三木内閣はそもそも福田さんと大平さんの対立の中で、三木さんが「野党と組んで自民党を終わらせるぞ」と脅したために自民党が暫定的に作った内閣のはずでした。
ところが暫定という気はさらさらありません。それどころか政官財鉄のトライアングル、全てに喧嘩を売る真似をし出します。
田中大平福田といった主流派は三木さんに手も足も出ませんでした。それまでの自民党は政権を失った派閥は空中分解すると言われていました。
鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、佐藤栄作がそうです。池田勇人だけは残りました。田中角栄は崩壊の危機がありました。
竹下登は田中さんに面従腹背どころか喉元に刀を突きつけました。
ところがそこで救いに入ったのが田村元、中間派無派閥のような立場から田中さんに個人的に好意を持ち仲間を引き連れて田中派に入ります。
その後田中さんは総理を辞めても人望があるのだということになり田中派は徐々に増殖し始めるのです。最大派閥を維持していくことになります。
田村さんは田中派の最大の恩人でしょう。田村さんは竹下内閣で通産大臣を得ます。希代の政争家であるといえます。
三木さんが政治改革にのめり込む中で、財政危機が進んでいきます。田中大平福田3派は保守本流と言われ、大蔵大臣を出せる派閥です。
三木さんは大蔵省を官僚機構の中でも特に目の敵にしています。そこで三木さんに対して懸念を示す保守本流、官僚、財界の人達は反撃の隙を狙っています。
三木さんが赤字国債を出します。これは大変だと言うことで起きたのがスト権ストです。
社会党支持母体の総評、牧枝日教組委員長「公務員にストがないのはおかしい」と言ってストを起こしたのです。ここで大活躍するのが海部俊樹さんです。
牧枝さんに対して「テレビで公開討論で決着付けよう」と提案しました。
「あなたたちのやっていることはおかしい!」徹底的に討論してねじ伏せてしまったのです。スト権ストは中止になりました。
当初は保守本流組は「三木降ろしのチャンスだ」と踏んでいましたが、海部さんの演説と討論だけで粉砕されてしまったのです。
こんなことは歴史上希なことです。今の野田さんも本気で増税をやりたいのなら国民の前に出て反対派と討論をすべきなのです。
結局三木さんは権力を維持したいだけなのです。その程度の内閣でも権力を維持できてしまうのです。
石油ショック後大変だと言っても、総理の椅子に居座ったら残ることができたのです。日本全体に経済を初め、勢いがあったのでしょう。
昭和51年2月にロッキード事件が起きます。ロッキード社とグラマン社が世界中で飛行機の売り込み合戦をする中で権力者にお金をばらまいていたという疑惑です。
田中さんがその5億円を受け取ったのかどうかと言う話です。この程度のことをアメリカが陰謀で仕掛けるかというのは相当疑わしいでしょう。
しかし、このロッキード事件を「田中派追い落としの天佑だ」として三木さんが「田中を殺す」と決めた瞬間、米中代理戦争が始まったのです。
汚職事件が起きたら時の総理はひた隠しにします。自分の与党の議員を守るというのが吉田茂以来の伝統でした。
ところが三木さんは「徹底的に真相究明します」と周囲に約束してしまうのです。
三木派はそういうお金を持ってくる人がいない貧乏派閥だったので怖い物がありません。大多数の脛に傷持つ人々が大変でした。
この時、浜田功一は
「角さんだけが悪者にされるのは嫌だ」と目白御殿に行って
「誰にいくら配ったかばらせば良いじゃないですか!」「三木武夫とか稲葉治の名前はないですか?」
田中さん「それだけはない…」
この時田中大平はもちろん、副総理経済企画庁長官として主流派の一角を占めていた福田赳夫も当時71才です。
「ここで三木を引きずり下ろせなければ自分に政権の芽はない」と焦ります。
福田さんの側近園田直。そして園田さんと張り合っていたのが松野頼三です。
松野さんへの対抗心から園田さんは福田さんに倒閣を迫ります。
松野さんは「三木内閣を支えることが福田さんが長く権力を握られる道だ」と考え、総理の椅子以上に禅定路線です。
