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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅨ

2013年08月31日 | 歴史
 歴史観において、今の日本では高校の歴史教育で世界史が必須となっています。おそらくこんな馬鹿なことをやっている国は日本だけでしょう。
いかに世界史が分かってないかということです。世界史という観念はキリスト教文明にしかありません。世界史なんて言う物は本来存在しないのです。
どの国の歴史だってその国の民族の歴史です。世界史という観念を持ったのはキリスト教のみです。それはキリスト教には発端があって終末があるからです。
 「歴史に開闢があって目的がある。人間は未来を目指して生きる。人間の生き方は一回性、一回的な物である。
  それ故記録に値し、それ故に構造化された歴史が描かれる」
しかし、古代ギリシャ人も現代アジア人もそんなことを意識したことはありませんでした。例えば”皇国史観”、これは大変近代的な歴史観です。
これはキリスト教的近代ヨーロッパの圧力がなかったら出てこなかったでしょう。ある特定な考え目的を持って作られた物なのです。
皇国史観とはマルクス主義と同じ事なのです。何かの目的を持って展開する目的論的歴史観はアジアにはありませんでした。
逆にキリスト教徒はニーチェが揶揄したユダヤ主義からコスモポリタンになったのです。キリスト教が生まれて民主主義的になっていきました。
それは悪しき動機からルサンチマンという人間の暗黒の部分を逆転させてこの壮大なドラマが作られました。
しかし「キリスト教徒が一人一人神の前に立って自由の観念を身に帯びて決断する」ことによって逆に世界の宗教になって行きます。
そう考えると、今世界で起こっている出来事は依然としてその流れの中にあるのです。いかにニーチェが「ノー」と言ってもです。
キリスト教徒に言わせれば数百年か数千年の内に人間は全てキリスト教徒になるだろうと思っています。そして着々と実行に移しています。
ありとあらゆる人間は皆天地創造からイエスの復活まで最後の審判まで一直線の時間の中に置かれていて世界史の中に組み込まれています。つまりグローバリズムです。
「終わりの日には人間は一人残らず裁かれる」勝手にそう思い込まれている世界史が世界を覆っているのです。

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営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
8月の予定:
9月の予定:祭日連休が多いのでご迷惑おかけしますが、ご注意下さい。
16日(月)敬老の日23日(月)秋分の日、祝日のためお休みです
27日(金)~28日(土)学会出席のため獣医師不在です。業務内容は電話でお尋ね下さい。

秋の健康診断を実施します。
対象:全ての健康な猫ちゃんワンちゃん。
期間:9月4日(水)~19日(木)の二週間、日曜と16日(月)敬老の日はお休みです。
費用:1回5000円
内容:検便、検尿(容器を差し上げます)、レントゲン二枚(胸または腹)、エコー(胸及び腹)
ご注意:前日までに要予約。予約当日午前中に、食事を6時間以上抜いた状態でお連れください。
夕方4時以降にお返しします。
後日郵送で報告いたします。






ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅧ

2013年08月30日 | 歴史
 拙著「ヨーロッパとの対決」において、これはヨーロッパ留学時代に激しくヨーロッパ人と論争したものを集めた論文集です。
80年代、貿易摩擦の頃、ヨーロッパの閉鎖性をとても激しく感じていたのですが、アメリカも同様にヨーロッパの閉鎖性はキリスト教の閉鎖性とぴったり一致するのです。
しかし、同時に全く逆のことも言えるのです。「我々はいかにヨーロッパキリスト教文明圏に包み込まれているか」と言うことです。端的にいえば科学のことです。
自然科学はアジアにはなかったのです。中国にもアラビアにもインドにもそれはありましたが、それは地球を覆うことはありませんでした。
今のコンピューターにまでは行かなかったのです。コンピューターまで作り出したのはキリスト教文明圏です。
自然科学はヨーロッパの精神史の問題で、キリスト教と切り離すことができません。数学的幾何学的観念、そしてキリスト教の天地創造とどこかに関連があるのです。
自然科学の勃興はキリスト教の歴史と切り離して考えることはできません。それはデカルト、ガリレオの問題であります。
デカルトは世界を数学の方程式に還元して形と位置とその変化という、「幾何学と運動学で全て世界は言い尽くせる」という思想を展開します。
主観と客観と言うことをはっきり言って、「主観が全てである」としています。
物質にはいろいろな性質があるけれどそれは「主観に投影した影に過ぎない」としています。
物質それ自体に宿っている物ではなく、「色、音、匂い、味などの感覚的性質は人間の精神の中だけにあるのであって物固有の性質だとはいえない」。
「人間の身体もまた物である。従って手足の痛みなども手足の中にあるのではなくて精神の中にある」。
彼の”省察”という著作に書いています。首尾一環した意見です。
ガリレオも同様に「物質の諸性質は感覚主体の中に所在するに過ぎない」この観念が自然の数学化という革命的影響を及ぼしています。
感覚的性質を物から排除して人間の意識あるいは精神の中に押し込めたのです。これがコンピューターグラフィックまで繋がっているのです。
この哲学上の認識論は今では誤謬であったといわれています。哲学史の上ではカント、バークレー、ヒュームが出てこれを批判していきます。
カントやバークレーの批判とは別に関係なく、ガリレオの自然の数学化は我々の日常の生活を無視するかの如くに独立した自然科学の方法論として、
どんどん一人歩きをして、人間的曖昧さを切り捨てて科学によって構造化され立体化された数学化された世界が我々を覆い尽くしています。
自然はただ幾何学的に死んだものとして線引きされて数値化されてそれが客観世界として有無を言わせない勢いで我々の目の前を支配しています。
ガリレオ、デカルトの2元論が理論として否定されても、実際には現代の自然科学は一大発展を遂げているのは覆しようのない事実なのです。
信じられないことですが極小世界では素粒子の解析、極大世界は宇宙の開発の方向へう一層の細分化と遠方化へ向けて精密分析欲は終わりを知らないようです。
しかも人間は人間の身体も分解して物体化して、やがて人間の精神まで脳生理学の対象として自然の数学化という16、7世紀以来の理想に支配されています。
これはキリスト教文明から出たのです。これを我々どう考えるべきなのでしょうか。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅦ

2013年08月29日 | 歴史
 ”天皇と原爆”という拙著の中で和辻哲郎氏からの引用を紹介します。
 「あるスウェーデンの牧師がアメリカインディアンの酋長達を集めてお説教をした。
  インディアンの酋長が立ち上がって謝辞を述べて『あなたの話はおもしろかった。リンゴを食べたのが悪かった、あれはリンゴ酒にしたら良かった。
  あなた方の言い伝え、古いアダムとイブのお話は好意を持って感謝に堪えない』こういって酋長はお礼の印にトウモロコシとインゲン豆のお話をし出した。
  牧師は明らかに不愉快な顔になって『私の話は神聖なる神の話なのに何でお前達は作り話をするのか』
  酋長は怒って応え『どうもあなたたちは礼儀作法を知らないようだね。
  西洋の話をことごとく本当だと思ってお聞きしたのになぜあなたたちはトウモロコシとインゲン豆の話を本当のことだと思ってちゃんと聞かないのかね』」

 もう一つ別の話として、カントは哲学の他にケーニスベルク大学で地理学の講義をしていました。その時の彼のインドの話です。
 「宣教師がイエスの生涯や教えをインド人に話していると彼らは黙って聞いていて、
  その後インド人が自分たちの宗教に関して語ると宣教師はいきなり不機嫌になり『そんな戯言を君たちは信じているのか』と非難し始めた。
  インド人は感情を害して『自分たちはあなた方の話をそれが真実であると証明されなくとも信じているのにあなた方はどうしてそうしないのか』と反論した」

インディアンの話とカントの地理学の話は全く同じです。この時我々はニーチェの仏教肯定の話を読むと、同様の感想をもちます。
西洋体験の中で考えるとキリスト教ヨーロッパ文明は一つの鎖国です。閉鎖文明です。もう一つ外側から見る視点を持つとヨーロッパの方が閉ざされて見えます。
上記のインディアンやインドの話は我々の方が広くて包括的であると思います。それに対してキリスト教文明圏は閉ざされているではないでしょうか。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅥ

