練習オタクの日々

3日ぼうずにはしたくありません!この日記とピアノのお稽古。練習記録とその他読書などの記録をつけておきます。

「金刀比羅宮書院の美-応挙・若冲・岸岱」

2007-08-11 | アート
「金刀比羅宮書院の美-応挙・若冲・岸岱」
東京藝術大学大学美術館
2007年7月7日(土)~9月9日(日)

香川の「こんぴらさん」にある建物の中にある襖絵、壁画、欄間など、
そっくりそのまま持ってきてしまって展示してある、
というとてもユニークな展覧会!

お部屋をそっくりそのまま・・・という前情報だけ聞いていたので、いったいどんな展示になっているのか行ってみるまでは「なぞ」でした。
もしかして畳敷きのお部屋がいくつもそのまま再現されているのか、
と思い、畳に上がるのならはだしはまずいかな?と、
暑いのにストッキングを履いてゆく、というとんちんかんな準備をしていってしまいました。

会場に入ると・・・なるほど。
お部屋は再現されているが、モチロン土足でまわれます。
壁画・襖にぎりぎりまで寄って見学できるように、
よくある、美術作品の前に置かれている「柵」の代わりに細長く畳が敷いてあるのです。
展示方法が工夫してあって面白いな、とまず思いました。

そして展示作品。
応挙の名前はお花のお勉強にも出てくるのでよく知っていましたが、
有名な虎の襖絵は初見です。
この時代、応挙も若冲も、本物の虎は見たことがなく、毛皮などを見て想像で描いていたそうです。
そのせいか、どことなく虎は虎でも架空の動物のように見えます。
猛々しさは表現されていますが、成長した虎のはずなのになんとなく可愛らしい。
たぶん、耳と脚が違うんじゃないかな?
虎というよりは猫のような愛嬌たっぷりの虎の間。
当時の人は迫力に気おされていたかと思いますが、現代の私たちが見ると思わず微笑んでしまうようなこの違いが面白いと思います。

お目当ては若冲の花丸図。
このお部屋は・・・入ってみると・・・ち、小さい・・・。
確かに実際も6畳ほどの和室であるらしく、その大きさに再現された部屋に見学の人があふれ返っているので、小さく感じます。
そしてあの一面のお花の絵、です。
ものすごい圧迫感です。

しかし若冲の絵は見ていて飽きません。
植物図鑑を作ろうとしていたのかと思うような緻密な描写に感心してしまいます。
見に行く前の知識として、お花の雑誌にこの花丸図の特集があったので読んで行ったのですが、少し勉強して行ってよかったと思います。
で、ないとあまりのものすごさに見るポイントが分からず、どこ見ていいかおろおろしてしまいます。
たとえばこでまりの絵。おしべの数も正確に、あの細かいお花をしっかり書き込んでいます。
これはボタニカルアートの走りでしょうね。
そして、若冲らしいのは、蓮の絵。
枯葉と花とを同時に書いてしまう。ありえない組み合わせだけど、絵的に面白ければOK。シュールです。

その他、等間隔に並べて描いてある花の向きとか、色調とか、
全体を見たときにやっぱりバランスよく見えるように配置してあります。
若冲のグラフィック・アート感覚はやっぱり天才的だったんだなぁ、と再認識しました。

金刀比羅宮、行ったことないから行ってみたいなぁ・・・。
次回はそれこそ畳のお部屋で正座して、江戸時代の人の気分になって
この絵たちを眺めてみたい・・・そんな気分になってしまいます。

『中国行きのスロウ・ボート』 村上春樹

2007-08-10 | 読書
また昔の村上春樹なんか読んでしまっている。
(電車で移動するときに読む本=文庫がなくて、家の本棚から出してきて読んでいる)

↓下の記事で書いたけど、この短編集はどちらかというと、
今読むとちょっと・・・というかかなり恥ずかしい村上春樹だと思うのだけど、
そう思いながら読むとまた面白い。
村上さんの名誉のために言っておくけど、
私はかつて新刊が出れば速攻本屋に行って重たい単行本だろうと迷わず買っていたハルキストだったし、今だってそれに近いものがある。

でも、この短編の何本かの話は本当に恥ずかしくて、
これは男の人の願望なんだろうか???それとも「男の人の願望はこんな感じなんだろうなぁ」と春樹氏が想像しながら書いたんだろうか?とか、
ひねくれて考えてしまう。

