練習オタクの日々

3日ぼうずにはしたくありません!この日記とピアノのお稽古。練習記録とその他読書などの記録をつけておきます。

「ムンク展」

2007-11-30 | アート
ムンク展に行ってまいりました。

「ムンク展」
国立西洋美術館
2007年10月6日(土)~2008年1月6日(日)

ムンクといえば、私が知っていたのは、あの「叫び」に代表されるような絶望感が強く感じられるような絵画作品だけでしたが、今回の展覧会を鑑賞して、ムンクの新たな面を知ることができ、大きな収穫があったと思います。

今回の展覧会で特に大きなテーマとなっていたのはムンクの作品における「装飾性」です。
つまり、個々の作品を独立して見るのではなく、あるテーマに沿った一連の作品をムンクが制作し、全体としてひとつの大きな作品という位置づけをして、実際にさまざまな場所に展示されていた様子を再現して、その「装飾性」に光をあてようという試みです。

ムンクの一連の絵が飾られていた、また、今でも飾られている場所というのは、個人の邸宅であったり、工場の食堂であったり、大学構内であったりといろいろですが、どこも美術館のような非日常の空間ではなく、実際に人々が生活する場所ばかりです。
「ムンクの絵に囲まれて生活するなんて・・・・落ち込みそう・・・」というのが、「叫び」しか知らない私の最初に感じたことでしたが、今回の様々な展示を観て、それが誤解であったことがよく分かりました。

ムンクの絵は確かに、「死」とか「不安」といったものを表現している作品が非常に多いです。
戦争続きの時代が強く影響していることもあるでしょうし、ノルウェーという地理的要因もムンクの精神世界になにかしらの影響があったとも考えられますし、幼い頃に近しい家族を立て続けに失ったということも彼に「死」の観念を強く印象づけたのでしょう。

そしてムンクの装飾性を持った絵画群の話に戻ります。
その変遷をみてみると、ムンクという人物の心の移り変わりが見てとれるようでいて、とても興味深かったです。
初期の頃には、「叫び」のような不安要素が連想される作品を依頼し、自宅の壁に飾った人もいたようです。
私はそのような絵に囲まれて暮らすのはちょっと心穏やかではなくなりそう、とは思いますが、ムンクの大ファン、コレクターであればそれも喜びかもしれません。ムンクといえば、ノルウェーが誇る画家であったはずですから、光栄なことでもあったでしょう。

そしてノルウェー国内での地位を確固たるものにしたムンクに、様々な人からの創作の依頼が入ります。
彼に子ども部屋の壁を装飾するよう依頼した人もいました。その時の条件として、「幼い子どもに悪影響を与えるような、性的な絵は描かないで欲しい」というものがあったそうです。
しかし、ムンクは明るい昼間の公園で接吻をする何組もの男女の姿を描いてしまいます。
結果、子ども部屋には不適当、ということで、何枚もの素晴らしい絵は依頼主からつき返されてしまったそうです。
なんだかムンクの頑固な性格、自分に対する自信満々さが想像できるようなエピソードで思わず笑ってしまいました。
それに、子どもには不適当、とされた絵は確かにキスをしている何組もの男女が描かれていますが、夜の公園ではないので淫靡な雰囲気は全くなく、とても明るくてよい画なのです。その他の作品も、子ども部屋、という依頼にきちんと応えている、明るいトーンの綺麗な絵ばかりでした。このような作品もムンクは描いていたのか、と新しい発見でした。

また、チョコレート工場の食堂の壁を装飾する絵画群、オスロ大学の講堂を飾る絵画群などは、とてもアカデミックな雰囲気で、その場所その場所にとてもふさわしいテーマ、色調、雰囲気の絵です。
自分の本能のままに描いていたわけではなく、依頼に応えた作品をきちんと描けるという職人的な一面もムンクにはあったのですね。

そして、今回の展覧会の最後のお部屋はオスロ市庁舎の壁画の展示でした。
それらの画はおよそ私が知っていたムンクの画やイメージとはまるでかけ離れたものばかりでした。
労働者を描いた画なのですが、とても力強く、働く人たちを誇る気持ち、労働の気だかさなどが感じられる、非常にダイナミックな作品でした。
ムンクの展覧会ということで、負のエネルギーにあふれているだろうなぁ、という誤解をもって向かった私でしたが、最後にこのお部屋の画を見て、逆にとても前向きな気持ちで展覧会を後にしました。

