蜻蛉日記 上巻 (53)2015.7.20
「かくて人にくからぬさまにて、十といひて一つ二つの年は余りにけり。されど、あけくれ世の中の、人のやうならぬを嘆きつつ、つきせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうは、夜とても人の見えおこたる時は、人すくなに心ぼそう、今はひとりをたのむたのもし人は、この十よ年のほど県ありきにのみあり、たまさかに京なるほども四五条のほどなりければ、われは左近の馬場を片岸にしたれば、いとはるかなり。」
◆◆このように、人目には夫婦仲のよさそうに見えるのかも知れない状態で、十一、二年経ちました。けれども私自身は、人並みではない不仕合せな境遇を嘆きつつ、尽きぬ物思いを続けながら暮しておりました。それもそのはずで、私の身のありようといったら、夜にあの人が来ない時は、身辺に男どもも少なくて心細く、母が亡くなってたった一人の父親を頼みにと思っても、この十年あまりというものは、受領として地方を回ってばかりで、たまたま京に居るときも、四条五条あたりに住んでいて、私のところは左近の馬場の横側にありましたので、随分離れていました◆◆
「かかる所も、もとよりつくろひかかはる人もなければ、いと悪しくのみなりゆく。これをつれなく出で入りするは、ことに心ぼそう思ふらんなど、深う思ひよらぬなめりなど、千種に思ひみだる。事しげしといふはなにか、この荒れたる宿の蓬よりも繁げなりと思ひながむるに、八月ばかりになりにけり。」
◆◆そういうわけで、ここの女世帯の家を修理してくれる人もなく、どんどん荒れ果てていくばかりです。そんな所にあの人が平気で出入りしていながら、私がどんなに心細く思っているだろうなどと、心配も思いやりもないことに、私の心は千々に乱れるのでした。あの人が「公務多忙で」などと言っているけれど、なにさ、この荒れた我が家に繁っている蓬の数より(多い)多忙とでも言うの、などと思っているうちに八月ごろになったのでした。◆◆
■県ありき=(あがたありき)父倫寧は、陸奥、伊予、河内、上総、常陸、丹波を歴任した。
■左近の馬場=(さこんのむばば)一条西洞院のこと。片岸とは片側を接しているという状態。
■平安京は794年に桓武天皇によって遷都決定され、葛野の地に、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画造営された都城です。作者の住まいの一条通りから父親の邸の五条、六条通りあたりまでは、直線にしても2.5キロから3キロほどになる。女性が簡単には行けない距離。一条から三条通りくらいまでは内裏に近く、有力な貴族の邸宅があった。作者の邸も申し分のない場所にあった。
「かくて人にくからぬさまにて、十といひて一つ二つの年は余りにけり。されど、あけくれ世の中の、人のやうならぬを嘆きつつ、つきせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうは、夜とても人の見えおこたる時は、人すくなに心ぼそう、今はひとりをたのむたのもし人は、この十よ年のほど県ありきにのみあり、たまさかに京なるほども四五条のほどなりければ、われは左近の馬場を片岸にしたれば、いとはるかなり。」
◆◆このように、人目には夫婦仲のよさそうに見えるのかも知れない状態で、十一、二年経ちました。けれども私自身は、人並みではない不仕合せな境遇を嘆きつつ、尽きぬ物思いを続けながら暮しておりました。それもそのはずで、私の身のありようといったら、夜にあの人が来ない時は、身辺に男どもも少なくて心細く、母が亡くなってたった一人の父親を頼みにと思っても、この十年あまりというものは、受領として地方を回ってばかりで、たまたま京に居るときも、四条五条あたりに住んでいて、私のところは左近の馬場の横側にありましたので、随分離れていました◆◆
「かかる所も、もとよりつくろひかかはる人もなければ、いと悪しくのみなりゆく。これをつれなく出で入りするは、ことに心ぼそう思ふらんなど、深う思ひよらぬなめりなど、千種に思ひみだる。事しげしといふはなにか、この荒れたる宿の蓬よりも繁げなりと思ひながむるに、八月ばかりになりにけり。」
◆◆そういうわけで、ここの女世帯の家を修理してくれる人もなく、どんどん荒れ果てていくばかりです。そんな所にあの人が平気で出入りしていながら、私がどんなに心細く思っているだろうなどと、心配も思いやりもないことに、私の心は千々に乱れるのでした。あの人が「公務多忙で」などと言っているけれど、なにさ、この荒れた我が家に繁っている蓬の数より(多い)多忙とでも言うの、などと思っているうちに八月ごろになったのでした。◆◆
■県ありき=(あがたありき)父倫寧は、陸奥、伊予、河内、上総、常陸、丹波を歴任した。
■左近の馬場=(さこんのむばば)一条西洞院のこと。片岸とは片側を接しているという状態。
■平安京は794年に桓武天皇によって遷都決定され、葛野の地に、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画造営された都城です。作者の住まいの一条通りから父親の邸の五条、六条通りあたりまでは、直線にしても2.5キロから3キロほどになる。女性が簡単には行けない距離。一条から三条通りくらいまでは内裏に近く、有力な貴族の邸宅があった。作者の邸も申し分のない場所にあった。