2013年08月28日 | 歴史
 そこで我々アジア人には奇妙な印象を持ってしまいます。
 「ニーチェはキリスト教を貶めるためにあえて戦略的に仏教を持ち上げている修辞学に過ぎないのではないか?」という疑問です。
おもしろすぎる対比の仕方とも思えます。
何かと戦う事は相手にどうしても規定される事があるため、その心理構造が逆に反映して対照的な物をかえって持ち上げすぎることになるという嫌いもあります。
ニーチェからはヨーロッパの外からヨーロッパを見ている視線をたくさん感じられます。晩年のニーチェはドイツの外からドイツを批判します。
ヨーロッパの外からヨーロッパを冷たく見る自由な観点が随所にあります。ところが彼はヨーロッパの外を旅行したことがありません。
アジア系言語を自ら学んだこともないので不思議な感じがします。100%西洋に閉ざされていたわけでもないという思いもあります。
このようなアジアと仏教に対するニーチェの物の見方は、
仏教文化に培われた上で、ヨーロッパ近代をヨーロッパの合理性や科学・法律制度・近代構造そのものを身に浴びて、それによって自分を形成し、
それに追いかけられてきた我々近代日本人にとって非常に複雑な感情を与えるのです。
平均的日本人がヨーロッパを旅行します。
すると教会の内壁に描かれた絵画、大きな美術館に飾られた聖書に材を取った残酷画の数々を見せられるとある違和感、拒絶感を抱くのは当然です。
 「仏教は老成した人間のための宗教である」「柔軟な柔和な精神的になりすぎた種族のための宗教である」
とニーチェに書かれると彼もまた異邦人の目を持っていたとも思われます。
このように両面があってはっきりとニーチェがヨーロッパ文化圏から離脱していたのかどうかは謎です。
ニーチェの言うには「ヨーロッパが仏教を受け入れるまでにはまだまだ成熟していない」。
しかし、仏教文化圏を生きてきた我々日本人は彼の言葉を真に受けて
 「日本人はキリスト教徒より遙かに成熟した高級な知恵を持っている」と簡単にいうわけにもいきません。
もちろん日本がヨーロッパ近代文化に接する以前、仏教が日本の生活の中にすっかり根を生やしていた時代においてはこのような優劣はあながち不可能ではありません。
近代日本人にとって複雑なのは、ヨーロッパ近代合理主義を限界まで走りきったニーチェが、自分の外にアジアを垣間見て魅了されたのに反して、
そのアジアに住む我々は彼が既に過去として克服した近代をまだ前途において、
また今までは少なくとも規範としてこれを仰ぎ見て今日ここに至るまで歩んできたという逆説があるのです。
よって近代の日本人にとってはやっかいなまでに事態は入り組んでいます。
それでも我々もまたヨーロッパの近代を我々の中に取り込んで近代を走り終わったニーチェに共感している主題を自ら追跡し、
この指で自分の内部にすでにこの同じテーマを感じています。
我々はヨーロッパ合理主義を自分の前方に見ながら同時に自分の背後に克服していかなければならないという二重の枷を負っているのです。
このような複雑の構造を前提にニーチェの仏教に対する感想を読むと何と言って良いのか分からなくなります。

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2013年08月27日 | 動物病院
毎年恒例の秋の健康診断を下記の要領で実施します。
秋は画像診断を中心に、尿検査、糞便検査、眼圧測定、心電図が加わります。
おしっこ用とウンチ用の採集容器を差し上げますので前もって取りに来て下さい。
おしっことウンチの提出は当日でも後日でもかまいません。
画像診断はエコーと胸部又は腹部レントゲンです。
毎年予約ですぐ埋まってしまい、ご迷惑おかけします。
ご希望の日がある場合、なるべく早めにご希望日を電話でご予約下さい。
受けて頂いた方には満足頂けますように丁寧に画像診断を行いますので
どうしても限られた件数しかできません。ごめんなさい。

6時間以上、できれば12時間以上、食事を与えないでお連れ頂いた方が
エコー検査は有効です。また、体毛を刈る許可をいただければ、より正確な検査になります。
ぜひ毛刈りの許可をお申し出下さい!!。
以下のような報告書を2週間以内に郵送でお届けします。


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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅤ

2013年08月26日 | 歴史
 「仏教の前提をなすものは極めて温暖な風土と風俗習慣に見られる、大いなる柔和さのびやかさといったものであってけっしてミリタリズムではない。
  運動の中心地が比較的上流社会の知識階級の中にあることも仏教の前提の一つと言えよう。
  最高の目標として目指されていることは心の晴れやかさ、静けさ、無欲恬澹たることで、しかもこうした目標は実際に達成されるのである。
  仏教は単に完全性を目指して気張っているような宗教ではない。完全さが常態なのだ。キリスト教においては抑圧された被征服者の本能が表面に押し出されている。
  キリスト教に救いを求めるのは最下層階級である」

 このような非常に明確な断定をしています。


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対象:全ての健康な猫ちゃんワンちゃん。
期間:9月4日(水)~19日(木)の二週間、日曜と16日(月)敬老の日はお休みです。
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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅣ

2013年08月25日 | 歴史
 そこで我々にとって大事なのはニーチェが仏教を次のように評価していたということです。
 「キリスト教をこのように断罪したからといって、私がこれに似た一つの宗教、信者の数ではキリスト教をしのいでいる宗教、
  すなわち仏教に対し不当な仕打ちをしたと思われては不本意である。両者はニヒリズムの宗教として同類であろう。ともにデカダンスの宗教である。
  誠に際立った仕方において互いに袂を分かっている。今この両者の比較対照が可能であることに対してキリスト教の批判者はインドの学者に深く感謝している。
  仏教はキリスト教に較べ100倍も現実主義的だ。仏教は問題を客観的に冷静に提出する昔からの遺産を身につけている。
  仏教は幾百年と続いた哲学的運動の後に出現している。神という概念は出現当時すでに始末が付いている。
  仏教は歴史が我々に示してくれる唯一の真に実証主義的な宗教だ。その認識論、一個の厳格な現象主義においてさえもそう言える。
  仏教はもはや罪に対する戦いさえも口にしない。その代わりどこまでも現実という物を認めた上で苦悩に対する戦いを言う。
  仏教はこの点で深く区別されるのだが、道徳概念の自己欺瞞をとうに脱却している。それは私流の言葉で言えば善悪の彼岸に立っている。
  仏教の根底に有り、仏教がはっきり目を据えている二つの生理学的事実は第1に感受性の過度の敏感と言う事、それは精巧を極めた苦悩の感受能力として現れる。
  第2に過度の精神化、すなわち概念や論理的操作の中であまりに長く暮らしすぎたこと。
  このような生き方の下では個人本能は損なわれ、非個人的な物に有利になるだろう。
  以上の2つの生理学的事情は私の読者の少なくとも二、三人客観的な人々なら私同様経験の上で知っていることだろう。
  以上述べた生理学的条件に基づいてある一つの沈鬱な心的状態が発生したのであった。仏陀はこれに対し衛生学的な手段を講じる。
  彼は対策として野外生活、遍歴生活を採用する。
  飲食における節制と選択、いっさいの酒類に対する用心、癇癪を起こさせ血をたぎらせるような一切の情念に対する警戒、
  自分にも他人にもどちらにも気を遣わない、仏陀は心を平静にする。晴れやかにする想念だけを要求する。
  彼はこれ以上の想念だけを淫する事から逃れる方法を編み出す。彼は善良さを、善良である事を健康増進によい物と判断する。祈祷は無用とされている。
  禁欲も同様に無用である。いかなる定言命法も無い、そもそも強制が無い、僧団の中にさえ無い、還俗が許されているのである。
  総じて強制で行われていることは、あの過度の敏感性を激化する手段になりかねないであろう。
  まさしくこの故であろう、仏陀は見解を異にするものへの戦闘さえ人々に要求してはいない。
  復讐や嫌悪や怨念(ルサンチマン)と言った感情に陥る事を仏陀の教えは何物にも増して警戒しているのだ。
  敵意によりては敵意は終熄せず、これが仏教全体に共通する感動的リフレインである。もっともなことである。
  こうした情念こそは摂生上の主目的からみてこの上なく不健康な物だと言えよう。仏陀は精神的な倦怠を目の当たりに見たのである。
  あの過度の客観性、個人的感心の薄弱化、重心の喪失、エゴイズムの喪失、こう言った物に現れる精神的な倦怠に打ち勝つため、
  仏陀は例え極度に精神的な関心事であろうと遡ってこれを個人というものに還元して考える。仏陀の教えにおいてエゴイズムは義務となる。
  無くては成らぬはただ一つのみ、すなわち『いかにして汝は苦悩を免れるか』これが精神上の摂生全体を規制し制限するのである」

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅢ

2013年08月24日 | 歴史
 そもそもニーチェはアメリカの事を問題にしているわけではありません。しかし日本人はそのことを考える必要があると思います。
この”アンチクリスト”や”偶像の黄昏”を書く前にニーチェは”道徳の系譜”を書いています。

 「ルサンチマンは精神的な心理的な自家中毒と言う物で、強い人間では無く、弱い人間に宿りがちな、しかもある程度平等が行き渡っている世界の中で、
  無力感から閉ざし混まれる鬱屈感情をさす」