帰宅してからムンクに関する文献なども読んでみましたが、アルコール中毒の治療を受けた後あたりから彼の画風はがらっと変わってきたようです。
暗いばかりではない、一人よがりなだけの画家ではない、ムンクの新しい一面を知ることができた展覧会でした。


『ホームレス中学生』 田村裕

2007-11-29 | 読書
案外よい本でした。期待しないで読んでました。すみません。

話題になっているような、ホームレス生活のシーンはさすがにほんの一部分だったけれど、
それでもかなり「生きて行く」ことに苦労している様子が延々とつづられていて、
これがまったく全て事実なのかな?と思うところもあるけれど、
読みながら、今の自分の生活がいかに恵まれているのか改めて思ったりする。

こういう極限の生活はやらないで済めばそれに越したことはないけれど、
いざ、そうなったときに、なにがなんでも生きてゆく根性みたいなものは人間なら持っていないといけないな、と強く思う。
なりふりかまわずとにかく死なないで生きてゆく、っていう話が基本的に好きなのだ。
(桐野夏生さんの作品に通じるところがあるかも)

この本は、その他に、幼いときに亡くなってしまったお母さんに対する強い気持ちが綴られていて、本人も書いているがちょっとマザコン的ではあるかもしれないが、
やはり自分も母親のはしくれをやっているのでグッときてしまった。
お母さんの存在って、もう理屈抜きに、子どもにとっては大きなものなんだな・・・。

大人も子どもも、あまり人の好意に甘えすぎると、やってもらって当たり前、みたいに傲慢になってしまうけど、
これを読んで少しは反省しないとね。

「茜色の約束」 いきものがかり

2007-11-27 | ピアノ・音楽
これ聞いて最初思ったのは「こんな風に歌いたい!」ということ。
すごく素直でまっすぐな歌声はきっとこの女の子の性格もまっすぐなんじゃないか、と思ってしまう。

で、何度も聞いていると「若いっていいなぁ~!あのキラキラした感じ!」って思えてくる。
今、もう若くないから戻れない若さを思って悲しくなる、というのとは違って、
どちらかというと正反対。
こんな歌を聴いているだけで、また若いときの気持ちとかあの時見ていた風景とか、そんないろんなものをいつまでたっても追体験できるんだなぁ~、という気持ち。

自分の子どもにもこんな素敵なときをかけがえのない若さっていう時に体験して大人になってほしいなぁ~、とか思う。

『夢を与える』 綿矢りさ

2007-11-26 | 読書
なんとも微妙な読後感だったので、感想が書きづらいというのが本音です。

綿矢りさの名前は知っていました。
でも、『インストール』も『蹴りたい背中』も未読。
その経歴からして、さぞかし面白いものを書く人なのだろう、
と期待してこの『夢を与える』を読んだわけです。

あらすじは既にいろいろな書評にも書かれていたので、
読み始め、少女の話ではなく、その両親の話から始まったときは、
「ん?意外なストーリーの作り方・・・。想像していた話とは違うかも」と、
かなり興味を持ちました。

しかし、読み進むにつれ、なんとも言えない違和感を感じてしまいました。
読みにくいのです。
どうしてだろう・・・と考えたところ、どうもこの話は人称が安定していないようなのです。
母親の人称だけでも、「幹子」「母親」「母」と最低3回も変わります。
話の視点が変化したから、とも考えられますが、それにしても読みにくさはぬぐえません。

それに個人的に気になったのは、ヒロインのアイドルの呼び名が「ゆーちゃん」であること。
なんだかすごく幼稚な印象を持ってしまいました。
ヒロインが、ではなくて、書き手が、です。
しかも呼びかけのときにこの愛称を使うのはいいのですが、本人がいないところで大人同士が話すとき、この呼び方で第三者のことを話題にするかなぁ・・・なんて。