三木内閣は福田さんと青嵐会が支えているから持っているのが現状でした。
「実権を握るには三木と協調すべきだ。田中大平と組んで政権握ってどうするんだ」と説得していました。
こういった側近間の路線対立があり反三木派がまとまりません。
三木内閣は「朝日新聞と連立した非自民党体質の政権」と評価されがちですが、じつは連立していたのは読売新聞でした。
”三木降ろし”は新聞にリークされて潰れていきます。「汚職隠しだ!」のレッテル張りです。
読売の政治記者中村敬一郎私設秘書、三木さんがあえて乞うて側に置いていた人物です。
朝日のような左でも産経のような右ではなく、日和見保守の読売と連立していたのです。各新聞に目配りはしておくのです。
マスコミ受けが良いことを常にやるのが三木さんです。このリークによって2回目の”三木降ろし”は一瞬にして潰れます。
「敵の陰謀を察知したら一番に良い媒体を選んでリークせよ」。
検察庁は吉田茂内閣の時、佐藤栄作幹事長を逮捕しようとして吉田さんの命令で犬飼健法務大臣が指揮権を発動しました。
「その捜査逮捕をやめろ」。
ところが三木さんは検察幹部を呼び寄せて「徹底的にやれ!」と指示します。検察は本気にして田中角栄を逮捕します。
三木さんは「当日の朝まで知らなかった…」と嘯きます。もちろん総理大臣が前首相の逮捕を当日の朝まで知らないなんてことはあり得ません。
検察が政治捜査をする場合、時の政権の意向を一切無視してやるほどの独立機関かというと、指揮権発動の危険性があるのでありえません。
稲葉法務大臣はなんと「釣りに行っていて知らなかった…」。加えて「今日は大物が釣れるぞ!」と余計なこと言って叱られていました。
三木さんは田中さんを抹殺したのです。
それでも這い上がって延命した田中さんはすごいですが、三木さんの10年殺しによって、とうとう田中さんは息の根を止められます。
三木さんはそこまでやるのです。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
4月の予定
ところが暫定という気はさらさらありません。それどころか政官財鉄のトライアングル、全てに喧嘩を売る真似をし出します。
田中大平福田といった主流派は三木さんに手も足も出ませんでした。それまでの自民党は政権を失った派閥は空中分解すると言われていました。
鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、佐藤栄作がそうです。池田勇人だけは残りました。田中角栄は崩壊の危機がありました。
竹下登は田中さんに面従腹背どころか喉元に刀を突きつけました。
ところがそこで救いに入ったのが田村元、中間派無派閥のような立場から田中さんに個人的に好意を持ち仲間を引き連れて田中派に入ります。
その後田中さんは総理を辞めても人望があるのだということになり田中派は徐々に増殖し始めるのです。最大派閥を維持していくことになります。
田村さんは田中派の最大の恩人でしょう。田村さんは竹下内閣で通産大臣を得ます。希代の政争家であるといえます。
三木さんが政治改革にのめり込む中で、財政危機が進んでいきます。田中大平福田3派は保守本流と言われ、大蔵大臣を出せる派閥です。
三木さんは大蔵省を官僚機構の中でも特に目の敵にしています。そこで三木さんに対して懸念を示す保守本流、官僚、財界の人達は反撃の隙を狙っています。
三木さんが赤字国債を出します。これは大変だと言うことで起きたのがスト権ストです。
社会党支持母体の総評、牧枝日教組委員長「公務員にストがないのはおかしい」と言ってストを起こしたのです。ここで大活躍するのが海部俊樹さんです。
牧枝さんに対して「テレビで公開討論で決着付けよう」と提案しました。
「あなたたちのやっていることはおかしい!」徹底的に討論してねじ伏せてしまったのです。スト権ストは中止になりました。
当初は保守本流組は「三木降ろしのチャンスだ」と踏んでいましたが、海部さんの演説と討論だけで粉砕されてしまったのです。
