永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(147)その5

2016年10月28日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (147)その5  2016.10.28

「うべなきことにてもありけるかな。宿世やありけん。いとあはれなるに、『さらば、かしこに、まづ御文をものせさせ給へ』とものすれば、いかがはとて、書く。『年頃はきこえぬばかりに、承りなりければ、誰とおぼつかなくはおぼされずやとてなん。あやしとおぼされぬべきことなれど、この禅師の君に心ぼそき憂へをきこえしも、伝へきこえたまひけるに、いとうれしくなんのたまはせしと承れば、よろこびながらなんきこゆる。けしうつつましきことなれど、尼にとうけ給はるには、つつましき方にても思ひ放ち給ふやとてなん』などものしたれば、」

◆◆思ったとおりであったことよ。縁があったということかしら。しみじみ感慨を催していると、法師が、「それでは、先方へとりあえずお手紙をあげてください」と言うので、それではと言って書きました。「以前から、お手紙こそは差し上げませんでしたが、ご様子は常々承っておりましたので、ご不審にお思いになることはないと存じまして、この禅師の君に、私の心細い身の上(自分に娘がなくて老後が不安)の悩みをお訴え申しましたのを、あなた様にお伝えくださいましたところ、たいそううれしいお返事を賜ったと承りましたので、喜びながら一筆差し上げる次第でございます。大変ぶしつけで申し上げにくいことでございますが、尼にとお考えのよし承りますと、あるいは可愛いお子様でございましても、縁つづきの者と思って(私に姫君を)お手放しなさいますかと存じまして」などとしたためてやると◆◆



「又の日返りごとあり。『よろこびて』などありて、いと心よう許したり。かの語らひける事の筋もぞ、この文にある。かつはおもひやる心ちもいとあはれなり。よろづ書き書きて、『霞にたちこめられて、筆のたちども知られねば、あやし』とあるも、げにとおぼえたり。」

◆◆次の日に返事がありました。そこには「よろこんで」などとあって、とても快く承諾してくれたのでした。あの禅師との間にとりかわされた顛末もこの手紙に書いてあります。その一方では子どもを手放す母親の心持を察すと胸がうたれ、気の毒でなりません。いろいろなことが書かれてあって、「霞に立ち込められたように涙で目がふさがれ、筆をおろすところもわかりませんゆえ、字もままならず、お見苦しいお手紙になってしましました」とあるのも、まったく無理のないことと思われました。◆◆