安城市緑町 ミドリペットクリニック0566-77-6047

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動物病院の日常、広報、呟き
午前9:00-12:00 午後4:00-7:00
休診:日曜祭日、水午後

春の健康診断を行います。ご参加是非ご参加下さい。

2013年02月28日 | 動物病院
 この春も恒例になりました春の健康診断を行います。
春は血液検査を中心に(昨年より検査項目を増やしました)、糞便検査、尿検査、眼圧、血圧、ワンちゃんはフィラリア、ネコちゃんはFIVかFELVを含みます。
ご参加対象は全年齢のワンちゃんかネコちゃん。持病の有無は問いません。
必ずご予約下さい。尿と糞便の容器を差し上げます。尿と便は多くの重要な情報を与えてくれます。是非お持ち下さい。
検査当日朝ご飯は抜きで午前中(9~12時)にご来院いただき、お預かり。血液を1ccいただき、夕方(4~7時)にお返しいたします。
食事後8時間以内の検査は不正確な可能性があります。
結果は2週間以内に写真付き報告書を郵送いたします。
きっと、やって良かったと思っていただけると思います。
料金5000円です。秋には画像検査を中心に健康診断を行います。
期間は3月18日(月)~30日(土) 早めにご予約下さい。
←←サンプル、クリックして見て下さい。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
3月の予定
春の健康診断を再開します。対象は全ての健康と思われるワンちゃん猫ちゃんです。
春は血液検査を中心に徹底的に、検便と尿検査を組み合わせていきます(容器を差し上げます)。(秋は画像診断を中心に・・・)
費用1頭5000円です。ご予約ください。
期間:3月18日(月)~30日(土)





三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅹ

2013年02月27日 | 歴史
 三木さんは真のバルカン政治家では無い部分もあります。いわゆる寸止めです。
嗅覚が恐ろしく鋭く、落としどころを最初から決めてから戦い始めます。始めるときは終わり方を考えています。池田さんは戦いながら考えるところがありました。
三木さんは戦いながら上策、中策、下策と決めておいて、下策の下にはみ出そうになると止めます。
日米安保に賛成した岸、池田、佐藤の3派が保守本流と言われ、
反対したのは河野一郎、繋がりのある中曽根さんは科技庁長官で、河野さんの意見を閣議で岸さんに伝え始め「アイクの訪日を中止しましょう」。
河野さんは中曽根さんのチャンネルを使います。安保に関して河野派三木派は岸さんが条件闘争に応じなかったので欠席します。
この人達は後に保守傍流と言われ、大蔵大臣を出せない派閥となっていきます。
官僚連合対党人連合が戦ったのはこの時です。
池田さんが河野さんを徹底的に叩きのめします。そして池田内閣が誕生します。三木さんはあまり党人連合に深入りしません。池田さんとはあまり戦いません。
注目すべきは石橋内閣が潰れた後、三木さんは岸池田佐藤田中4代内閣の中で、池田内閣の時だけ初め反主流派の地位にいながらいつの間にか主流派になっています。
池田さんとは意外と馬が合うようです。だからといって池田さんも三木さん同様リベラルというわけでは無いのが自民党政治です。
池田さんは人事が下手と言われながら岸佐藤対河野三木を上手く天秤にかけながら、いつの間にか三木河野が主流派になっています。
三木さんはいつの間にか内閣No.2の幹事長に座り、「自分の出番は何だ」「財政外交は解らない」「政治改革だ」と吟じます。
 時は飛びますが、日本新党ブームの時、「政治改革だ」といって当選したのは財政外交の解らない人ばかりでした。今の民主党内閣の主要閣僚はみんなその類いです。
野田首相は典型的で政策が解らないので「政治改革だ」を言っていたのです。
 池田内閣時の三木さんはその走りで党近代化案といいます。日本の高度成長達成のお祝いとして1964年の東京オリンピックがあります。
その前年に先進国クラブ、OECDのメンバーになります。池田さんが総裁選で辛くも勝って、佐藤派に三木派が買収されそうになります。
 2派から金を受け取るのは「ニッカ」、3派から受け取るのは「サントリー」と言われました。
そして全派から受け取って誰に入れたか解らないのが「オールドパー」、また「一本釣り」「忍者」「トロール漁法」と言う隠語が横行しました。
政治改革を言いながらこういう選挙になってしまいました。
三木さん自身も派閥の半分を佐藤さんに奪われて胃に穴が空いたというすごい選挙になりました。それでも池田さんに協力したと言うことで幹事長の地位を保ちます。
ところが池田さんが癌になってしまいます。こうなると話し合いで決めるしかありません。落としどころは「東京オリンピックを花道に」。
池田さんの人生の総仕上げとして。オリンピックの仕切りを当たり前のように行います。
これが定石を知っていると言うことです。10月24日に無事閉会式を終えて翌日に池田勇人引退発表となります。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。





大阪出張、うれしいなたのしいな

2013年02月26日 | 旅行
久々に大阪出張
電車旅行は大好きです。

特に近鉄特急は風景が楽しいです。
でも停車時間がシビアで、降りるのに失敗して乗り過ごしてしまいました。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。