ひとつ気になりだすと、もう粗探しのようで申し訳ないのですが、どうしてもいろいろ気になってしまいます。
なんとか最後まで読みきりましたが、読めば読むほど、ヒロインのキャラクターがよく分からない、中身のないお人形さんのようにしか感じられなくなってきてしまいました。
「夢を与える」という言葉に疑問を持つほどの感受性が強くて思慮深い少女が、後半あれほど軽率になるものでしょうか?
壊れて行くさまを描いていると考えても、その壊れ方がさり気なさすぎて、どうもピンとこないのです。

と、いう訳で、私的にはいまいちでした。
でも、他の2冊は読んでみておこうと思います。
いずれにせよ、若くしてここまで注目される作家さんなので、
なにかしら素晴らしいものがあるに違いないと思いたいです。

安藤広重

2007-11-23 | アート
実家は宝の山です
たまに帰ってあちこちひっくり返すといろんなものが出てきます。

今回はこれ!
小学生のころ、永谷園のお茶漬けの素でもらった、
安藤広重の東海道五十三次のカード!

五十三次なんだけど、55枚あります。
懐かしい~~~

レッスン記録(11/17の分)

2007-11-21 | ピアノ・音楽
寒い寒い・・・。
先生のお宅まで車を運転して行っているのだが、その間に手がかじかみそうになってしまって大変。

『テクニック』
シンコペーションのリズム、楽譜を読み違えて16分音符なのに8分音符の長さで弾いていた。その場で弾きなおしたけど、なんとか○。

『30番練習曲 18番』 ツェルニー
♭3つということは変ホ長調??黒鍵が多い曲はキライではない。
右手3の指(中指)を弾いたまま、4,5の指を弾くところが、指がつるかと思うくらいキツイ。

『子犬のワルツ』 ショパン
左手は軽く。
右手は円を描くように・・・。子犬が自分のしっぽを追いかけてくるくる回るように。
高音になるところは子犬が水溜りをポ~~ンと飛び越えるように・・・!
イメージを頭の中で描きながら弾くのが大事!

『新釈 走れメロス 他四篇』 森見登美彦

2007-11-20 | 読書
「新釈」なのであるから、オリジナルがあるのです。

でも、読む前に愕然としてしまいました。
全五作中、オリジナルをきちんと読んだ記憶があるのはたったの1作・・・。

『山月記』 中島敦
『藪の中』 芥川龍之介
『走れメロス』 太宰治
『桜の森の満開の下』 坂口安吾
『百物語』 森鴎外

記憶がある1冊とはもちろん『走れメロス』。それ以外は読んだような気もするものでも、どのような話だったかさっぱり覚えていないのです。

でも、「新釈」とあるように、たぶん、オリジナルを踏まえて、
そのエッセンスだけを残した、まったく新しい物語になっていることは伺い知るところでしょう。
だって、あの走れメロスがまったくおかしなパロディ調になっているのですから。

あとがきで森見さん自ら書いているように、ここに集められた作品はそれぞれの作家のベストの1作とは限らないようです。
でも、何か心に留まるものがあった作品、とのこと。

オリジナルを読みつつ、こちらの森見版を読むともっと面白いかも。
恐らく『山月記』の物悲しさ、悲哀、そんなものはオリジナルに近いものなのでしょう。
でも、がらりと変わってしまったメロスなどは、
森見氏が太宰を嘲笑しているのか、それとも、メロスという清廉潔白な教科書作品を書きながら、反面自堕落で不安定なところもあった太宰に共感を覚えてこのようにしたのか。
邪推しながら読むのも楽しいかもしれません。

『メタボラ』 桐野夏生

2007-11-17 | 読書
読みながら、ブログの感想にあれを書こう、これを書こう、と考えていたものが一気に全部一瞬吹っ飛んでしまうようなラストだった。
このラストはまるで・・・映画「真夜中のカウボーイ」を髣髴とさせる・・・・。

