のっけから物騒なタイトルで申し訳ないのだが、そういう題名の本を図書館から借りてきた。
最初は、インターネット歌会のメンバーから『死の棘日記』という本を紹介され、その本を借りてきて読み始めたのだが、こちらは島尾敏雄という作家の生の日記なので、いきなり読んでも理解しにくいところがある。そこで、昨日は、その日記の内容を小説にしたものを改めて借りてきて読み始めたというわけだ。
そもそもの発端は、一昨年亡くなった歌人、河野裕子さんのことを同じく歌人の夫、永田和宏氏が書いた『歌に私は泣くだらう』からだ。
永田和宏氏は私の所属する短歌結社の主宰者、いうなれば大先生である。しかし、われわれの結社は、先生のことも、「さん」付けで呼ぶ慣わしがあるので、そう呼ばせてもらっている。だからといって、「さん」付けや「氏」付けであるから、尊敬の念が薄れるということはないのであるが、しかし、「先生」と呼ばせていただくより、垣根が低くなるということは事実だ。
閑話休題
で、タイトルにした本を読もうとする動機になったのは、現代の与謝野晶子とも言われていた故河野裕子さんが、夫、永田和宏氏に対して、ある種の狂気でもって対峙していたことを永田和宏氏が、その著書で述懐していたことからである。
人の極端な純粋さ、純粋すぎる愛情は、あるとき狂気に変貌することもある。
その『死の棘』も、まさにそういう内容の小説なのである。
まだ読み始めたところだが、この歳になっても、男女間、なかんずく夫婦間の愛憎の複雑さには、まだまだ私の未知な部分があると思い知らされる。
愛情が深いからこそ、相手を深く愛しているからこそ、お互いに深く傷つけあってしまう人間の業火のようなものを、改めて思い知らされる。
その苦しみを味わうことは地獄のようでありながら、しかし、実は、人生をより深く生きるということに繋がるのかもしれないなどとも思いながら、読んでいる。
最初は、インターネット歌会のメンバーから『死の棘日記』という本を紹介され、その本を借りてきて読み始めたのだが、こちらは島尾敏雄という作家の生の日記なので、いきなり読んでも理解しにくいところがある。そこで、昨日は、その日記の内容を小説にしたものを改めて借りてきて読み始めたというわけだ。
そもそもの発端は、一昨年亡くなった歌人、河野裕子さんのことを同じく歌人の夫、永田和宏氏が書いた『歌に私は泣くだらう』からだ。
永田和宏氏は私の所属する短歌結社の主宰者、いうなれば大先生である。しかし、われわれの結社は、先生のことも、「さん」付けで呼ぶ慣わしがあるので、そう呼ばせてもらっている。だからといって、「さん」付けや「氏」付けであるから、尊敬の念が薄れるということはないのであるが、しかし、「先生」と呼ばせていただくより、垣根が低くなるということは事実だ。
閑話休題
で、タイトルにした本を読もうとする動機になったのは、現代の与謝野晶子とも言われていた故河野裕子さんが、夫、永田和宏氏に対して、ある種の狂気でもって対峙していたことを永田和宏氏が、その著書で述懐していたことからである。
人の極端な純粋さ、純粋すぎる愛情は、あるとき狂気に変貌することもある。
その『死の棘』も、まさにそういう内容の小説なのである。
まだ読み始めたところだが、この歳になっても、男女間、なかんずく夫婦間の愛憎の複雑さには、まだまだ私の未知な部分があると思い知らされる。
愛情が深いからこそ、相手を深く愛しているからこそ、お互いに深く傷つけあってしまう人間の業火のようなものを、改めて思い知らされる。
その苦しみを味わうことは地獄のようでありながら、しかし、実は、人生をより深く生きるということに繋がるのかもしれないなどとも思いながら、読んでいる。