こんなことは歴史上希なことです。今の野田さんも本気で増税をやりたいのなら国民の前に出て反対派と討論をすべきなのです。
結局三木さんは権力を維持したいだけなのです。その程度の内閣でも権力を維持できてしまうのです。
石油ショック後大変だと言っても、総理の椅子に居座ったら残ることができたのです。日本全体に経済を初め、勢いがあったのでしょう。
昭和51年2月にロッキード事件が起きます。ロッキード社とグラマン社が世界中で飛行機の売り込み合戦をする中で権力者にお金をばらまいていたという疑惑です。
田中さんがその5億円を受け取ったのかどうかと言う話です。この程度のことをアメリカが陰謀で仕掛けるかというのは相当疑わしいでしょう。
しかし、このロッキード事件を「田中派追い落としの天佑だ」として三木さんが「田中を殺す」と決めた瞬間、米中代理戦争が始まったのです。
汚職事件が起きたら時の総理はひた隠しにします。自分の与党の議員を守るというのが吉田茂以来の伝統でした。
ところが三木さんは「徹底的に真相究明します」と周囲に約束してしまうのです。
三木派はそういうお金を持ってくる人がいない貧乏派閥だったので怖い物がありません。大多数の脛に傷持つ人々が大変でした。
この時、浜田功一は
「角さんだけが悪者にされるのは嫌だ」と目白御殿に行って
「誰にいくら配ったかばらせば良いじゃないですか!」「三木武夫とか稲葉治の名前はないですか?」
田中さん「それだけはない…」
この時田中大平はもちろん、副総理経済企画庁長官として主流派の一角を占めていた福田赳夫も当時71才です。
「ここで三木を引きずり下ろせなければ自分に政権の芽はない」と焦ります。
福田さんの側近園田直。そして園田さんと張り合っていたのが松野頼三です。
松野さんへの対抗心から園田さんは福田さんに倒閣を迫ります。
松野さんは「三木内閣を支えることが福田さんが長く権力を握られる道だ」と考え、総理の椅子以上に禅定路線です。
三木内閣は福田さんと青嵐会が支えているから持っているのが現状でした。
「実権を握るには三木と協調すべきだ。田中大平と組んで政権握ってどうするんだ」と説得していました。
こういった側近間の路線対立があり反三木派がまとまりません。
三木内閣は「朝日新聞と連立した非自民党体質の政権」と評価されがちですが、じつは連立していたのは読売新聞でした。
”三木降ろし”は新聞にリークされて潰れていきます。「汚職隠しだ!」のレッテル張りです。
読売の政治記者中村敬一郎私設秘書、三木さんがあえて乞うて側に置いていた人物です。
朝日のような左でも産経のような右ではなく、日和見保守の読売と連立していたのです。各新聞に目配りはしておくのです。
マスコミ受けが良いことを常にやるのが三木さんです。このリークによって2回目の”三木降ろし”は一瞬にして潰れます。
「敵の陰謀を察知したら一番に良い媒体を選んでリークせよ」。
検察庁は吉田茂内閣の時、佐藤栄作幹事長を逮捕しようとして吉田さんの命令で犬飼健法務大臣が指揮権を発動しました。
「その捜査逮捕をやめろ」。
ところが三木さんは検察幹部を呼び寄せて「徹底的にやれ!」と指示します。検察は本気にして田中角栄を逮捕します。
三木さんは「当日の朝まで知らなかった…」と嘯きます。もちろん総理大臣が前首相の逮捕を当日の朝まで知らないなんてことはあり得ません。
検察が政治捜査をする場合、時の政権の意向を一切無視してやるほどの独立機関かというと、指揮権発動の危険性があるのでありえません。
稲葉法務大臣はなんと「釣りに行っていて知らなかった…」。加えて「今日は大物が釣れるぞ!」と余計なこと言って叱られていました。
三木さんは田中さんを抹殺したのです。
それでも這い上がって延命した田中さんはすごいですが、三木さんの10年殺しによって、とうとう田中さんは息の根を止められます。
三木さんはそこまでやるのです。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
4月の予定