三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅸ

2013年02月25日 | 歴史
 岸さんと三木さんは徹底的に対立していました。岸さんの娘婿が安倍晋太郎です。晋太郎さんの息子が晋三さんです。
晋三さんの母方のお祖父さんが岸さんで、父方のお祖父さんは安倍寛といいます。安倍寛と三木武夫は昭和12年同期当選です。
安倍寛は三木さんと非常に仲がよかったのです。三木内閣で晋太郎さんが農水大臣で入閣します。
晋太郎さんから見ると三木さんは義理の父とは仲が悪いが実父とは仲がよいわけです。三木さんはリベラルだと言われますが今で言うリベラルではありません。
リベラルを今のイメージで見てはいけません。こういった血縁の糸が張り巡らされ、政財界官界においてこれが役に立つのです。
時に政敵になってもいざという時にそのチャンネルを使って話をしていくことができます。今の政治は閨閥がありません。
2世じゃ無いと自民党から出られないので民主党から出ます。世襲じゃなくても出られます。一方引きこもりが多くなります。松下政経塾では集まります。
しかしありとあらゆるチャンネルをたどって、一見政敵にしか見えない相手でも誰かを通じて繋がるという意識を持って政治をやっている人がいなくなります。
三木さんは常に反主流なので主流派といつでも話せるチャンネルを複数確保しています。対田中角栄でも同様です。徹底的にはケンカしません。
最後の1歩は取っておきます。55年体制は八百長のイメージが強いですが、それを成立させるにも高度な技術が必要です。
三木さんは死人が出るほどの殺し合いを行っても、自分が殺されるかもと言うときはチャンネルを上手く使います。
岸内閣で三木さんは池田さんとともに辞表を叩きつけます。池田さんは半年後に内閣に戻って安保理に協力します。
一方三木さんは徹底的に反主流派で内閣に楯突き続けます。「日米安保条約というアメリカとの軍事同盟で行く。ソ連とは組まない。共産主義と戦う。
そのため高度成長が必要。まずは軍事安全保障」これが岸さんの考えです。三木さんも安保そのものには反対ではありません。ぎりぎりのところで従います。
これで自民党を分って出ることはしません。楯突く理由は「岸さんのやり方が悪い。話し合ってやるべき、議会政治の原則に従え。
党内合意や国民の合意無くアメリカとの軍事同盟を時の岸内閣が結んだということにされてしまって、日本の安全保障が保てるのか」というわけです。
岸さんにすればそんなことは解っています。でも三木さんはあえて高校の生徒会長のように責め立てます。実はこのきれい事は全て条件闘争です。
三木派は安保闘争に反対し、河野一郎とともに欠席します。タカ派の人も「三木は社会党だ」と言いながら、同じ自民党員なのだからと殺し合いまではしません。
三木さんも社会党のように安保を葬り去るまではしません。やるぞやるぞと見せかけるだけなのです。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。





柴犬ちゃんの脇腹から・・・

2013年02月24日 | 動物病院

お年寄りのワンちゃんの脇腹から液が出ています。細菌を含んでいましたので抗生物質で治療中です。
でも原因が分かりません。咬まれた?怪我?免疫性?腫瘍?
元気もあり食欲も旺盛なので時間をかけて見ています。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~





三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅷ

2013年02月23日 | 歴史
八百長政治を成立させる方法
 「55年体制」ができあがった当初はこれがこんなに長続きするとは誰も思いませんでした。
最初に「55年体制」と言い出した(長続きしていくと気づいた)のは誰でしょう?。三木武吉自身は「自民党がこれで20年持てば良いだろう」と考えていました。
その20年目が正に三木武夫でした。自民党をぶっ壊してしまった本人です。小泉さんは三木さんに学んでとどめを刺しただけです。
「55年体制」とは何でしょう。
自民党は政権にいたいのです。衆議で51%の議席がほしいのです。社会党は片山内閣で地獄を見、それ以来政権担当恐怖症となります。
しかしそれでは選挙を戦えないので憲法改正阻止をいいます。ならば衆議か参議で34%有れば十分です。ここで与党野党の思惑が一致します。
ここで与党+野党第一党で90%の議席を持ってしまう談合が成立するのです。国対政治と言う言葉は正に議会内部における与野党の談合を表しています。
野党第一党が与党に陳情しに行き、条件闘争をやって政治を動かすのです。田中角栄は野党を買収する資金を民主主義の必要経費といいました。
こうなると八百長体制と言っても良いでしょう。民主主義はまともな政党が最低2つは必要なのに野党第一党が救いようのない社会党であったのです。
 これは今の自民党と同じです。今の民主党が自民党化していると言われますが、今の自民党は当時の社会党化しています。
今も昔も本当の意味で罪が重いのは野党第一党です。まともな政党が一つで良いというならファシズムです。
2つめがなければデモクラシーをやる必要がありません。日本における民主主義の不出来は野党の責任が重いのです。
そこが自民党谷垣総裁を徹底批判しなければいけない理由です。
 「55年体制」を言い出したのは政治学者の升味準之輔です。日本政党資料全7巻、日本政治史全4巻、これらは戦後政治の基礎となる著作です。
マルクス史観で特殊用語だらけで現実と乖離した政治史を「政治は人間関係から始まる」という事実を資料に基づいて再現されています。
「階級」という言葉が出ないと学問として認められなかった時代に、事実に基づいて分析しようという学問を打ち立てた著作です。
 「55年体制」で常に自民党が与党になっていきます。自民党の総裁になれば必ず総理大臣になれるのです。
戦前は2大政党制なのでいい加減な総裁選びをしたら選挙で負けてしまいます。日本社会党という絶対負けないダメ政党が野党第一党を占めてくれるのです。
しかも自民党からお金をもらって喜んでいます。ほぼ民主主義がありません。その中で自民党総裁選が大きな比重を占めるようになります。
総裁選は派閥金権政治の歴史です。第1回総裁選は岸信介、石橋湛山、石井光二郎で争われました。
岸さん圧倒的本命だったのが自民党の中で反主流派の旧自由党系池田勇人と旧民主党系三木武夫が組んで石橋湛山を総裁に据えたのです。7票差の大逆転でした。
多くのお金と、大臣ポストをばらまきました。金権政治であっても公職選挙法適応外なのでなんでもありです。
国会の首班指名選挙とか衆議院の総選挙以上に自民党の総裁選挙が政治決定の儀式になっていきました。これが「55年体制」の本質なのです。
これがいつ滅びたかというのは諸説有ります。国会は自社八百長体制です。国民は自民党にどんなに不満でも社会党を選ぶわけにはいきません。
国民の中で常に社会党を選ぶ人は20%、多くて30%です。本人はマジョリティーを取る気もありません。今の谷垣さんのようです。
 池田大蔵大臣、三木武夫幹事長の元で石橋総理総裁成立します。だがしかし総裁選挙時の全国遊説のせいで体を壊して2ヶ月で退陣します。
石橋さんは昭和6年の記者時代、浜口雄幸総理が入院して議会に出られないため、「なら総理を辞めろ」という社説を書いた人です。
「その時の読者を裏切るわけにはいかない」「権力に恋々としたくない」と語っています。
肺炎は医者に治ると言われたにもかかわらず、「国政の空白を作るわけにはいかない」。これを仕切ったのは三木さんでした。
安倍内閣退陣のことを考えると当時の三木さんは極当たり前のことをやっていたのです。
次の岸さんは日米安保に政治生命を賭け、三木さんは常に反主流派の立場から攻撃していました。
でも三木さんは社会党のような立場で反対していたわけではありません。反主流派の立場で、どう条件闘争をしていくかを常に模索していたのです。
国民は貧しかったが、明日は必ず今日より良くなる雰囲気がありました。当時皇太子殿下のご成婚、最後はオリンピックです。常に安心感がありました。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。




