練習オタクの日々

3日ぼうずにはしたくありません!この日記とピアノのお稽古。練習記録とその他読書などの記録をつけておきます。

『岳物語』 椎名誠

2005-09-26 | 読書
娘と本屋に行ったときに「『岳物語』面白かったよ~」と勧められて読みました。
娘にこの本が面白い、とおすすめされるようになるとは・・・。
『岳物語』もそんな、息子が父に何かを教えるまでに成長してゆくある時期の親と子どもの話です。

椎名さんの作品を読んだのはこれが初めてだし、彼の生活などについては私は多くを知りません。
この本が書かれたのが1985年前後、当時小学校高学年だった岳少年は今どんな大人に成長しているのでしょうか?

本編も大変に面白かったのですが、文庫版のあとがきにとても印象深いことが書いてありました。
「ストレスがゼロになったらその人間は滅びる」というストレス学者(?なんていう肩書きがあるんだ~)ハンス・セリエ教授の言葉を引用しつつ、「子どもにはある程度のストレス、欲求不満を味わわせなければいけない」とそこには記してあるました。
なるほど~。

さっそくこの言葉を拝借して、「いつもママはいいなぁ、とか大人はいいなぁ、ずるいなぁとか言ってるけど、そういう気持ちが子どもにはないといけないんだって。そうしないとロクな大人にならないんだってさ」と娘に言って聞かせたのは言うまでもありません。

『海を飛ぶ夢』

2005-09-25 | 映画・ドラマ
実在の人物の生涯を元に、尊厳死について扱った映画。
見終わってからいろいろと考えて、結局何が正しいのか自分には結論づけることが出来なくて気が重くなってしまった。

「安楽死」と「尊厳死」というのは違うことなのであろう。
植物人間となってしまった患者の生前の意思表示にもとづき、生命維持装置をはずした、という事例は日本でも法的に認められていると思われる。
主人公、ラモン・サンペドロの場合は、26年前に事故により四肢麻痺(首から下を自分の意思で動かすことができない)となり、「人間として尊厳のない生き方であり、生きてゆくことは自分にとっては権利でなく、義務である」として尊厳死を法的に求める裁判を起こした。
この場合、重要なのは、尊厳死が自殺ではないということなのだ。自殺であれば自分ひとりで実行できることであるが、彼の場合は他者の手助けなしには死に至ることすらできないということである。従って尊厳死が実行された場合、本人はもう罪を問われる事はないにしても、その幇助を行った人物が当時の法律では違法にあたってしまう。

ラモンはこの状況を打破するために法廷闘争までも辞さないほど、精神は明晰である。感情も全く健常な人物であり、家族、他者、女性への愛情という感情ももちろん持ち得、口に筆記具をくわえて文章を書くこともでき、彼が作った詩はその素晴らしさゆえにやがて出版されるに至るほどである。(その作品が本編の元となっている)そのような人物が死を望んでいる場合、周囲の人間はおそらくそれを認めようとはしないだろう。ラモンの場合ももちろん彼を介護する家族は尊厳死など認めようとはしない。彼の前に現れた女性も、「あなたに生きる勇気を与えられた。あなたの面倒をみてゆきたい。」という。しかし彼は「本当に自分のことを愛してくれているのなら、私を死なせて欲しい」と言うのである。

この映画を観ていて、私は自分がラモンのような立場になったら、というよりも自分のごく身近にいる人がラモンのようになってしまったらどうすればよいのだろう、と考えてしまった。尊厳死を即座に認めるようなことはもちろんできないだろうが、だからといって生きてゆくことをそんなにも彼に押し付ける権利があるのだろうか、尊厳死は認められてしかるべきことなのではないか、とまで思うような瞬間もあった。

ラモンと同じように病に悩み、彼の気持ちを理解し、「貴方を死に至らせた後、自分も命を絶つ」と約束してくれる女性が現れたとき、彼はある意味幸福の絶頂にあったと思われる。しかし、その約束は果たされることなく、かれは再び絶望に陥ってしまう。彼女はやがてその病のゆえに彼との約束はおろか、彼のことすら忘れ去ってしまう。
この時点で彼女はもしかしたら、死を選択する、という思考さえ失ってしまっていたかもしれない。
彼女は確実に病が進行していて、もう死がすぐそこまで差し迫っていたのだ。
しかし、ラモンはおそらく何十年も行き続けるであろうし、尊厳死を求める気持ちを実に冷静に持ち続けることになる。

ラストシーンは彼が尊厳死を実行し、魂がついに解放されたというように、悲しみよりもむしろとてもさわやかな映像で作品は終わっている。
だが、それでよかったのかどうか、やはり私には判断することが未だにできないでいる。

レッスン記録

2005-09-22 | ピアノ・音楽
今日は娘のレッスンの次の時間に私のお稽古を入れてもらいました。
先生のお宅に伺うのが1回で済むのはよいのですが、短い時間なので恒例のおしゃべりがないのは淋しい・・・

