以前
記事にした、竹内浩三さんの作品集『日本が見えない』をやっと読み終えた。年とともに読む速さも読みこなす力も衰えたとつくづく感じる。
竹内さんは軍事教練が苦手で、最も
兵隊さんが似合わない性格をしていた。
それでも否応なく戦争に行って、終戦の年、1945年4月9日フィリピンで戦死した。23歳だった。
応召した部隊で書いた日記が残っている。
なんか、のどかで明るい。でも、切ない。
23歳になったばかりの6月19日の日記はこうだ。
本部のうらに将校集会所ができて、その庭つくりの仕役に出た。
谷田孫平がその静かな眼をいきいきさせて云うのである。
満期したら、北海道で百姓をするんだ。牛を飼うんだ。毎朝牛乳を飲むんだ。チーズやす乳を醸(つく)るんだ。パンを焼くんだ。ジャムをつくるんだ。キャベツやトマトも植えるんだ。ひろいみどりの牧場を見ながら、サラダを食べるんだ。
谷田孫平に、敵のたまがあたらぬよう、
この楽しい夢が戦死しないよう祈りたい。
おれは、こうなんだ。やりたいことがいろいろあるんだ。
その一つ。志摩のナキリの小学校で先生をする。花を植え、音楽を聴き、静かに詩を書き、子どもと遊ぶ。
これがおれとして、一番消極的な生き方だ。たまに町に出て、映画など見る。すると、学校の友だちが、その映画で、華々しく動いている。みじめな道を選んだものだ。そう考えて、じぶんを淋しく思うようなことはなかろうか、それをおそれる。
も一つ。南方へ行くんだ。軍属になって、文化工作に自分の力一ぱい仕事をするんだ。志摩のナキリでくすぶっているよりは、国のためにいいことだと思う。おれだって、人に負けないだけ、国のためにつくすすべはもっている。自分にあった仕事をあたえられたら、死ぬるともそれをやるよ。でも、キカン銃かついでたたかって死ぬると云うのは、なさけない気がするんだ。こんなときだから、そんなゼイタクもゆるされないかもしれぬ。自分にあたえられた仕事が、自分にむいていようがいなかろうが、それを、力一ぱいやるべきかもしれぬ。しかし、おれはなさけないんだ。
孫さん、お前おれの気持わかるかな。
長いけれどそのまま(漢字づかいなども)引用してしまった。
彼が戦地フィリピンに渡る直前、郷里に送ったという、戦死して骨となって故郷に帰るという詩、
骨のうたうよりも彼の気持ちが分りやすかったからだ。
戦争では肉体はもちろん、夢も戦死してしまう。