イチゴお土産ありがとうございました

2013年02月22日 | 動物病院

ご旅行のお土産をいただきました。
何と芳しいこと。
いただくのがもったいない…なんて言っていたら
香りだけいただいている内に、全てスタッフに食べられてしまいました。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。




三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅶ

2013年02月21日 | 歴史
 三木武吉の上に帽子の如く乗っていたのが鳩山一郎です。
鳩山さんは吉田さんとケンカして自由党を出て、お金が無くなると吉田に騙されまた戻るというどうしようもない人で語るべき価値はありません。
鳩山さんのわがままを調整しながらシナリオを書いていたのが三木武吉でした。彼が考えていたのは野党第一党の改進党を抱き込むことです。
与党自由党からいかに鳩山派を引き連れて政界再編に持ち込むか。野党第一党も主流派と反主流派に分かれていました。
主流派重光葵は、駐英大使を経た外交官で外務省のエースを経て、戦前外務大臣やりながら、ご都合主義により小説吉田学校では党人派の代表にされています。
戦前は駐英大使は外務大臣と同格の重要ポストでした。
重光さんの元に東条英機の側近だった大麻唯男がくっついていて、三木武夫は幹事長として戦前派で後に大売国奴として非難される松村健三と組みます。
松村さんと三木武吉は大変仲がよいのです。三木武夫は当時からクリーンな政治というポーズを崩さず「金権政治打破」「平和主義」「戦時中の圧政を忘れるな」です。
三木武吉の憲法改定自主憲法とはそりが合いません。
何よりも三木武吉は公職追放で冷や飯組、三木武夫は当選3回の時から政界中枢にのし上がっていった占領期おいしい思い組、そりが合うわけがありません。
なかなか組むことができません。吉田茂という人はやけくそになって半年間に2回も解散するデタラメ政治ぶりをさらします。
ここで強くまとめられる人がいたらとっくに吉田政権は潰れていたでしょう。ところが周りが目立ちたがり屋揃いで「俺が俺が!」。
吉田さんは各個撃破、その都度騙して政権を維持していきます。嘘しか言わない、約束なんて無いが同然です。
野党改進党80人中、重光さんは10人の小派閥にもかかわらず党首です。三木武夫は松村さんと組んでも15~20人派閥で幹事長です。
その他大勢は中間派という状況。野党の中でのつばぜり合いを延々続けていきます。与党もダメだが野党はもっとダメです。
占領期は昭和29年まで、結局昭和20年代は保守2大政党がぐでんぐでんのつぶし合いの末、芦田均は刑務所送りになるような中で、
勝つのは社会党が付いた方というデタラメぶりでした。現在においても社会党を公明党に入れ替えたら意味が通ってしまいます。
当時社会党は左派と右派に分かれていました。保守2大政党に分かれたときに一致団結してどっちかに付きます。吉田内閣が潰れるときがそうでした。
自由党を追い出された鳩山さん、三木武吉と、重光さん、三木武夫の改進党が一つになって日本民主党ができます。鳩山内閣成立です。
その時の社会党は首班指名で鳩山一郎に投票します。議長選挙で三木武吉を落として自由党に入れます。こういった嫌がらせをしたのです。
こういうところだけ左右両派一致して行動します。こんなでたらめなことを続けていてはダメだと三木武吉は保守合同、自由民主党を結成します。
鳩山さんは総理を3日やれば満足する人だったので、三木武吉は鳩山内閣潰しても良いから一緒になろうと頼み込みました。
三木武吉のすごいところは本当の目的自主憲法制定のためには手段を選びません。正しい意味で、結果のためには手段を選びません。
そのためには鳩山内閣なんか明日潰れてもかまいません。自民党結成時はお互い名前にこだわりません。「礼儀として」鳩山内閣はいったん総辞職します。
ここまでやって合同するのです。
三木武吉の路線に徹底的に反対したのが民主党の中では三木武夫運輸大臣、自由党の中では池田勇人、佐藤栄作です。
池田佐藤からしたら「三木武夫のようなきれい事ばかりの若造と組めるか」です。佐藤さんはそれで最初は自民党に入りませんでした。
三木武夫は「池田佐藤のような吉田側近の官僚政治が戦後の日本をダメにしたんだ」です。お互い組めません。三木武吉が押さえ込みながら自民党にしました。
これが55年体制の始まりです。自民党ができたときに三木武吉は民主党の代表として、自由党代表の大野伴睦と組んで自民党の中枢となります。
三木武夫と池田勇人はそれぞれ反主流です。
そこで三木さんと池田さんのすごいのは、昨日まで「あいつとは絶対組めない」と言いながら自民党ができてしまったらこの二人が接近します。
昨日の敵は今日の友です。橋下さんが散々ツイッターで悪口言った翌日に握手できるでしょうか。相手が許してくれるでしょうか。
ポピュリスト橋下の真価は今後問われることでしょう。池田さんと三木さんは利害関係だけで手を組めるのです。
橋下さんも絶対利害関係でしか動かない人ならば、あいつが好きだとか嫌いとか言う感情は持ち込まないはずです。
本当に100%利害でしか動かない人間は血迷うことが無いので信頼できるのです。
三木武夫が批判されるのは「バスが動くことには反対するが、いざバスが動いたときは運転席に座っている」ということです。
この時のエピソードがこの批判の対象となっています。三木武夫48歳の時です。
その後、池田さんと三木さんは組んで石橋内閣、石橋さんが病気になって2ヶ月で潰れます。
岸、池田、佐藤、田中の4代の内閣で、三木さんは内閣ができたときと終わったときで主流、反主流が同じだったことが一度もありません。
4代の内閣で3回辞表を叩きつけています。池田内閣だけ最初は反主流で後に主流派となりました。
岸、佐藤、田中では自分が内閣を作る主流派にいながら内閣を潰すために辞表を叩きつけて反主流となります。
閣僚経験が多く、通産、外務、環境庁、科技庁、経済企画庁長官…。しかし大蔵省には彼を大蔵大臣にだけはさせないという意思がありました。
党人派と言われながらも大臣経験が豊富なため三木さんは役所の経験は長いのです。
その都度条件闘争して大臣経験を重ね、池田と三木が組んで石橋内閣を作ります。この時反主流派から主流派になるモデルケースを作りました。
三木さんが発案し、池田さんが同調して石橋さんを全国遊説させます。最近で言えば麻生さんの例です。鳩山一郎も野党の時にやっています。
つまり、反主流になってポストが無くなったら全国遊説をするのです。国民に直接声で訴えかけ、夜は地元の有力者を支援者に誘います。
石橋湛山は10人もいない小派閥です。岸信介という大実力者に勝てるはずがありません。2位の立場から決戦投票で3位の石井光二郎票をかき集め、7票差で大逆転します。
池田さんが大蔵、三木さんが幹事長、官房長官石田博英が参謀役でした。
この石田さんが5人に通産大臣、7人に農水など60人ほどのポスト条件を乱発し、駆け引きに使います。
石橋内閣はこういった政治取引に注目が集まりますが、最大の特徴はその前の全国遊説にあります。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。




