goo blog サービス終了のお知らせ 

神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

苦手な人との付き合い方

2013年06月08日 08時41分32秒 | 気づき
yumeさんのブログで「苦手な人との付き合い方」という示唆に富んだ文章を見つけたので、自分の備忘録として、許可を得て転載させてもらうことにしました。

以下はライフハッカーの苦手な人との付き合い方から

そもそもなぜ気まずくなるかというと、あなたが気まずいと思ってしまうからです。

ピンときませんか? あなたは「このよくわからない状況は気まずいんだ」と決めつけてしまっているのです。

よくわからない、はっきりしない状況にいる自分をおかしく思ったり、笑ったり、楽しんだりして、先へ進めばいいのです。

周りの人が言ったりしたりすることに、あなたが影響される必要はありません。気まずさはその場に対する恐怖感からきているのですが、たいていの場合、感じる必要のないものです。

大切なのは、健全なレベルの自信を持ち続けていれば、慣れない環境に置かれたとしても、そこから抜け出そうとする勇気を持てるということです


この文章をもっと早く読ませてもらっていたら、私のここ数年の苦しみが軽減されたのにと思いました。

鳥海山の残雪

2013年05月10日 17時07分04秒 | 気づき
写真は、今日、山形県在住の歌友が送ってきてくれた鳥海山の残雪風景です。

昨日はyumeさんのブログで弘前城の桜を見せてもらいましたが、北国は春が遅いだけあって、待ち遠しいし、花もより美しく感じられるのではないかと思います。

そんなことから大切なことは簡単に手に入らないほうがいいかもと思ったりしました。

それは私

2013年02月25日 22時41分19秒 | 気づき
今日のPONSUNさんのブログのタイトルをそのまま拝借して書く。

読ませてもらって、ここ数年苦しんでいたことの答を呈示されたような気がした。

ここ数年、私が苦しんでいたのと同様に、私を苦しめていた人も、ここ数年、苦しんでいたかもしれないということに気付かせてもらった。いや、ひょっとすると、その人は、私以上に苦しんでいたかもしれない。

あるいは、元々苦しんでいたから、私を苦しめるような言動をとってしまったのかもしれない。

ある人を受け入れがたいと思ったとき、相手も、たいがい同じ思いを抱いているのものだ。

先日、自分の先祖のことを書いたが、父方、母方の祖父母だけでも4人、さらに一代上れば8人の先祖がいる。つまり、たった三代遡るだけで、私は、父母も含めて14人もの先祖の遺伝子を受け継いでいることになる。

十代ほど遡れば、先祖は、いったい何人になるだろう。計算するのが面倒なので、大勢ということにしておく。^^

つまり、私は、大勢の人の合わさった存在なのである。

それを思うと、自分という人間は自分ひとりで成り立っているわけではないことを強く自覚する。

だけでなく、この世に生れて命のある者同士、皆、大なり小なり繋がりあっているのだ。

それを考えると、人と諍うことや人を憎むことは何と愚かなことだろう。

「それは私」なのだから、どんな人も許すことが、結局は、自分自身をも許すことになるのだ。

と、自分に納得させるために、あえて今夜は書いてみた。

歩くこと

2013年01月30日 09時19分04秒 | 気づき
歩くこと、これは考え事をするのに一番適した行為だと思う。

ただ座って考え事をしていると、凝り固まってしまいがちだが、歩きながら考えると、適度な流れが生れて健全な考え方ができるように思う。

私も最近は、なるべく歩くことを心がけている。

歩いていると、自転車で走っていたときには見えなかった物事がよく見える。景色は勿論だが、思考している物事にも及ぶ。

そんなこんなで、歩いていると、ほんの少しだけ賢くなれるような気もする。(元々が賢さから程遠い人間なので、たかが知れているが・・・)

昔の人は歩くのが当たり前であった。

比較的近世の坂本龍馬の時代でも人は歩いていた。竜馬も、脱藩で山越えをするときなど、己の考えを纏めながら歩いていたのではないかと思う。

世の中が便利になるにつれて、脚力はいうに及ばず、人の思考も退化していっているように思う。

語弊を恐れずにいえば、総じて昔の人のほうが賢かった。現在生きている人の中では、総じて年取っている人ほど賢い。なぜなら、最近の人達より多く歩いているから。

kiwattiさんのブログの冒頭を見て、思い浮かんだことを書いてみた。

今日は、早朝から、家事の合間に、自身のブログにではあるが、三連荘!で書いてしまった。(^^;

人に注意をするということ

2013年01月30日 08時49分03秒 | 気づき
これは自戒をこめて書くのだが、人に注意をするときには自分の正当は述べ立てないほうがいいと思う。

たとえ正しいことを言っていても、言われた相手は傷つく。

おとなしい人は傷ついたまま黙っているかもしれないが、人の感情は消えるということはないから、負の感情は残る。

そもそも人に注意をするという行為そのものが、ある意味、驕りであるかもしれないと思ったりもする。

しかし私などは人間ができていないので、つい自分のことは棚に上げて人の至らないところを注意したりしがちだ。

人格者というのは、注意という上からの目線を用いずに、さりげなく人に間違いを気付かせてしまう力をもった人ではないかと思う。

様々な人のブログを読ませてもらっていると、お手本にさせていただける生き方に出会う場合もあるし、逆に、それを鏡にして自己反省ができる場合もある。

住む人の変わる部屋

2013年01月30日 04時16分53秒 | 気づき
カモミールさんが「不思議な家」というタイトルで書かれていたのですが、私も思い当たることがあるので書いてみます。