行動で鬱を晴らす事のできる人はそういう病気にはかかりませんが、現代の人間性の世界では当たり前になっているけれど、
そういう心理構造が社会の中でいろいろな問題を動かす大変大きなバネになっている事を初めて明らかにしたのが”道徳の系譜”の中のルサンチマンの概念です。
マックスシェーラーという人物が改めて分析解析をしています。無力感、自分で行動を表現できないために無力感が宿ります。
その無力感が内向して鬱屈していき、これが溜まっていって破壊的なパワーとなって、諸相を心理的に精密に議論してそれがキリスト教の信仰の土台にあります。
「差別された側の人間のドラマがキリスト教を生み出した」それが暗黒の部分です。キリスト教の持っている明るい部分ではありません。
これをニーチェは分析鋭く展開します。この問題はニーチェが歴史上初めて試みたのです。でもマックスシェーラーはこのニーチェの意見に反対なのです。
「社会心理としては非常に重要なのだが、これをキリスト教の愛の概念として転嫁したと言う解説は納得できない」
結局ヨーロッパ人の大部分はニーチェは行き過ぎていると考えていました。
時代がどんどん進むに連れてヨーロッパのニヒリズムは深まる一方であって、ヨーロッパの衰弱もますます目に見えてくる。
相対化し、西洋文化の価値もどんどん落ちていきます。先ほどの形而上学の誤謬の歴史もその通りだなあと分かってきます。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅡ

2013年08月23日 | 歴史
 我が国がアメリカに侵略されて忽然と悟らなければいけなかったことは、「アメリカはキリスト教国である」ということではないでしょうか。
今に至ってもその認識に欠ける人々がいます。アメリカはヨーロッパよりも遙かに強烈なキリスト教国なのです。
アメリカは宗教を信ずる点においてはイスラムと双璧をなすでしょう。
一方アメリカに留学した日本人はドイツやフランスに留学した日本人よりもキリスト教を意識しません。
キリスト教がいかにアメリカの背景を形成しているかを意識しないのです。ヨーロッパに留学すると大伽藍のゴシック建築の数々を目にするからでしょうか。
アメリカにはそれがありません。アメリカは市民化していて近代化していて宗教は関係ない国だと思うからなのでしょうか。
ところがアメリカの方が遙かに信仰においてヨーロッパ人をしのいでいるのです。神様を信じる人はアメリカ人は8割も9割にも及びます。
ヨーロッパ人は1/3にも満たないのです。教会に礼拝する人も20%しかいません。アメリカは2/3の人が日曜になると出かけてくのです。
この凄まじい宗教への傾倒はトックビルがフランス革命後にアメリカ論ですでにアメリカの宗教性を指摘しており、むしろ日本人が気がつかないのが変な話なのです。
このアメリカの宗教性はどこから来るのでしょう。アメリカに移民した清教徒達はヨーロッパで虐げられた宗教戦争の敗北者です。
骨の髄までいじめられた人達が「神の国を作るのだ」としてモーゼの元に集まったユダヤ人が逃れてエジプトを脱出し、
イスラエルを建国したあの出来事と同じように、「アメリカという国を作るのだ」とワシントンはモーゼのような役割を果たしていたのです。
こう言った宗教構造がいかに根深いか我々はよく知っておく必要があります。このことに相当の知識人でも気がつかないのです。
戦争前に日本人がアメリカを研究した時にアメリカの宗教性を考えなかったため、
「アメリカが日本の宗教を考えていないんじゃないか」と思い込んでいる人が多いようです。
しかし、アメリカ人は各民族の宗教を常に研究していて、それを叩き潰す事が戦争に勝つ事だと言う戦略を常に持っていて、天皇に狙いを付けてやってきたのです。
「菊と刀」という本でそれが語られています。日本人は迂闊で、直前までアメリカと戦争するのではなくて、ヨーロッパの近代文明と戦争するのだと思っていました。
少なくとも昭和13年から14年くらいまではそうだったのです。アメリカを敵だと思っていなかったのです。今も迂闊だが戦前も迂闊だったのです。
迫害されたキリスト教徒がアメリカのバックボーンを形成しています。ヨーロッパは18世紀に啓蒙主義の経験をします。
そこで脱宗教という精神運動を一端くぐり抜けているのです。政教分離というのはそこから生まれます。
ヨーロッパは16~17世紀、新教の自由を巡る凄まじい宗教内乱がありました。それを経過する事でヨーロッパは目が覚め、啓蒙主義が花開く時代を迎えます。
しかしアメリカにはそれがありません。
アメリカの自らの宗教に対する無警戒さ、宗教戦争と啓蒙主義の経験もなしにいきなり宗教と政治を結びつける躊躇のなさも大きな問題なのです。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩⅠ

2013年08月22日 | 歴史
 「キリスト教神学者は
 『イスラエルの神からキリスト教の神へ、民族神から全ての善なる物の精髄へと神の概念が展開したのは一つの進歩であった』と述べ立てている。
  我々はどうして今日、こんなおめでたい見解に甘んじて付き合う事ができるといえよう。ところがルナーまでがこんな考えに甘んじているような国だ。
  ルナーはまるでおめでたさに加わる権利がほしいとまでいう風だ。明白なる事実は以上のキリスト神学者の説に当に正反対である。
  すなわち上昇する生の諸前提、一切の強さ、勇敢さ、尊大さ、誇らしさが神の概念から取り除かれていったのである。
  神は一歩一歩下落して疲労した者の杖、溺れていく者の浮き袋のシンボルと化し、とりわけ貧しき人々の罪、罪人の神、病める人の神と成り果て、
  救世主、救済者と言った賓辞(述語)だけが、いわば神(主語)の賓辞(述語)一般として残ったのである。
  以上が明白な事実であってみればこのような変質は神概念のかかる縮小低下は何を物語るであろうか。確かに神概念の変質によって神の国は拡大したといえよう。
  広がったと言えよう。その昔、神は只自分の民族、自分の選ばれた民しか持っていなかった。
  その内神は選民達と全く同じく異国に赴き自身さすらいの旅路についた。
  以来神はいずこの地にも二度と落ち着く事は無かったが遂に神が定住の地を得たとき神は世界中至る所を故郷とするに至ったのだ。
  神は偉大なるコスモポリタンとなった。遂に多数者と、地球の半分を味方に付けた。神の国は確かに拡大したと言えよう。
  だがこの多数者の神、神々の中のこの民主主義者はそれにもかかわらず高い誇りを掲げた異境の神になったわけではない。
  彼は依然としてユダヤ人だ。依然として片隅の神だ。暗い神々。暗い場所の神。世界中の不健康な居住地区の神。
  神の世界帝国は相も変わらず冥府の国、病院、地底の国、ユダヤ人街の帝国である。しかも神そのものにしてから何と青ざめ、何と弱々しい、何とデカダン。
  形而上学者諸君、諸君は概念の白痴病患者であり、青白い人間の中でも最も青白い人種である。
  そんな諸君ですら神を自由に操れるようになったのだ(近代哲学者が神を操っているのだ)。
  諸君は実に久しい間、蜘蛛の網を張り巡らしてきたわけだが、諸君の動きによって神は催眠術を掛けられ、自ら蜘蛛となり自ら形而上学者と成りはてた。
  さてこそ今や神様はご自身の体内から再び世界を”スピノザの相の元に”(スピノザの名言「永遠の相の元に」をもじった)紡ぎ出したのだ。
  さてさて神様、いよいよ影薄く、青白い物へと変わり果て理想となり、純粋精神となり、絶対者となり、そして遂に物自体となったのである。
  神の堕落、神様が物自体となったのだ」

何とも痛烈な皮肉であります。キリスト教を信じている人や好意を持っている人はどうしてもこれを認められないことでしょう。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅡⅩ

2013年08月21日 | 歴史
 ユダヤ教が創られた時、既にユダヤ民族がいたわけではありません。ユダヤ民族がユダヤ教を創ったのではありません。
エジプトで奴隷として差別されていた人々がいて、それがモーゼの掲げた神の名の元に団結してエジプトの支配者に反抗して逃げ出しました。
その人々が後にユダヤ民族となります。従って人種はばらばらで民族としてまとまっていたわけではありません。多様な人種が奴隷として集められていました。
彼らが一つの集団としてまとまるためには全知全能の唯一絶対神を頂く神が必要だったのです。
奴隷達がモーゼの元に集まり、エジプトから逃げ出してカナンの地に移住し、その記録が「出エジプト記」です。
彼らは自分たちのアイデンティティーを守るため作り上げた一神教、神様の世界、これがユダヤ教です。
ユダヤ教徒達はパレスティナあたりで力を得てユダヤ王国を作っていきます。それがまた、上位の大帝国であるローマによって滅ぼされ支配されます。
そして再び差別される階級に落ち込んだユダヤ教徒の中からキリスト教が生まれます。
そのキリスト教はローマ帝国の中心部に伝わり、もちろんローマの神々に反抗するので弾圧されます。
コロッセウムでキリスト教徒が見世物としてライオンに食い殺される事件が起こります。
しかし弾圧にも負けないでさらに北から流れ込んできたゲルマン人、被差別民、奴隷、下層民に広がっていきます。下層階級を超えて普遍性を勝ち得たと称するのです。
ローマ帝国が弾圧しきれなくなって「キリスト教徒を利用した方がよい、統治上便利だ」と言う事があってキリスト教を国教化します。
キリスト教は最初は下層民の宗教だったのです。やがて上流階級にも迎えられていきます。フロイトも下層民から広がったと指摘しています。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅩⅨ

2013年08月20日 | 歴史
 外国文学にせよ歴史にせよ、言葉の世界であり、文字表記の世界です。しかし果てしなき時間を遡れば我々は言葉も文字もない世界にぶつかるわけです。
空間を果てしなく拡大してもやはり言葉の及ばない世界が現れます。具体的な手がかりのある有限な物ではなく、何も無い世界。
”死と虚無”を対象とする時何が起こるのでしょうか。
時間と空間の果てに、”死と虚無”を認めない立場もあれば、”死と虚無”しかないということをしっかり直視している立場もあります。
もちろんニーチェは後者に属します。死では無く永遠の生がそこにはあります。虚無ではなく永遠の存在があります。
そういうものを立てる場合もありますが、ニーチェはそうではありません。歴史をどんどん遡っても文字表記の遡れるところまでしか遡れません。
彼は文字なき以前の遠く果てしない過去を訪ねます。
時に古代ギリシャの始原の世界、晩年には古代イスラエル史の始原の時代に、今までの歴史や既成の歴史観を破棄して白紙に戻すと言うことを彼はやっていきます。
「悲劇の誕生」と「アンチクリスト」の二作です。
新しいグロイター版全集の結果、紆余曲折を重ねて遂に完成されなかった「権力への意志」という主著の中で、
まとまった最後の一作品として残った物が「アンチクリスト」です。
「アンチクリスト」の重要性は、激しく過激な言辞に満ちているわりには物語仕立てでプロットがあり、筋立ての流れがあります。
結果として読者に不安を与えません。ニーチェの作品の中には断章ばかりでよく分からない読みにくい本も多いのです。
「悲劇の誕生」も「アンチクリスト」もきちんとした構成があります。
この本のテーマは「無からの創造はどうして可能だったのか」です。
神による天地の創造、処女マリアの受胎、十字架上に死んだはずのイエスの復活、何か原因が無ければこういうことは起こりません。
おそらく何かの危機があったのでしょう。古代人はこういうことは認めません。無から有は生じないと考えます。キリスト教の成立史はあからさまに不合理です。
キリスト教の神はあまりにも自由すぎます。この自由は「神の恩寵」と呼ばれています。端的に言えば「不合理故に我は信ずる」でしょう。
「何かの仕掛けがあったからこれは可能になったのだろう」とニーチェは想像したに違いありません。そこには決断の自由が存在します。信じるとは意志の決断です。
そのような事が起こったに違いないでしょう。様々な誘惑を捨てて神の掟に従う決断、その自由はいかなる掟において可能になったのでしょうか。
ここで我々はユダヤ人の歴史を振り返る必要があります。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅩⅧ

2013年08月19日 | 歴史
 「”真の世界”を我々は廃絶してしまったのだ。で、どんな世界が残っているのか。ひょっとして仮象の世界が残っているのでは。そんな馬鹿な。
  ”真の世界”とともに、我々は仮象の世界も廃絶したのだ。正午、最も影の短い瞬間。最も長い錯誤の終焉。人類の頂点。ツアラーツーストラ始まる」

 あの世は我々が廃絶してしまいました。では何が残っているというのでしょうか。仮象(~の様に見える)ですか。
形而上学は実在(あの世)と現象(この世)に分けて考える思想です。根底にある”真の世界”は見えません、隠れているのです。
しかし”真の世界”がなくなってしまったら仮象の世界も一緒になくなっちゃったんです。これが正午なのです。ニーチェは常に影と光両方を見ています。
日本人にとってヨーロッパ世界は光り輝く世界に見えていますが、実は暗い影を伴っていて。アジアは光と影を対立させないで生きてきました。
仏教の多くは「あの世はない」という概念を前提にしています。あの世という物を求めない心を前提としています。
ニーチェの結論をアジア人は先取りしているともいえます。我々アジア人はヨーロッパ近代文明という物が襲来され、それを理性と光の世界として受け止めてきました。
科学技術その他。それは抜き差しならない我々を覆っている現実であります。ヨーロッパは光の世界と同時に暗闇(悪の世界)も抱えています。これはアメリカも同じです。
その二重になっている世界が我々日本人には最初見えませんでした。明治大正昭和に渡って見えませんでした。見えないで慌てふためいて戦争にまで至ってしまいました。今、我々はその二重の世界がはっきりと見えるようになってきたのです。しかし、光と影、両方有るけれどツアラーツーストラは正午と言いました。
正午とは影の無い世界が来たということです。二重性にヨーロッパもそれに気がついてきたのです。アジア人は最初から正午に生きてきたのです。