例えば、女性(今で言えばセレブっぽい雰囲気をかもし出しながら、嫌味な感じは皆無)が一人で季節はずれのホテルに宿泊しているのを「僕」は見かける。
で、ホテル内の人気のない歴史を感じさせる図書室で「たまたま」ご一緒したときにはもう、会話が始まっていて、それからお酒を飲みながら会話の続きを楽しむことになり、「ちょっとした手違い」で彼女の触れてはいけない過去に「僕」が触れてしまい、彼女をどうやら傷つけてしまったらしい。うんぬん・・・。で、最終的に何事もなく彼女はホテルを後にして僕も残してきた彼女に仲直りの電話をかけようとする。

一人で旅行したくて一人で来ているのに、誰とも話ししなくてすむから一人でいるのに、いきなり不審な男に話しかけられて話はずむかなぁ???とか、よけいなことをいろいろと考えてつっこみながら読んでしまった。

でも、結論として、会話が始まらないと話が始まらないんだもの、しょうがないよね。
今の春樹氏だったら、まったく会話も接触もなしにひとつの話を書き上げるだろうなぁ。

『カンガルー日和』 村上春樹

2007-08-08 | 読書
何度読んだか分からないけれど、また繰り返し読んでみる。
1980年代前半に書かれた作品集なので、かなり初期の村上春樹である。

今でこそ、これに似たスタイルの小説は星の数ほどあるが、
当時はやっぱり「こんなの読んだことない!」と思ったものだった。
クールでシュールで、まるで「あとはご自由に!」とでも言わんばかりに読者に放り投げられっぱなしのラスト。

そしてこの短編集には私的な名作の
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」
が入っているではないの!
その話の存在すら忘れていたけれど、また読み返してみると、
相変わらず「私的に」名作だった。

100パーセントの女の子(女の子にとっては男の子)に出会うことの幸福感と出合ってしまったことで生ずる不安感。
そしてなにがなんでも・・・という気持ちが希薄な青春時代の向こう見ずさとか余裕とかぼんやり感。
一度失ってしまうと二度とは手に入れることのできない悲しみ。
その悲しみを自覚すらしない人の心の鈍感さ。
でも、世界のどこかには未だに100パーセントの女の子が存在している、という自己完結的な幸せと安心。
でも、それに固執しないクールさと分別。

ほんの短いこの話を読むことで20年前の私はいろんなことを思ったし、
20年たった今の私もいろんなことを思うことができる。

初期の村上春樹って今読み返してみるとちょっと恥ずかしくなるような作品もかなり多いけれど、
この短編は今読んでも変わらずによかった。


『日のあたる白い壁』 江國香織

2007-08-07 | 読書
27人の画家とその作品を取り上げたエッセイです。

私が本当に好きで美術館に足を運ぶようになったのはここ何年かのことです。
それまでは絵画・美術の類を鑑賞する意味を取り違えていました。
つまり、それ以前は自分の家に置いて飾って合いそうな絵・作品が見ていて楽しいものなのだ、と思い込んでいたのです。
それなので、見ていてもあんまり楽しくありませんでした。
だって、私の家なんかに合う作品、そんなのめったにありませんもの。
愚か者!と最近の私は思います。

江國さんはエッセイの中でこう書いています。

いま住んでいる家に飾る、という条件で、美術館で絵をみると、欲しいものはまずみつからない。好きな絵ならたくさんあるのに。

それでよかったんだ・・・。むしろそれが正しかったんだ・・・。

江國さんはそんなこととっくの昔に気がついていて、それでも絵を「見に行く」のがお好きでいろんな美術館に足しげく通ってきたので、
ものすごく絵画に詳しいのです。
私が知らなかった画家、知っていた画家の知らなかった作品がこの本にはたくさん出てきます。
そのどれもに素敵な江國さんの「お話」が添えられています。

これを読んだら、ますます美術館に行きたくなってしまいました。
今年の夏は、ホントに美術三昧になりそう~。

レッスン記録(8/4の分)

2007-08-06 | ピアノ・音楽
『テクニック』
「ド・ミ・レ・ファ・ミ・ソ・・・」というような一音おきの運指がものすっごく難しい!相変わらず脳からの指令がちゃんと指に伝わっていない。

