮した石田三成が、約6,000の兵とともに布陣した



慶長5年(1600年)9月15日 濃霧と雨
西軍約8万2千人、東軍7万4千人が布陣
午前8時 東軍の井伊・松平隊が西軍の宇喜多隊に発砲し開戦



午前11時 全戦線で西軍は戦いを優勢に進める
*小早川・毛利・吉川ら諸隊は動かず
正午 小早川隊は寝返り、大谷隊へ攻撃開始
*大谷隊壊滅<大谷吉継自刃>



見晴台
午後2時 石田三成、宇喜多秀家、小西行長らは伊吹山中へ敗走し西軍は総崩れ
天下分け目の戦い・関ケ原の合戦の勝敗は、わずか半日程度で決した
*島津隊が伊勢街道方面へ敵中突破



石柱「史蹟 関ケ原古戦場 石田三成陣地」
現在は周辺一帯が国指定史跡となっている



皇太子殿下御野立所
御野立所は「おのだてしょ、おのたてしょ、おのだちしょ、おのたちしょ」と読む
移動中の貴人(主に天皇)が野外で休憩した場所という意味のようだ
明治43年4月15日と刻まれているので、大正天皇が皇太子の時になる



美男美女の外国人観光客(絵になる)
英語による音声ガイドを熱心に聞いていた



見晴台からは、関ケ原に布陣した東軍を正面から見下ろす形で、関ケ原古戦場が一望できる
400年前、石田三成がどのような思いでこの地に立っていたのか……



「関ヶ原の戦い」において、敗軍となった「島津義弘」の部隊が、敵陣を正面突破して退却した
このとき島津軍が選んだ戦法「捨て奸」(すてがまり)は、味方を犠牲にして追撃隊を食い止める壮絶な策だった
その結果、大将の島津義弘は薩摩国に生還し、断絶をまぬがれた島津氏は江戸時代を生き残り、幕末まで大きな存在感を示す大名家になった



この陣形図を見ると、小早川の寝返りによる大谷隊壊滅は致命的だということが分かる
個人的には西軍武将に魅力的な人物が多く、小早川の裏切り行為を苦々しく思ってきた



そのような事を考えながら古戦場を眺めるのも楽しい



雨が降ってきたので、駐車場に戻る



田圃の中央に「決戦地」の幟がたっている






撮影 令和6年5月16日
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