『テクニック』
いつもは鍛えられていない左手が痛くなるのに、このパターンの場合はなぜか右手が痛くなってしまいます。
どうやら黒鍵を弾くのが右手の4の指だからのようです。

3連符を弾く時に力が入りすぎているので、もっと軽く、手首を下に押し付けるのではなく、上に持ち上げるようにして弾くとよい、と教えていただきました。
意識してそのように弾くと、なるほど弾きやすいです。

『ツェルニー 3番』
指番号を必ず守って弾くように、とのお言葉があったのですが、パターンが変わることろなど、まだあやふやなところが多々あり、違う指で弾いてしまうと指が足りなくなる・・・ということが。
定められた指使いをもっと確実にしてくる、ということが次回までの課題です。

『雨だれのプレリュード』 ショパン
中間部がやはりまだいまいち。
ペダル使いは大分なれましたが、どうしても左手の音がとぎれてしまうので、こちらも使う指に工夫して、一音一音単独の音として弾くのではなく、つながりを持たせてあくまでペダルは補助的に使用する、という意識で弾くように、とのことです。

ツェルニー、雨だれともに来週までに仕上げられますように

『いつか読書する日』

2005-09-21 | 映画・ドラマ
初恋の思い出とその気持ちだけを大切に30年以上も静かに生きていた女性と、思いをよせられる男性。彼もまた心の中に同じ思いを抱き続けて生きている。
そして長い年月を経て、その気持ちがつながりあう時がくる。

という、いわゆる日本映画と言われるような作品。
じっと静かに日々を淡々と生活する主人公の女性に田中裕子さんははまり役。

この映画にはいろんな要素が描かれている。
秘めた恋、不倫の恋、病気、痴呆、介護、児童虐待、死、恋の成就、ラストはネタバレになるからあまり書けないけれど、悲劇。
中年の二人の恋だけでなく、いろんなことが2時間の映像の中にでてくる。
見終わったあと、ずっと考えていたのだけれど、主となるストーリーもサブのストーリーもとてもドラマチックに受け取ろうと思えばそう取れるけれども、実際のところ、実はどれも生きて行くうえでの通過点に過ぎないのではないか。
特別なことばかりでなく、どこにでもころがっているエピソードなのではないか。
やっと思いが通じ合った至福の時に突然訪れる悲劇。それは何十年もひとりで生きてきたヒロインでなければ耐えられない過酷な運命だと思ったけれど、もしかしたらそうでないかもしれない。
誰しもなぜ私の身に・・・なぜ私だけが・・・と思うようなどん底を経験しながら、悪夢を自分なりに消化して、また明日も同じように生きていかなければいけない。
そんな気持ちにもなった映画でした。

舞台は西東市という架空の町ですが、ロケが長崎で行われたことは映像を見れば明らかです。
坂道と階段と狭い路地だらけの町。
生活するのに不便ばかりが目につくようにも思われましたが、逆にこのような町に暮らすことによって生活から不要なものが自然と取り除かれ、住んでいる人たちは逆に自由に身軽に暮らす術を身につけてゆくようにも感じられました。
牛乳ビンのつまったバッグを斜めがけにして、颯爽と階段を駆け上がってゆく田中裕子さんの姿がとても爽やかに感じられました。

『疾走』 重松清

2005-09-18 | 読書
シゲマツがこの作品で書きたかったのは「絶望」に他ならないのではないか?

現実の地獄のさなかにいるとき、夜になって夢を見てもそれは悪夢でしかなく、しかし、現実に戻らなくて済むのならその悪夢が覚めないで欲しいと思う。
そして否が応でも現実に引き戻され、これが悪い夢ならどうかお願いだから覚めて欲しいと願う。

物語を読むとき、それがどんなに残酷な話であっても、読者は心のどこかで「きっと最後には救いがあるはず」と思って読んでいる。しかし、シゲマツはそんな甘い救いすら否定するかのようにしっかりと地獄を見せ付けてくれる。

実際、本当の絶望の中にいるときには、その先に救いがあるなどということすら考えられない。ひたすら痛めつけられ、その絶望を忘れる事ができる時があるとすれば、新たな地獄がやってきたときか、それともなければ何物にも心を動かされないよう、「からっぽ」になれた、なってしまったときだ。

読者が救いを求めるために付け入る隙すら与えない、まざまざと残酷さを認識させる、シゲマツの真骨頂はここにある、と思う。

そんな重松さんだが、最近は小学生の娘も愛読しているし、国語の教材にも取り上げられることが多くなった。
でも、この作品は小6にはちょっと読ませられないかも・・・R-12指定。