『30番練習曲 16番』 ツェルニー
○もらえた~。この曲のように速くて音が上下にかなり飛ぶタイプの曲は苦手だったけど、訓練次第でなんとか弾けるようにはなる、とちょっと嬉しくなった。とは言ってもかなり長期間弾き続けていたけれど・・・。
やはり楽譜を端から端まで見て弾いているのではダメで、ある程度は音を聞いて鍵盤のどの辺か感覚で覚えるということと、コードごとの和音をとっさに弾けるように訓練するのが大事かも。

『ワルツ Op.39-15』 ブラームス
前回のレッスンの雰囲気だと、今日弾いて合格!かと思っていたのに、
引き始めたらまいどのことながらボロボロで、「次回、もう一回聞かせて下さい」と言われてガックリ・・・。
どうも緊張するとガクガクブルブル震えてしまって力が入らなくてふにゃふにゃした演奏になってしまう。特にこの曲のようにソフトな雰囲気で弾く場合は。
ずっと前にレッスンしていただいたベートーベンのソナタのように、第一音からフォルテで弾くような曲のほうが音が出るかも。←全部言い訳ですが。

『アヒルと鴨のコインロッカー』

2007-08-04 | 映画・ドラマ
(ネタバレあり)
原作を読んでいつもながらに感動&感心し、映画化されると聞いてあの内容をどうやって映像化するのだろうと興味津々、かなり期待して観に行った。
その期待を裏切らない作品だった!

まず役者がいい。特に瑛太と濱田岳。
瑛太は河崎という男とドルジという男の演じわけも完璧だったし、セリフのひとつひとつに実は大きな意味がある、という伊坂原作をちゃんと表現していた。
濱田岳クンは月9でチラ見したときは、ちっちゃいとっちゃん坊やみたいで年齢不詳・・・とか思っていたけど、演技が上手!天然的な性格で知らない間に「彼らの物語に途中参加」させられて翻弄されている様がよく出ていた。すごく大事なキャラクターをとてもさり気なく上手く演じていたと思う。

そして何と言っても脚本、演出もいい。
ほとんど原作にそった脚本だったので、半分までは川崎≠ドルジであり、そこをどうやって映像化するのか、となぞだったが、「そうか、そうすればいいのか~」という演出。
で、「オレの名前はキンレイ・ドルジ」と白状してから同じストーリーがキャストを違えて繰り返される。いろんなことを知ってしまって、やがて訪れる悲劇を知ってしまってからこの第二のストーリーを見ると本当に悲しいのだ。
ドルジが放つ「ディラン。」というたったひとつのセリフさえこうも印象が違うのか、と思えるほど。

原作読んでいる人も読んでない人も、ネタをバラされてしまった人も、きっと楽しめる映画だと思う。そして、見終わるともう一回観たくなってしまう映画!

『アヒルと鴨のコインロッカー』
原作:伊坂幸太郎
監督:中村義洋
出演:濱田岳、瑛太、関めぐみ、松田龍平、大塚寧々


「アンリ・ミショー展 ひとのかたち」

2007-08-03 | アート
昨日アップした展覧会の別会場でやっていて、面白そうだったのでこちらも鑑賞してきました。

「アンリ・ミショー展 ひとのかたち」
東京国立近代美術館 ギャラリー4
7月19日(火)~8月12日(日)

アンリ・ミショーという人については私はお恥ずかしながら存じ上げなかったのですが、
画家であり、詩人でもあったそうです。

フロッタージュと呼ばれる「こすり出し」の作品。
(子どものころ、木の幹なんかに画用紙をあてて鉛筆でこすり幹の模様を浮かび出すようなこと、学校でやりましたよね。あれです)
水彩画。墨を使用した作品。
グワッシュという重ね塗りが可能な水彩絵の具を使用した作品。
そしてメスカリン素描と呼ばれるメキシコ産の幻覚剤(メスカリン)を服用した状態で見えたもの(幻覚?)を描き残した作品。

以上が展示されている作品の大まかな分類です。
最後のメスカリン素描とか、アブナイですよね。
極細サインペンで描かれたなんだかものすごく細かい線でできた作品なんですが、
ちょっと前に本屋によく並んでいた「視力がよくなる3Dの絵」みたいなのです。
で、なければ、子どものころノートに書いたチョ~細かい迷路みたい(書いてませんでしたか??)