(ネタバレ)
「真夜中のカウボーイ」、大好きな映画だ。
アメリカの田舎から都会に出てきたジョン・ボイドがホームレスのダスティン・ホフマンと出会う。
田舎者で世間知らずのジョン・ボイド、ルンペンでありながら、姑息に世間を渡り歩いているダスティン・ホフマン。
奇妙な友情関係ができあがる。
大志を抱いて都会に出てきたのにことごとく夢を打ち砕かれるジョン・ボイド。
インチキ、いかさま、そんな言葉でできあがっているようなダスティン・ホフマンはしかし、彼のよき相棒になり、心の支えともなってゆく。
そんなダスティン・ホフマンの夢は、寒い都会から抜け出し、あたたかいフロリダの土地で暮らすことだ。
でも、それは夢のまた夢。そんなお金もないし、フロリダに行ってもルンペン暮らしは目に見えている。
そして、過酷な生活のつけが回って、ダスティン・ホフマンはいつしか病に体を蝕まれて行く。もう、長くない。
彼にフロリダの美しい海を見せてあげようと、すべてを投げ出して一緒にフロリダ行きのバスに乗るジョン・ボイド。
バスの最後部座席で小さい体をもっともっと小さくして、大きなジョン・ボイドの肩に体を預けるダスティン・ホフマンの姿。これがラスト・シーンだ。

なんだかものすごく泣けるのだ。「あ~、ダスティン・ホフマンはフロリダを見る前に死ぬんだろうなぁ」と思いながら泣けてくる。

「メタボラ」のラストはそれに通じるようなラストシーンだった。
ラストだけでない、よく考えたら、この話自体がこの映画に相通じるものが全編に流れている。
桐野さんがこの映画を知っていたのか、知らなかったのか、好きだったのか、好きでもなかったのか、それは分からないけれど・・・。

「メタボラ」の主人公、ギンちゃんとアキンツは対照的だ。そんな対照的な二人が出会うのは、鬱蒼とした沖縄やんばるの原生林の中だ。
それぞれあるところから逃げてきた二人はさらに逃げおおせるために、行動を共にする。そしてやがて二人の間に絆が生まれる。

二人の語り口が交互に現れるストーリーも対照的だ。
アキンツを明とするとギンちゃんは暗というところか。
アキンツはどうやら島のおぼっちゃまらしい。でも、家を出て(出されて)帰るところがなく、なんとかして生きていかなければならない。
それでもアキンツの話はシビアであってもどこか滑稽なのだ。
キツイ沖縄の言葉、明日の生きる糧もないのになにかしら寄生して生きてゆく要領のよさ、リンチに合って海に逃げ出さざるをえなくなっても、恋に狂って腑抜けのようになってもどこか笑ってしまう可笑しさが漂っている。

アキンツの話が未来に向かっているからかもしれない。

それに対して、ギンちゃんの話は壮絶で辛い。
アキンツに出会ったとき、ギンちゃんは記憶喪失だった。過去の記憶を失わせるほどの痛手が何だったのか。ギンちゃんとはアキンツが付けてやった名前であり、過去にギンちゃんは本当は誰だったのか。
アキンツと未来に向かって生きて行きながら、ギンちゃんの心は過去に向かってゆく。
そして記憶が徐々によみがえってくるにしたがって、悲惨なそれまでの人生の記憶もよみがえってくる。

このまるで正反対なストーリーにぐいぐいと引き込まれ、一気に読みきってしまった。
そして、ラストに近づくにつれて、アキンツ=明、ギンちゃん=暗という構図が大逆転する。

沖縄と言う、日本国内にありながらどこか異国のようなエキセントリックな雰囲気、そして島でありながら大陸の奥地のように、一度迷い込んだら二度と抜け出せないような恐ろしさを隠し持った沖縄の地の混沌。
この小説の舞台を沖縄にした桐野さんの感覚もするどい。
名前も過去もすべて失っても生きぬいてゆく、という桐野作品に共通するようなしたたかさや生命力をも感じされるような作品だった。

「世界を魅了したティファニー 1837-2007」

2007-11-12 | アート
すごいの!!ティファニーのジュエリー
目がハートになるような展覧会に行って参りました。

「世界を魅了したティファニー 1837-2007」
2007年10月6日~12月16日(日)
東京都庭園美術館

NYのジュエラー、ティファニーの創立から現在に至るまでの数々の素晴らしい作品がたくさん揃った、一度に鑑賞できる展覧会です。

創設当初の限られた人たちだけのための豪華なジュエリー、
大きな戦争をはさんで、アール・ヌーボー、アール・デコ様式の影響が大きいデザイン、
そして現在のパロマ・ピカソ、フランク・ゲーリーらのモチーフ。

時代を追ってみることができるので楽しいです。

展覧会というよりは、ジュエリー・ショップでウィンドウ・ショッピングという気持ちで拝見してきました。
だって、やっぱり純粋に好きですもの!ジュエリーが!