女性宮家創設と信長

2013年02月20日 | 動物病院
チャンネル桜討論会 倉山満氏の発言より書き起こし

 女性宮家問題は京大教授今谷明が潰してくれました。今谷先生は足利義満の研究者で、天皇家をどうやったら乗っ取れるかに関してして最も知っている人です。
彼は女性宮家創設賛成論の立場に立ったのです。櫻井よしこ、百地章が反対なのは当然です。政府が呼んだ田原総一郎は「戦後民主主義だ」「男女平等」「憲法の理念だ」とはしゃいで当然賛成でした。
 今谷先生は「先例に基づいて女性宮はかまわない。その配偶者を准皇族にするのはかまわない。でも准であって、皇族では無い。
       殿下と呼ぶのは良いけれど、豊臣秀吉だって太閤殿下。皇族と臣民は違うものである」、さらに「民間人の間に生まれた子供は皇族になれない」。
これで野田さんと女性宮家賛成派はやる気をなくしてしまいました。女帝を通じて女系に繋がることを画策した人達は何もできなくなってしまったのです。
皇室の問題は先例の積み重ねです。女系は「先例がない」の一言で切れる話で、それを言わせなかったのは誰なのでしょうか。敵と味方のふりをした敵は明らかです。
義満はひたすら40年間先例を積み重ねて天皇家に肉薄した人物です。織田信長は皇帝にはなれたかもしれません。皇室を物理的に廃止することはできたでしょう。
しかし乗っ取ったり廃止してしまっても連綿と続いた皇統と一体にはなれません。天皇の名前を名乗っても別物です。先例に則らない限りはできないのです。
信長にはとても無理です。
 生まれたときから将軍だった足利義満、彼は戦争に負けたことの無いカリスマです。京都に敵を引き入れて勝った唯一の人物です。
信長は負けても負けても挫けないからすごい人と言う評価なのです。あれだけ負けたらカリスマにはなれません。信長は何故仏教徒を弾圧したのでしょうか。
仏教教団が世俗に介入してやりたい放題やられたことと、彼自身熱心な神道主義者だったことが大きいでしょう。
司馬遼太郎の信長像が戦後広がってしまいました。しかし信長が英雄になったのは戦後です。昭和20年まで武田信玄上杉謙信より信長を格上とする人はいません。
秀吉家康に比べたら扱いは遙か下です。秀吉が戦前の最大の英雄でした。立身出世と朝鮮出兵をやったからです。福沢諭吉の思想は一言で言えば「秀吉偉い」です。
信長を褒めるのは中世史家の田中義成と徳富蘇峰くらいでした。ところが戦後になると司馬遼太郎の前にGHQが信長に目を付けます。
GHQは英雄を求める日本人にとって大変都合の良い人物として信長を選びました。秀吉は朝鮮出兵をやったので英雄にできません。
外国人を一人も殺していない信長を英雄にできる土壌がここにあったのです。
司馬遼太郎の作った架空の人物像で英雄に仕立てること自体が戦後レジュームであったのです。
秀吉家康は水攻めにして大将が責任取ったら後は許すのに、何故信長は皆殺しにしたのでしょうか。日本人らしくない感じがします。
渡辺昇一氏によれば、「信長はクロムウエルのような啓蒙主義者なのだ」。
つまり一向宗、キリシタンにしろ、政治に介入しない限り全て許します。しかし少しでも介入したら場合は逆に情け容赦なく殲滅するというわけです。
イギリスの自由平等博愛の流れとよく似ているのです
 義満は皇室に肉薄しましたが信長は擦りもしなかったことで信長は戦後民主主義の英雄となっていきます。
「信長は戦後民主主義の価値観だ」こう言い切った今谷先生はその後、歴史系学会で嫌われてしまいました。

