冒頭、近未来を描いた小説のシーンはまるでリドリー・スコットの『ブレードランナー』のよう。
そしていきなり聞こえてくる、木村拓哉のナレーション、しかも日本語。
妙な違和感を覚えながら映画はすすんでゆく・・・。
現在、過去、現実、虚構の世界、いろいろなシーンが入り混じり、
日本語、広東語、北京語、さまざまなことばが聞こえてくる。
バランスがよいのか悪いのか、独自の世界が描かれているが、
ストーリーは整理してみると、意外と単純である。
さまざまな女遍歴のある物書きが結局1人の人妻との恋愛が忘れられずにそんな自分の姿をナルシスティックに小説に描いてゆく、といったような話。
だが、そんなストーリーよりもなによりも私自身が特に印象に残ったのは、役者の見られていることを非常に意識した演技だった。
演技をしているのかしていないのか分からないほどの自然な演技があるとすれば、
この映画の役者達の演技は全くその逆であると思われる。
観客の視線を意識して、立った時の後姿、指先にまで神経を集中して、ありきたりな言葉でいえば、カッコよくみせようとしている演技、それが本当にサマになっていた。
ベッドに横たわった女性のドレスから剥き出しになった足、
チャン・ツィイーのチャイナドレス姿の腰の突き出し方、
トニー・レオンのタバコをくゆらせる姿、
どれもキザ、といえばキザなのだが、キザさに徹底しているところがよかった。
そんな中で、やっぱりキムタク、浮いていたような気が・・・。
大人の中に子供が混じってしまったような印象。
彼の演技も自然っぽくしているけれど実は充分視線を意識したものであることは自明だが、
なんだか使い方も中途半端でかわいそう。
でも、監督はよほどキムタクを気にいっていたのか、たんなる日本人の客寄せ、と割り切っていたのか、
キスシーンなんかは普通顔と顔が重なっていたら女性の側からカメラを撮るのに、
キムタクばっかり撮っていた。
ちなみに「2046」とは様々な意味がそこにこめられているそうだが、
そのひとつとして、西暦2046年は香港返還から50年(猶予期間が終了する)という、運命の年であるそうだ。