個人的に好きだったのは、アール・デコのデザインを取り入れた、NYの摩天楼をイメージして作ったというネックレス。
さまざまなカットのダイヤモンドが数え切れないほどセットされたネックレスです。本当に綺麗なの・・・。
直線的なデザインがシンプルで、モダンな印象です。

チラシ、イメージにも使用されている写真のイエロー・ダイヤモンドはなんと300カラット!(だったと思う・・・)
でも、威圧的な警備員さんの姿も見えず、ウィンドウにぎりぎりまで近づいてみることができます!
見学する人のお行儀が信用されているのでしょうね。感じいいです。

ところで、ティファニーも素敵だったのですが、
庭園美術館といえば、その建築自体が美術品と言ってよいくらいの素晴らしい建物。
かつての皇族、朝香宮邸を美術館として使用しているそうです。
ラリックの照明があちこちに!どれもホントに素晴らしい!
館内はでも、撮影禁止・・・。ざ~~んねん、と思ったら、美術館のフリーペーパーに嬉しいお知らせが!

「じっくり見よう!アール・デコ-家族でパチリ!写メもOK!」
2008年1月12日(土)、13日(日)、14日(月・祝)
建物鑑賞と写真撮影をおたのしみください。

この日は館内の撮影が許可されるそうです。
(ただし、ストロボ・フラッシュ・三脚等の使用不可など、制限あり。詳しくは確認してください)
絶対行かなきゃ!


『八日目の蝉』 角田光代

2007-11-08 | 読書
かなりすごみの効いた話だった。
ショッキングな内容でもある。

前半は、不倫相手の子ども(赤ん坊)をさらった女がその子どもの親のフリをして何年間か暮らし、やがて逮捕されて子どもと引き離されるまでが描かれる。
後半は、その子どもがその後実の両親のもとで成長しつつ、自分が巻き込まれていた事件に未だに強い思いを残している、彼女の内面が描かれる。

ラストがなんとなく明るい前向きな雰囲気で終わっているので、
いろいろあったけれども結局はいい話、という印象もあるが、
個人的に私が思ったのは「妊娠って怖い」ということだ。

他の作家の話になってしまうが、
以前読んだ伊坂幸太郎の小説で、非常に綺麗、という設定の女性が、
あなたなら男なんてよりどりみどりでいっぱい遊べそうなのにどうしてそうしないの?と聞かれ、
「私は女だからそんなことをしたら妊娠が怖い」と答えるシーンがあり、
私はそのセリフにものすごく共感を覚えたのだ。
この『八日目の蝉』を読んで、その時の気持ちがとても強くよみがえってきた。

今、「できちゃった婚」とか言って、期せずして妊娠したけど、これがきっかけで結婚に踏ん切りがついた、みたいな話が少なくとも芸能界ではしょっちゅうあるが、
芸能界であれだけ頻繁に起きている事象ならば、一般人の間では数え切れないほどの「できちゃった」という事実が生まれているのだろう。

予定外の妊娠、それによって女性は人生が全く変わってしまうことだってありうるし、それをきっかけに人間関係に破綻をきたしたり、親子の縁が切れたり、この話の主人公のように犯罪者になってしまうことだってある。

マイナスのことばかり書いてしまったが、新しい命を授かることはもちろん嬉しいことでもあるだろう。
妊娠することによって人生が好転する女性だって数え切れないほどいる。

でも、この話を読んだ私個人の印象は、人間ひとりの命を急に背負わなくてはいけなくなった女性が感じるとてつもない重み、血の気がひくような恐怖、という感覚だった。
しかも妊娠という現象はそれだけで終わるものではなくて、その後も延々続いてゆくのだ。
堕胎するにしても、出産して子どもを育てるにしても・・・。

そんな気の遠くなるような重大な事態を一人で(配偶者がいたとしても)背負わなくてはいけない、女性というジェンダーの理不尽さを強く感じさせられるような話だった。