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営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
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三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅵ

2013年02月19日 | 歴史
グデングデン政治の乗り切り方
 関西電力大飯原子力発電所の再稼働に関して、大阪の橋下市長は「この夏の節電には限界がある」と敗北宣言をしました。
まさに正しいポピュリストの真骨頂です。さすが橋下さんです。最近の政治家にはない卑怯未練ぶりを見せていただきました。人をきちんと裏切れる政治家です。
これはけして貶めているのではなく、自分の支持者向けに反原発の拳を振り上げ徹底抗戦し、最後の一歩で踏み留まり引き上げたのです。
三木さんや中曽根さんの絶頂期を思い起こすような条件闘争で自分のポーズを決めました。
もし留まらずに反原発のままで行ってたら破滅していました。間違いなく関西地方は大変なことになっていたでしょう。
「明日原発を止める」、「10年後に止める」、どちらにせよ原発を解体しないと全廃にはならないのでこの二つを比べる意味はありません。
橋下さんは引き際を心得ていたということでしょう。
 40日抗争という大平さんが命を落とした戦いの時、自民党から大平さんと福田さんの二人が首班指名に立つというでたらめな事態が起きました。
三木さんの力が引退状態になっていた事と、中曽根さんが中堅若手でまだ力不足だったこともあり、
引き際を心得ない人達の暴走が起こしたみっともないできごとでした。最後は大平さんの死という悲劇となりました。
それに比べると橋下さんは大変上手に動いたとみるべきです。ポピュリストというのは煽るだけ煽ってぎりぎり一歩手前で踏みとどまる事が大事なのです。
彼は政治家としてはともかく、政争屋としては当事者能力があるようです。
「なーんだ、橋下さんも言うだけじゃないか」と評判を落としたと言う見方もありますが、一歩前で留まることによってそれを最小限に留めたと見るべきです。
政策と政局は不離一体なものなのです。こういった政局が解った動きができないと政策などできやしません。
やっていることはデタラメですが評判を落とさないで済むやり方ができる人が橋下さんです。
こういったポピュリストである橋下さんや小泉さんの元祖が三木武夫なのです。
 サ条約締結の時、三木さんは徹底的に講和条約も安保も反対でした。
野党第一党の幹事長としてあおりに煽って当時自由党幹事長増田甲子七が必死になって三木さんに頭を下げ「野党第一党も賛成派に入ってくれ」と懇願します。
三木さんは吉田茂を土下座させてぎりぎりで乗ります。これは橋下さんと同じ手法です。
橋下さんも野田さんに土下座させて「原発問題は屈しました」と引いて見せます。彼は現代ではポピュリストといえますが、当時の三木さんに比べたらまだまだです。
吉田さんはサ条約で独立を回復します。占領軍に公職追放されていた連中が政界復帰してきます。筆頭が鳩山一郎です。これがまた希代のポピュリストです。
戦前は腐敗した政党政治の象徴でした。いつの間にか自由主義の代表とされてしまった人物です。とにかく政敵の反対のことを言うのが鳩の遺伝子のようです。
吉田鳩山抗争というと人気小説吉田学校のメインテーマですが、吉田茂がワンマンで大変強い指導力があったというイメージは間違っています。
吉田さんは誰かの側近になっていないと権力を振るえない人でした。
戦前戦中は大久保利通の次男の牧野伸顕という内大臣(元老に次ぐ地位)がいて、吉田さんは牧野さんの側近でした。その引きで外務省に入省します。
牧野さんの意向に沿って外務大臣に出世していきました。
戦後はマッカーサーの下で民政局のケージス、ホイットニーなどと徹底的に対立した「my pet fascist」と呼ばれた情報参謀ウイロビーがいました。
吉田さんの絶頂期はウイロビーの下にいたときに占領地の首相として権力をふるった時でした。サ条約を結んだ後は吉田さんは何の存在価値もありません。
吉田さんはレイムダックになっていました。しかし相手が弱すぎました。ライバル筆頭は鳩山一郎で、吉田さんよりさらに弱いのです。
まさにぐでんぐでんの政治状況でした。こうしてだらだらと政権が続きます。今だけで無く当時からこの有様だったのです。
吉田学校を形成して官僚出身の佐藤栄作、池田勇人等の政策通の政治家を育てたと言う一面もあります。
しかし一方で岡崎勝夫、大橋武夫など吉田学校に無視された人たち、言い換えれば後に出世しなかった面々の方がずっと優秀だったのです。
佐藤栄作、田中角栄は政権とってからは吉田さんがやりたかったことの逆のことしかやっていません。
この吉田さんを倒したのが三木武吉、小説吉田学校の作者戸川伊佐武が徹底的に美化した人です。
三木武吉は最終的に吉田さんを倒したので自民党の生みの親といわれます。たいへんな権謀術数家です。
一度も大臣にならずに自民党総裁総理大臣よりも偉いと言われた三木武吉と比喩されることが、総理を目指していない政治家にとって最高の名誉であるとされます。
青木幹男、金丸信などがその対象でしょう。三木武吉は立ち会い演説会で「4人の妾がいる男」と揶揄されて、「それは違う、5人だ」と言い返したそうです。
三木武吉は民政党以来何一つ成功していない人物でもあります。何故成功しないのでしょう。
予算に対して何も資料を持たずに質問ができると言うほどの大蔵族で、元大蔵政務官です。何故吉田茂を目の敵にしたのでしょう。
自民党を作るのはも目的では無く手段だったのです。保守合同という、とにかく社会党を倒せる強い保守政党を作らなければいけないと考えました。
目的は「自主憲法制定」なのです。憲法改正では無くて「自主憲法制定」です。ところがそこで担ぎ出したのが何故か鳩山一郎。これが謎です。
鳩山さんはすぐ人を裏切るし、すぐ泣き出すし、すぐすねる。
こんな人ですら三木が担いだら総理にできるほどの力量あるという功名心でもあったのでしょうか。
三木武吉は嘘と権謀術数によって吉田茂を3年間揺さぶり続け、最終的に「自主憲法制定」しようとして自民党を作ったところで癌で倒れます。
最大限機会主義者(オポチュニスト)を装った原理主義者(ファンダメンタリスト)が三木武吉でありました。
この三木武吉と張り合う位置にいたのが若き日の三木武夫です。
この三木さんは逆に最大限原理主義者(ファンダメンタリスト)を装った機会主義者(オポチュニスト)でした。
この二人の三木さんは、反吉田勢力がまとまらずに仲良くできません。
香川の武吉、徳島の武夫は隣村の出身のような関係ですが親類ではありません。実は同じ戦前の民政党の流れです。