現在の家に引越してくる前に住んでいた大阪のマンションは、管理組合がしっかりしていて管理がいいということで、築35年を過ぎているのに、買ったときと比べて、それほど売値が下がっていません。今でも、このマンションを指名して購入される方もいるくらいです。だから、ずっと住み続けている人が多いです。

しかしそれでも最初からず~と住んでいる人がいる反面、2,3年ごとに持ち主の変わる部屋もあります。マンションで、大体同じ間取りで、条件も同じだと思うのに、どうしてだろうとずっと思っていました。

そういう部屋は最初に入居した人の何かが染み付いてしまうのかもと思ったりもします。

気のせいか、転居していくときに、よりよいところに移った人の部屋は運気がいいが、落ちぶれて残念な気持ちを残して出ていった人の部屋は運気が下がるようにも思います。

一戸建ての家については、昔から新築すると人が一人亡くなるという俗信がありますね。

私の現在の家は、阪神大震災で半壊になって建てなおしたのですが、建て直してまもなく、義母が交通事故に遭いました。単車に跳ね飛ばされたのですが、高齢であったにも関わらず奇跡的に助かりました。助かりはしたけれど、これは家を新築したときの謂われの通りになったのかもと当時は思いました。

それでも、義母は、その後、特に後遺症もなく、10年以上生存しましたから、義母の運勢は強かったのだと思います。

因果応報

2013年01月22日 03時59分56秒 | 気づき
仏教に因果応報という考え方がある。

よく訪問させていただくyumeさんのブログを拝見していると、この因果応報のよいパターンを見せていただけるように思う。すなわち善因善果だ。

yumeさんは思いも行いも優れているから、この人生の刈り取り期に充実した結果を見せていただけるのだろう。ご主人の叙勲も、その結果の表れの一つなのだろうと思う。

と同時に、そこまでに至った、ご両親様、ご先祖様の功徳もあったろうと思う。

何はともあれ、このたびのご主人様の叙勲、ならびにその祝賀会のご成功、陰ながら、心よりお祝い申し上げます。

泣くことと怒ること

2012年11月07日 03時09分46秒 | 気づき
いつも読ませてもらっているponsunさんのブログで、「涙の洗浄」と題して、涙を流すと心が清められるというようなことが書かれていた。

そうだと思う。

そして、その涙は、自分のためでなく、人のために流すとき、より気高くなると思う。

一方、怒るという行為はどうだろう。

こちらも、自分のためでなく、寺社の阿吽像のように、仏法を守るためというような大義名分のため怒るということなら、あるいは、気高い行為になるのかもしれない。

しかし、そもそも怒るという行為自体は、どうだろう。

実は、私がこのブログを始めたきっかけは、「神鳴り」というブログ名を付けた通り、さる怒りからである。

今は私自身こころの整理のつかないところもあるので書かないが、いつかゆっくり書いてみたいと思っている。

夏はつとめて

2012年07月21日 21時04分07秒 | 気づき
yumeさんの日記に触発されて、ひさしぶりに日記を書くことにする。

yumeさんが書かれているように、清少納言は『枕草子』で「夏は夜」と言ったが、私は、夏はつとめて、すなわち朝だと思う。

私は、毎朝、だいたい4時ごろ目覚めるので、5時ごろから近くの河川敷に散歩に出かける。本当は、もっと早く出かけたいのだが、明るくなり始めるのが、5時ごろからなので。

5時ごろの空気の涼しさはひとしおだ。早朝にも関わらず、岸辺をランニングしている人、犬の散歩をしている人を散見する。

5時半ごろになると、陽が上り始めるので、急に暑くなる。そうすると、私の散歩は、もう終わりである。もう少し歩きたいと思うが、暑さには弱いので仕方ない。

清少納言の『枕草子』に戻る。

彼女は、「春はあけぼの」と言っているが、私は、春は夕暮れと思う。日が長くなってきた春の夕暮れの「暮れなずむ」という感じが好きだ。

「秋は夕暮」と言っているが、私は、秋は昼間がいいと思う。白秋という言葉もあるとおり、秋は日差しが弱まって、景色が白っぽく感じられる。その中で、木々が紅葉、黄葉する様は、ひときわ鮮やかに見える。

「冬はつとめて」と言っているが、私は、冬は夜がいいと思う。空気の冷たさで、夜空が澄んで星が美しい。その星をかたどったイルミネーションが美しいのも、冬である。冬の夜の長さが、人間に、イルミネーションという芸術を作らせたのである。クリスマスツリーも、その範疇に入ると思う。