『西の魔女が死んだ』 梨木香歩

2005-09-16 | 読書
最近は自分の趣味で読む本と、娘に読ませたらどうかな、という観点で選んで読む本があります。
この『西の魔女が死んだ』は娘の方から「読んでみたい」と言われて買っておいて私のほうが先に読んでしまいました。
なんでもローティーン向けのファッション雑誌に紹介されていたそうです。
なるほど、中高生の女の子が好きそうなお話。(男子はちょっと、どうかな?)
まさにスローライフといった暮らしをしているおばあちゃまのところで、登校拒否となってしまった主人公の少女がしばし暮らし始めます。
おばあちゃまは魔女に違いない、その血をひいている私も魔女になって強く生きていきたい、と魔女修行が始まります。
学校、友達、家族、といった環境の中で自分の意思で生きていくことが大変だと気付く年代、でも、自分の意思をしっかり持つことってとても大事、なにが起きてもすべて自分の責任なんだということをこの本を読んだ少女(少年)たちは少しでも気がつくかも。
少年少女たちだけじゃなく、そんなことを忘れていた大人も改めて同じような思いを抱くかもしれません。

『星になった少年』

2005-09-15 | 映画・ドラマ
あの柳楽優弥少年がどんな演技をしているのか見たくて映画館に行った。
彼はあの目がいいと思う。笑っていないのだ、あの幼さにして。幼いというのは失礼かもしれない。まだ十代にしてもう大人の雰囲気だった。
カンヌでいきなり注目され、(それ以前からのことだが)大人だらけの世界に身をおき、すでに自分が確立されているような雰囲気がある。
また、演技もまったく大げさでなく、自然で、でも映像の中で伝えなければいけないことがよくわかってしっかり演技している、という印象だった。
この映画に参加することによって、あの年で普通の中高生には体験できないような貴重な経験をたくさんしてきたと思うが、その後の人生にもずいぶん影響するだろうなぁ、とうらやましくも思う。

作品は実話に基づいているそうだが、映画通の大人たちには酷評されてもいるようだが、子どもが見てもよく分かるように作られた映画、という印象。そういった意味ではよくできていると思う。
主役は柳楽少年ではあるが、なんといってももうひとりの主役は常盤貴子ちゃんでもなく、タイの少年達でもなく、何頭ものゾウである。川渡りのシーンなどはすごかった・・・。

ところで、日本人初のゾウ使いとなったテツ少年は実際にも20歳の若さで急死したらしい。
自分のやりたいことにまっすぐ突き進んで、10代で単身タイに渡り、たくましく生きてあっという間に星になってしまった、ということなのだが、夭折という事実は必要以上に彼を伝説化していることも事実かな、と思う。
自分の好きな事を見つけ、まっしぐらに生きてきて、それがすごいことのように思われてしまうが、もしも彼がそのまま行き続けていたらどうなっていたか、ということもふと考えてしまう。
ゾウが大好きだからゾウ使いの仕事につくのはいいけれど、中学も高校もきちんとは通っていなかったのかもしれないし(そりゃ、いじめられていたり、つまらない授業、つまらない先生ばかりの学校に行くくらいなら好きなことしていたいでしょう)、大人になってからどういう風にその後の人生を送っていたか、というのは疑問が残る。
一番感心するべきは、俳優業もこなしながら、「学校の試験勉強が大変です」と言いつつ、しっかり勉強させられている柳楽くんかも。

フリージア発芽

2005-09-13 | お花
9月に入って台風、または雨など悪天候があけて再び晴れ間が射すような日に、気がつくとフリージアの球根(植えっぱなし、夏の間水遣りなど一切していない)が発芽しています。それも毎年必ずといっていいほど同じタイミングで。
植物の体内時計ってあなどれないなぁ、と思う瞬間。

『我輩は猫である』 夏目漱石

2005-09-12 | 読書
どういう風のふきまわしか漱石なんて読んでいます。
考えてみればこういった名作は子供の頃に読みなさいと言われ、または読んでおかないといけないかなと思って、どちらかというとしかたなく読んではいましたが、大人になってから自主的に読むとその面白さは想像以上です。
『我輩は・・・』にしたって、猫の目から人間社会を見る、という構図はいまでこそ目新しくもないですが、そうではなくて、一連の動物物、赤ちゃん物の映画、ものがたりなどの原点は全てここにあったのであろう、と思われます。

ところで、作品の冒頭近く、猫の家の主人が「平の宗盛にて候」と言われていますが、これはいったいどういう意味なんだろう、とずっと考えていました。
折りしも大河ドラマ『義経』では壇ノ浦・・・。
コンプレックスのかたまりでいつもいい訳だらけの平宗盛は、平氏滅亡のときにあっても潔く死ぬ勇気もなく、ぶざまに生き延びていた・・・。
と、いうことは、「平の宗盛にて候」というのは、往生際が悪くて男らしくない、っていう意味なのかな?