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Mダックスさん、歯石除去、抜歯

2013年02月18日 | 動物病院

アンドロイドタブレットでタイマー表示。これ便利ですよ。見やすくて。

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三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅴ

2013年02月17日 | 歴史
 三木さんはずっと野党でしたが、国民民主党と農民協同党が合併し、離合集散後、改進党、吉田内閣末期の野党第一党になります。
ここで幹事長の座を離しません。
大麻唯男(戦前からの党人政治家で、翼賛政治の時、東条最側近で暗躍した人物)と40代の三木さんはまともに野党第一党の幹事長として常に戦いを繰り広げました。
三木さんの下にいた若い頃の中曽根康弘はその時の三木さんのあまりのえげつない戦いぶりに「あんな酷い人について行けない」と逃げ出してしまいました。
具体的に何をやったのかは定かではありません。
大麻さんに対抗するため同じ民政党系の松村健三(公職復帰した後、日中記者協定を結んできた人物)を看板に立てて、
自分は幹事長として実権を握り、野党の中の主導権を渡しません。日本はサンフランシスコ講和条約で独立を回復します。
社会党はもちろん反対です。安保条約も反対です。でもサ条約の対応を巡って社会党左右分裂します。
では野党第一党の改進党はどうするのでしょうか。与党吉田自由党だけで講和をやるのでしょうか。
この時、表に出てくるのが改進党幹事長三木さんです。三木さんは「協力してやる。国会を開け、野党に対して説明せよ、そうすれば全権団に参加してやる」
「そんな時間が無い?、じゃあ吉田茂を引きずり出せ」、
吉田さん土下座して「協力お願いします」、
三木さん「いやいや、日本のためです、総理頭を上げてください」と浪花節。
これで吉田さんは一党の意思でサ条約を結んだのでは無く、野党第一党の協力も得て、国際社会に対してほぼ挙国一致を演出することができました。
「万が一政権交代したからといってこの意思は変わりませんよ」と世界に示せたのです。
三木さんは国益を賭けた話でも徹底的に政争の具にしてしまいます。しかも水際で一歩止めるのです。
吉田茂という70超えるおじいさんに土下座させてさっと引きます。これが昭和26年のことです。昭和27年4月28日にサ条約発効、公職追放の人々が帰ってきます。
鳩山一郎がここで登場します。ここから戸川伊佐武の小説吉田学校は官僚派対党人派の対決として描いていきます。
しかしこれはフィクションで、どちらにも官僚と党人が入り交じっているのが実態でした。吉田さんに対抗した改進党総裁重光葵、戦前は外務省のエースです。
しかし小説では党人派の扱いをされています。実は単純に吉田派対鳩山派という構図なのです。
この対立の深刻な点は占領期利得者対占領期怨念派(公職追放)の対決なのです。
三木さんは占領期においしい思いをしながら怨念派と一緒になっているというのも面白い所です。

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お年寄りシェルティーさん、足に傷?