展覧会サブタイトルに「ひとのかたち」とありますので、
よく見ていると人を描いているようにも見えます。
でも、じ~~っと見ていて、何の形が見えてくるかはその人次第、という面白い作品ばかりです。
私なんかは、ある一連の作品はちょっと離れたところから見たとき、
「あれ?楽譜が飾ってある・・・」とか思いました。

画像はフロッタージュの作品です。
3人の天使が手をつないで踊っているみたい!
このようなシンプルで想像力を刺激するような作品がたくさんです。
おすすめ展覧会です。

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」展

2007-08-02 | アート
これ、絶対観に行くべきです!!!おすすめです!
私が写真好きというのもありますが、写真に興味がない人も行くべき!
写真に興味がある人は絶対行くべき!

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌」
2007年6月19日~8月12日
東京国立近代美術館(竹橋)

この写真、観たことある人も多いことでしょう。
アンリ・カルティエ=ブレッソンは「決定的瞬間」をフレームの中に収めることができる数少ない天才です。
学生時代から彼の写真を機会があるごとに観てきましたが、
大規模な写真展に足を運ぶのは今回初めてです。

とにかくすごい!さらっと見過ごしてしまうような写真は1点もない!

今回彼の作品を改めて鑑賞して、カルティエ=ブレッソンの優れた点は数々ありますが、私が特に感動したのは次の3点です。

①トリミングが完璧:写真はフレームの中にどこからどこまでを収めるのかが命。
たとえば、人がざわざわと点在している空間の中の一人佇んでいる人物だけを写真に写せば、実際は猥雑な印象の場所が静謐な空間にもなりえます。カルティエ=ブレッソンはその場面の作り方が天才的。

②画面上によけいなものが何もない:たとえば、片隅に写っている丸められたタオル、後方でわれ関せずという表情で写っている人物、雲、影、彼の作品の中に写っている物はすべてあるべくしてそこに写っているのです。写っているすべての物に深い意味があるかのようにそこに存在しています。

③構図が完璧:人物・建物・陰影など配置のバランスが天才的。そしてしばしばユーモラスな雰囲気が写し出されているのがまた天才。人物に関してはポーズを指定していたこともありえますが、その人物と背景が作る直線や曲線の構図がすごく面白い。

それだけではなくて、もっといろいろすごいところだらけなのですが、とにかく、映画などであれば上記のすべてを「演出」することで表現できますが、
カルティエ=ブレッソンの場合は「決定的瞬間」が訪れるのを根気強く待ち続け、
その時が来たら逃すことなくシャッターを切って写真という形に残した、というところがすごいと思うのです。

フォト・ジャーナリスト的な活動もしていた彼ではありますが、
私は彼の写真は報道写真、歴史的記録写真として素晴らしいだけでなく、
意匠という意味においての素晴らしい写真たちであると思います。

自分が写真を撮るときの参考に・・・なんていうのはとてもとてもおこがましくて口に出来ませんが、
写真というフレームで切り取られた空間を意識して世界を見たら、
今自分が立っているこの場所もまた違って見えるのではないか、なんて思える展覧会でした。


『I'm sorry,mama.』 桐野夏生

2007-08-01 | 読書
快適に読み進めることができる話でもないのに、一気に半日で読み終わってしまった。
桐野さんの作品なので、快適さの正反対を行くような話だし、むしろ共感をまったく覚えもしないし、なのにどうして読むごとに先へ先へと気が急いてしまうのだろう。
そのスキャンダラスな内容、少なくとも今の自分とはまったく異なるシチュエーションに好奇心を覚えて、なんだろう。

置屋の娼婦の子供として生まれたアイ子は母親も父親も誰だか分からず、戸籍もなく、もちろん教育も受けず、
すべての人間から邪魔者扱いされて成長し、
人に寄生しながら生きてきて、生活のためになら盗み、都合が悪ければ逃げ、
さらに都合が悪ければ殺人さえ厭わない。

なんだかもうすごいのだ。こういう話を書ける桐野さんもすごい。

確実に何かが欠落しているアイ子。
こんな生き方は実際不可能だと思う私が甘いのか、と思うほどの迫力だ。
まさに泥水を飲み、落ちているものを食し、思いつきで行動し、平気ですべてを捨ててとんずらする神経。
たくましさすら感じてしまう生き様。
ラストに本当の母親が誰だか判明してにわかにまともな人間らしさを一瞬取り戻したように思える叙述がむしろ違和感があるほどだ。

すごく後味悪い話だが、すごく衝撃的であることも事実。