神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

公園で会う人々

2012年06月05日 07時04分17秒 | 私の意見
今日は、Kさんのブログに書かれた「公園で会う人々」について書いてみたいと思う。

その人達の大半は、たぶん心を病んでいる人達であろう。

何らかの理由で社会から疎外され、それが原因で心を病んだ人達かもしれない。

その人達を避けるのは、いわゆる常識的な人達、自分は正常と思っている人たちだと思う。

しかし、常識的とは何だろう?

私は思う。それは、たまたま運よく、社会のベルトコンベアーに乗れているだけのことではないかと。

人を差別することはたやすい。しかし、人間は弱い存在だ。いつ如何なるときに、自分が、その弱者の側に回るかもしれない。

話は変わるが、昨日、菊地直子逮捕のニュースが日本を駆け巡った。

彼女は、大阪の大阪教育大附属中、高校を卒業している。大阪では、トップ進学校だ。順調に生きていれば、エリートとして、世間から羨望される人生が待っていただろう。しかし、何の因果か、オウムに入って、サリン作りという犯罪に手を染めさせられてしまった。

彼女の場合は、運命の成り行きから、人から後ろ指をさされる人生を送らざるを得なくなったのである。

公園で寝泊りしているような人達の中には、あるいは、そういう事情を抱えている人たちもいるかもしれない。それは犯人なのだから、見つけ次第、警察に連絡して、裁きを受けさせるべきというのが常識的な考え方であり、正しい行動であろう。しかし、その際も、私は、多少の心の痛みは持ちたいと思う。聖書の、姦淫をした女に石つぶてを投げる資格のある者は実はいなかったという寓話からも、己を省みたいと思うのである。

私は、現在運よく普通の人生を送れている人たちこそ、そういう、何らかの事情で常識的なコースを外れてしまった人たちに心を寄せる義務があると思う。浄土真宗のいうところの「悪人なほ往生す、いはんや善人をや」の言葉を常に胸に刻んでおきたいと思うのである。