2013年02月16日 | 動物病院


前足先の内側、親指の付け根あたりに脱毛と紅斑が見られます。しかも左右対称に。
おそらくハイグローマの類いだろうと考えています。
この仔は変性性の関節炎が多数あり、各関節の可動域が相当狭くなっていることが原因ではないかな。
床の材質を工夫する提案を差し上げました。
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三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅳ

2013年02月15日 | 歴史
小が大をふり回す方法

 当選2回目、昭和17年に有名な大政翼賛会を東条内閣が作ります。
ほとんど全ての議員をそこに入れ推薦候補としてお金も出す、組織も応援します。内務省が組織立って警察を上げて応援します。一方非推薦候補は徹底弾圧します。
翼賛政治といえば恐怖政治の代名詞です。これは間違いではありません。
この時三木さんは当選1回目の代議士です。非推薦で戦ったので戦後公職追放をされませんでした。三木さんは「東条軍閥政治と戦った」と常に言います。
戦後いきなり当選2回でのし上がっていきました。苦しい選挙を勝ち残ると道が開けるという究極の例でしょう。
この時、明治雄弁会の先輩大野伴睦さんは落選しています。鳩山一郎、芦田均など後に首相になるような人は非推薦でも当選しています。
そんな人は460人中20人ほどです。圧倒的多数は推薦候補です。なぜ三木さんが推薦されなかったのでしょう。
特にリベラル思考の持ち主だったわけでは全然ありません。もっと当選しそうな人を立てようというのが内務省の判断だっただけです。
三木さんは「何で俺みたいな愛国政治家を推薦しないんだ」と怒って、軍需省などにすり寄ってみます。
三木さんは森財閥の利益代表なので権力のあるところには族議員のようにすり寄ります。翼賛会は三木という姓の候補を他に2名立てます。
徳島選挙区には3名の三木が立候補することになるのです。結果、三木武夫ともう一人の三木さんが当選し、戦後も徳島の県政を巡って2人で争うことになります。
とにかく苦しい選挙を内務省と戦いながら勝ち抜きました。
単に弾圧と戦っただけでは無く、あの手この手を使って内務省に働きかけて、
「うちの選挙参謀が取り調べが苦しくて死んでしまったんだけどどうしてくれる!」など、表では権力と戦います。
人の見えないところでは厳しい状況を逆手にとって手を回します。
金子堅太郎という枢密院の大物と、若手代議士のころから「日米戦うべからず論」で一致してかわいがられたりもしています。
また、翼賛選挙の時右翼の超大物、頭山満の支援を得ていたりもしています。
「頭山翁が支援している俺がなんで非愛国なんだ」といいながら「この戦争は間違っている」。
ただし、監視が厳しいと手を緩めます。絶妙な臭覚、場の空気を読んでどこまで行けるのか、どこから手を引くのかの勝負感です。
この嗅覚こそがバルカン政治家の原型なのです。それは戦いの中で培われた物でありましょう。
当選後は議会の中で派手に戦うわけではなく、付かず離れず距離を保ちます。
戦時中は昭和20年になって「岸信介新党」という意味不明な企みをやります。「ヤツは何をやっているんだ」というのが岸さんの三木不信の原点となります。
岸さんは東条内閣の首切り役人を買って出たような人です。その岸さんを担いで岸新党を作ろうというのです。
しかし、今となっては戦時中のことを正確に知っている人は少なくなりました。資料もろくに残っていません。
みんな後ろめたいことがあるため語りたがらないのも致し方ありません。そういった中で昭和17年の翼賛選挙が行われます。
三木さんは非推薦で、内務省特高警察の弾圧をかいくぐりながら、三木さんの選挙参謀が過労死するほどの状況でも立ち上がりました。
「東条軍閥政治と私以上に戦った人がいますか!」とアピールすれば戦後は鬼に金棒です。ここにピンチを将来の武器に変える強さを見ます。
小泉選挙でも苦しい選挙を乗り越えた人は強いのです。全ての政党が戦時中解散していたものが、戦後雨後の竹の子のように復活します。共産党まで合法化されます。
この時代の政党は院内会派といえるようなもので、5人の選挙区に20人も立候補するような一発逆転成り上がりを狙っている人が跋扈する時代です。
政党作って「誰が党首になるの?」、「う~んじゃあ政党資金先に作った方が党首ね」といった具合です。戦後最初の選挙で三木武夫は当選3回目になります。
吉田茂内閣から片山哲に代わる昭和22年春、三木さんは国民協同党28人の代表となります。
この党からして国民党と協同党の合併政党です。
三木さんは戦後2年で、たった一人の無所属議員から合併を繰り返しながら14人から28人に選挙で倍増する政党の党首です。
片山社会党、芦田民主、三木国民協同の3党連立内閣を作ります。これが三木派の原型となります。
この時に三晃汽船の河本さん(国民協同党のスポンサーにして番頭筆頭格)も入閣します。
社会党書記長の西尾末広(非常に良識的な社会主義者で、後に民社党を作る)が選挙の結果が出た直後に
「大変だ三木君、我が党が第一党になっちゃったよ。政権の準備なんてできてないのに吉田君を抜いてしまったどうしよう」。
三木さんは「大丈夫です私が付いてますから」。当選3回齢40才の時です。3党連立の党首とはいえ、政治歴がたかだか10年です。
内閣最前列にはまだ並べません。ことある毎に片山芦田に3党首会合を申し入れ、総理大臣格の人と対等であるかのようなイメージを振りまきます。
