永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(51)

2015年07月15日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (51) 2015.7.15

「このごろは四月。祭り見に出でたれば、かの所にも出でたりけり。さなめりと見て、むかひに立ちぬ。待つほどのさうざうしければ、橘の実などあるに、葵をかけて、
<葵とかきけどもよそに橘の>
と言ひやる。やや久しうありて、
<君がつらさを今日こそは見れ>
とぞある。『にくかるべきものにては年経ぬるを、など「今日」とのみ言ひたらん』と言ふ人もあり。帰りて『さありし』など語れば、『「食ひつぶしつべき心地こそすれ」とや言はざりし』とて、いとをかしと思ひけり。」
◆◆そのころは四月。賀茂の祭り見物に出かけますと、あの人(時姫)も来ていました。そうらしいと見定めて車を向いに停めました。祭りの車が通るまで手持ち無沙汰だったので、枝付きの橘の実に葵を絡ませて、
(道綱母の歌)「今日は葵(あふひ=逢う日)の祭りですのに、あなたは知らん顔でお立ちですね。(「橘」に「立ち」をひびかす)」
と、書いて持たせますと、ややあって、
(時姫の歌)「今日こそ、あなたの薄情さを知りましたよ」
とありました。「道綱母を長年憎む相手として過ごしてきましたのに、どうして『今日はじめて』などとおっしゃるのでしょう」と言う侍女もいました。帰宅してからあの人に「今日、こんなことがありました」などと話しますと、「『食いつぶしてやりたい気持ちですこと』とでも言わなかったのかい」などと言って、大いに面白がってしました。◆◆


■作者は兼家の病気以来、兼家との親密さに自信を持ち、時姫(正室)に正面から立ち向かっている。歌にも自信、自負があり、先手を取って文を遣わした。

■このあたりの文章が後の「源氏物語」の葵祭りの車争いのヒントになっている、との説あり。

■兼家は、この頃にあたっては、(康保4年(967年)、冷泉天皇の即位に伴い、同母兄兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙される。安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。)宮中では兄の兼通を越えて昇進中であり、順風の時期。そしてかなりの策略家。
ここでは、時姫と作者を両手の花として、男としての自信が見える。

■兼家の五男に「藤原道長」がいる。母は時姫。