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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅩⅦ

2013年08月18日 | 歴史
 「”真の世界”は到達不可能なのか。ともかく到達された事は無い。到達された事はないのであるから知られてもいない。
  従って慰めにもならず、救いをももたらさず、義務を負わせることもない。知られてもいないことがどうして我々に義務を負わせる事ができるのであろう。
  仄白い朝、理性の最初のあくび、実証主義の鶏鳴。(実証主義が鬨の声を上げた)」
この文章を哲学者が翻訳すると大変つまらない文にしてしまいます。これは科学の時代が始まった事を指しています。
科学では神様やあの世を証明できない事はわかりきっています。科学、実証主義では慰めにも成らないし救いにも成らないし義務を負わせることもできません。
だめになったのです。ニーチェ自身は科学を否定していません。科学の果たすべき役割を大変評価しています。
科学が事実を発見して世界に説明しようとするその場合、できる許容範囲の中でそれをすることは許されます。
しかし全て解明できる、実証できる、説明できるという科学の盲信については有害だと見なしています。科学を賞賛するけれども万能だとは思っていないのです。
ニーチェはある意味で科学、実証を拒絶してもいたのです。ニーチェにとって事実は存在しません。事実は解釈だけが存在します。
「パースフェクティズム、全ては解釈である」。
人間の事実を突き詰めたところでそれは物の見方であって、解釈によって多様になります。世界について全てを説明しようとする科学者は科学者とは言えません。
これが理性の最初のあくびと言うなのです。
 ”真の世界”、これはもはや何の役にも立たない無用の長物となりはてた理念です。従って論破されてしまった一理念なのです。
であるからには我々はこれを廃絶してしまおう(唯物論)。
「光明るい日中、朝食、良識と快活さの復帰。プラトンの赤面(恥ずかしがっている)。全ての自由な精神たちのどえらい(トイフェル)馬鹿騒ぎ」
トイフェルとは悪魔の意、こんちくしょうと言う意味です。フランス革命とか、サドの快楽主義とかを連想するのでプラトンが赤面するのだろうと言うのです。
ニーチェはこれで満足しているわけではありません。

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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅩⅥ

2013年08月17日 | 歴史
 「”真の世界”は到達不可能であり、証明不可能で有り、約束不可能である。
  しかし、”真の世界”は考えられただけで一つの慰めであり、一つの義務で有り、また一つのインペラティーフ(命令・カント用語)である。
  結局のところ、古い太陽なのだがひとまず霧と懐疑をくぐり抜けている。
  言い換えれば”真の世界”という理念は崇高になり、青白くなり、北方的になり、ケーニヒスベルク(カントの生誕地)的になった」

ケーニヒスベルクは今はロシア領カリーニングラードとなり、昔東プロイセンの首都だった場所です。これはカントの事を比喩的に著しています。
カントは
「”真の世界”は物自体である。この現象世界とは別に物自体、”真の世界”は存在する。しかし、理論理性によっても、どんな努力をしても到達不可能である。
 証明不可能である」ニヒリズムのスタートはカントに始まります。
こんな物は約束もできません。到達できないのだから未来においても約束できませんよ。
けれども道徳高き者には約束はできませんが、その世界に到達する事は慰めでもあると同時に義務でもあり命令(インペラティーフ)でもあります。
カントは純粋理性批判の中で理性によって神の証明はできないといいました。理論理性ではできないが実践理性、つまり道徳の感情によっては神の存在は証明できます。
結局の所これは古い太陽なのです。プラトンもキリスト教も同じ事なのだけれどひとまず霧と懐疑をくぐり抜けています。
神話なんかを全て取り払って、「言い換えれば”真の世界”は崇高になり青白くなり北方的になり…」ニーチェはこういう哲学をからかっているのです。
ニーチェは「カントの究極の概念は物自体だ」といっています。
「ついに神様は物になったのだ。神の発達の最後の段階は没落して物になったのだ」とからかっているのです。結局カントはあの世を信じていた人だと思います。
神の存在を信じていたのでしょう。当時の社会で神を疑うなんていったら大変なのことになります。
常識人でもあるカントは今までのやり方ではなく違う形で神を信仰しているとしています。
「科学では証明できませんが我々は道徳心を持っているでしょう。それならば神様を信じる事ができるでしょう」カントは常識的な解決をしたのだと考えられます。

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