中曽根さん、田中角栄も昭和22年に登場しますがまだまだ1年生議員です。三木さんはたった28人で400人を振り回していきます。
もし大政党の中で下層にいたら所詮当選3回です。小なりと言えども党首です。しかも3党なので重みも大きいのです。片山内閣で逓信大臣、後の郵政大臣に就任します。
しかし所詮はっきりいって素人政権です。常に内紛が絶えず片山内閣は8ヶ月で退陣となります。
吉田茂、野党第一党自由党党首は「憲政の常道に従って我が党に政権を返せ、そして総選挙でもう一回勝負しよう」とアピールします。
当時吉田さんを嫌っていたはGHQ主流派のケージス(親ソ連派)は芦田均に政権を回します。この時代の政争はとことん相手を抹殺するまで行われます。
芦田均昭電疑惑が発生します。芦田さんは失脚逮捕されます。
昭電工は三木さんのスポンサーでしたがそれを乗っ取った人達が起こした疑獄事件なので三木さんは「私は被害者です」とクリーンな立場を強調します。
若くて清潔でクリーンを維持します。福田赳夫さんは主計局長でこの事件により逮捕されました。
三木さん当選3回で周りがどんどん逮捕されていくような渦中にいます。
この後、三木さんは、近衛文麿、伊藤博文を抜いて史上最年少の総理になるチャンスがあったのです。
昭和23年、結果的には野党の吉田茂に政権は移りました。「小説吉田学校」では1年生議員の田中角栄大活躍というフィクションが始まります。
重要なのは、ここで三木武夫が「うん」といっていれば史上最年少の総理が誕生したという事実です。
マッカーサーが2回も三木さんを呼び出して、「今の連立与党の枠組みで帝国憲法で違憲ではないのだから28人の党首とはいえ、おまえがやれ」
「数の力なんて俺が何とかしてやる」。
当時マッカーサーに逆らったらよくて社会的抹殺、公職追放です。
石橋湛山はマックの意に沿わない経済政策のおかげで、あれほどの自由主義信仰者が軍国主義のレッテル貼られ公職追放されました。
最近明らかになっているキャノン機関などの暗殺事件も多発と言う時代です。神より偉いマッカーサーです。
ところが齢41才の三木さん「アメリカにデモクラシーがあるなら日本には憲政の常道がある」
「他人が命令して総理大臣やれと数の力を無理矢理権力で作って内閣を組織する伝統は我が国にはない!」と断ったのです。三木さん命がけの大勝負です。
三木さんのような正真正銘の権力亡者でさえも、「戦争に勝ったくらいで日本人に物を教えてやるなど偉そうなことぬかすな!」と喝破したのです。
これが大正リベラリズムの成果です。正に憲政の常道であります。あえて茨の道を歩むのです。
田中角栄の側近、田村元さん(田中さんのピンチを救って政治生命を10年伸ばした男)は語っています。
「三木さんは常に我々の敵だった。しかし彼は常に茨の道を歩んだ」。敵であっても認めていたのです。三木さんは野党になるのを怖がらなかったのです。
その後、田村さんは同様な状況で総理になった三木さんの一番弟子の海部さんを、「天ぷらの匂いにつられる人だ」とも語っています。
三木さんは野党、反主流派になることを恐れません。その後本当に総理になれたのは昭和49年のことです。
26年間常に少数派で、大政党、大派閥相手に切った張ったを繰り返していきます。
そんな三木さん相手に大蔵出身の福田さんや大平さんがかなうわけがありません。田中さんはそれが解っているので真正面から戦おうとしませんでした。
三木さんは「マックの言いなりに総理になったって自分の人生はそこで終わりだ」と考えたのです。
海部さんは総理辞めた後はみっともない人生になってしまいました。権力を長く握るにはあえてこの道を選んだのです。とにかくたくましい男です。
その後吉田茂に政権が移ります。7年それが続きます。その間、三木さんは徹底して反吉田を貫きます。
吉田さんは官僚主義、貴族主義、大臣病患者を大量発生させ、顔も名前も知らないような人を大臣にして責任取りません。
吉田さんは小泉さんどころではない丸投げでした。
小泉さんは閣僚の顔と名前は一致していましたが、吉田さんは自分が任命した大臣に面と向かって「誰だおまえ」とつぶやきます。
政策に興味すらありませんでした。戦前は政党の大幹部クラス、あるいは官僚で事務次官になってその中で優秀な人が大臣になりました。
それを当選回数重ねれば大臣というシステムを作ったのが吉田さんです。政策は官僚に丸投げです。政治家は大臣のポストで飼い慣らしておきます。
いざとなったら解散総選挙に持ち込んで教育し直せば良いと考えます。
まだ当選回数の少ない有力官僚OBである池田勇人、佐藤栄作を登用したというイメージがありますが、それは吉田さんの例外的な行為です。
時々1年生を幹事長に任命しようとしますがこれは吉田さんの趣味なのです。あいつ好きというレベルです。
また吉田さんは大変おおざっぱな人で、今自分の関心のあるところだけに口を出します。大蔵大臣池田さん、大蔵大臣だけは動かしたくありません。
外務大臣は自分が兼任したい。こういう所は非常に関心があります。その時、幹事長には全く興味があありませんので、「そっちで決めて」。
それは吉田さんの権力維持には良かったと思いますが、今の政党政治の腐敗に繋がってしまいました。

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シェルティーさん、上腕骨骨折プレーティング手術

2013年02月14日 | 動物病院





時間がかかりました。3時間半くらい。でもワンちゃんはとても元気です。麻酔後すぐに起きようとします。やはりフェンタニールってすごいなあ。
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