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ニーチェの言葉『神は死せり』日本人としてどう考えるかⅢ

2013年08月04日 | 歴史
 ヤコブ・ブルックハルトは、例えばツキジデスという古代ギリシャの歴史家の書物の中には今から100年経つとやっと気づくような第一級の史料があるというのです。
ツキジデスというのは何度読み返しても新しい発見があるというのです。しかし100年経ったら今生きているブルックハルトにも予想できない事実が発見されるでしょう。
それが歴史という物なのです。歴史は動く物なのです。
過去の史料という物は、現在の我々が変化して時代認識が変わるとそれにつれて新しい発見が見いだされ、違った姿を見せるという意味であります。
歴史は歩くと変わる山の姿に似ています。歩くにつれて全体の山は少しずつ違って見えるけれど、山そのものがなくなるわけではありません。
でも過去という客観世界は間違いなく存在します。しかし山の姿は変わっていきます。
歴史が”自己”だという意味は、過去との間の果てしない対話をする歴史家の問題だと言うことになります。偉大な歴史家はその都度決断して叙述を深めます。
現代日本の大半の職業歴史家が下らない連中だと思えてしまうのは、歴史が動かないと思い定めているからです。秦郁彦氏が良い例であります。
彼はGHQの歴史観で決められた物は動かないと考えているようです。加藤陽子氏も同様です。歴史は動かないという固定観念で過去を描いていきます。
歴史を事実の探求と確定だと思っているようです。何年何月に何が起こったということを並べてもこれは歴史ではありません。
ブルックハルトという歴史家はドイツ語で書いたのでドイツの歴史家に属されますが歴然ドイツの歴史家とは違っていました。
19世紀のドイツの歴史家は基本的に古代ギリシャの歴史観ではなくて、キリスト教の歴史観の中に生き続けていました。
ヘーゲルの時代で、そのこっち側にランケがいるのです。
「歴史は初めがあって終わりがある」「天地創造があって最後の審判がある」「歴史は目的を持って動いていくのだ」、キリスト教的歴史観の内部に閉ざされています。
従って、歴史は一つ一つが事実の一回性を重んじられているのです。細かい記述をするのは一回の事実に価値があるからです。
 しかし古代ギリシャ人はそんな風には考えていません。我々日本人の江戸時代以前もそんな風には考えていませんでした。
歴史は巡り来る循環であり、自然が変わるように繰り返すとします。春夏秋冬のように自然は回帰するものです。歴史も同様に回帰します。人間世界も繰り返します。
同一の物が繰り返す可能性が高いと考えます。
ギリシャ人にとっては人間一般が問題であって、人間の真実とはいつの時代も真実であるのです。
一方「古い時代が改まって次の時代は新しくなる」というのはキリスト教の歴史観です。
一回性があって、革命があって新しくなればそこで新しい物が生まれるというのがキリスト教の歴史観です。ギリシャの歴史観は永遠に同一の物が繰り返されます。
これをイデアといいました。人間一般が問題なのです。偉大な人間とは常に偉大であり、遠い時代も偉大であったし、今も偉大であるのです。
 我々の歴史観もそれに近いでしょう。
例えば司馬遼太郎が書いた坂本龍馬に影響されたのか、”日本維新の会”というものができてきましたが、この日本が行き詰まると明治維新を思い出します。
しかしこの会は嘘です。明治維新を思い出すのならば天皇を思い出さなければありえないでしょう。維新の会というのなら皇室をどうするのか考えがあるのでしょうか。
そんなことは頭にも無い人達が維新だというのは最初からおかしいではありませんか。しかし、明治維新を思い出すのは日本人の習性なのでしょう。
山岡荘八の徳川家康は繰り返し読まれていて事業の経営者が経営に役立てるとか、日本人の歴史の中には雛形があってそれが次の時代にも役に立つとされます。
一方ドイツで「ビスマルクに還れ」なんて聞いたことがありません。
ビスマルクは偉大なドイツを統一した宰相だけれど、「ビスマルクに還れ」といったらドイツで笑われることでしょう。
でも日本人は「明治大帝に帰れ」という気持ちを持っています。
ブルックハルトは19世紀のドイツの歴史家の中でも特異です。不変な物、恒常的な物、類型的な物を描き出します。例えば徳川家康を類型として認めます。
ブルックハルトはコンスタンチヌス大帝とかイタリアルネッサンスとかそういう時代を類型として賛歌を捧げた文学的な歴史家といえるでしょう。
しかしドイツの19世紀の歴史観はまったくそうではありませんでした。
キリスト教という枠の中にあって、ランケ、マイネッケ、トレルチに至るまで結局はキリスト教なのです。ヨーロッパ絶対主義、つまりヘーゲルです。
内部に閉ざされた歴史なのです。ブルックハルトは少し違います。不変な物、恒常的な物、類型的な物を哲学者はイデアというでしょう。
この歴史家はそうは言いません。
動く物、人間類型みたいな物、これらは繰り返され、コンスタンチヌス大帝とかイタリアルネッサンスも繰り返すと言う観念で書かれています。
これは一回性を絶対化したキリスト教の歴史観にはありません。
漱石の体験も、ブルックハルトの歴史観にしても”自己”とは何かと言うことが起点になっている事がわかります。

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