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永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(158)

2016年12月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (158) 2016.12.20

「六日のつとめてより雨はじまりて、三四日ふる。川水まさりて人流るといふ。それもよろづをながめ思ふに、いと言ふかぎりにもあらねど、今は面馴れにたることなどはいかにもいかにも思はぬに、この石山にあひたりし法師のもとより、『御祈りをなんする』と言ひたる返りごとに、『今はかぎりに思ひはてにたる身をば、仏もいかがし給はん。ただいまは、この大夫を人人しくてあらせ給へなどばかりを申し給へ』と書くにぞ、なにとにかあらん、かきくらして涙こぼるる。」

◆◆六日の朝から雨が降り始めて、三日四日の間降り続きました。川が増水して、人が流されたということです。それにつけても、さまざまな思いにふけってぼんやり考え込んでいますと、なんとも言いようのない切なさではあっても、今は夫との薄い生活にもすっかり慣れてしまって、どうとも思わなくなっているときに、あの石山で出会った法師のもとから、「奥方さまのために御祈りをいたしております」と言ってきた返事に、「もう今は、これ以上どうにもならないわが身のことは、御仏さまでもお手のほどこしようもないと存じます。これからは、わが息子道綱を一人前にしてくださいますようにとだけ、お祈りしてください」とだけ書いていますと、どうしたことか、目の前が暗くなる思いで涙がはらはらと零れるのでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(157)

2016年12月17日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (157) 2016.12.17

「五月になりぬ。『菖蒲の根長き』など、ここなる若き人さわげば、つれづれなるに取りよせて、つらぬきなどす。『これ、かしこに同じほどなる人にたてまつれ』など言ひて、
<隠れ沼に生ひそめにけりあやめ草しる人なしに深き下根を>
と書きて、中にむすびつけて、大夫のまゐるにつけてものす。
かへり事、
<あやめぐさねにあらはるる今日こそはいつかと待ちしかひもありけれ>

◆◆五月になりました。「菖蒲の根の長いのを」などと、当家の娘が騒ぐので、私もつれづれに過ごしていた折から、取り寄せて糸を通して薬玉を作ったりする。「これを、あちら(本宅・時姫腹の詮子)の同じ年ごろの方に、差し上げなさい」などと言って、
(道綱母の歌)「私の養女は隠れ沼に生えていたこの菖蒲の根同様、世間に知られずに育った者です。ご披露申し上げます」
と書いて、薬玉の中に結びつけて、大夫(道綱)が参上するに事つけて贈りました。
その返事に、
(時姫方の歌)「菖蒲が根から姿を現す五月五日、姫君をご披露いただき、いつかしらとお待ちしていた甲斐がありました」◆◆



「大夫、いま一つとかくして、かのところに、
<わが袖は引くと濡らしつあやめ草人の袂にかけてかわかせ>
御かへりごと、
<引きつらん袂はしらずあやめ草あやなき袖にかけずもあらなん>
と言ひたなり。

◆◆道綱は、もう一つの薬玉を用意して、あちらのところに、
(道綱の歌)「菖蒲を引いて袖を濡らしてしまいました。あなたの袂に重ねて乾かしてください」
その返歌には、
(大和の歌)「菖蒲を引いたというあなたの袂がどうであろうとも私には何の関係もありません。私に思いを寄せるなどと、とんでもないことをおっしゃらないでくださいませ」
と言ってきたようでした。◆◆

■薬玉(くすだま)=五月五日にいろいろな香料を袋に入れ、あやめ、よもぎなどの葉を五色の絹糸で貫いて薬玉を作る。


蜻蛉日記を読んできて(156)

2016年12月14日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (156) 2016.12.14

「さる心ちなからん人にひかれて、又、知足院のわたりにものする日、大夫もひき続けてあるに、車ども帰るほどに、よろしきさまにみえける女車のしりに続きそめにければ、おくれず追ひ来ければ、家を見せじとにやあらん、とく紛れ行きにけるを、追ひてたづねはじめて、又の日かく言ひやるめり。
<思ひそめ物をこそおもへ今日よりはあふひはるかになりやしぬらん>

◆◆(私のような)そんな物思いなどなさそうな人に誘われて、また、知足院のあたりに出かけた日、大夫(道綱)も車で後についてきていましたが、私たちの車が帰るとき、相当な身分の者と見えた女車の後に付いて行き始め、遅れないようにその車を追って行ったところ、家を知らせまいとするのでしょうか、あっという間に行方をくらましてしまったのを、追いかけて、間もなく家を尋ねあて、次の日にこのように言ってやったようでした。
(道綱の歌)「あなたのことを思い始めて悩んでおります。逢う日の名を持った葵祭の終わった今日から来年の賀茂の祭りまで逢えないのでしょうか。早く逢いたい」◆◆



「とてやりたるに、『さらにおぼえず』など言ひかんかし。されど又、
<わりなくもすきたちにけるこころかな三輪の山もとたづねはじめて>
と言ひやりけり。大和だつ人なるべし。かへし、
<三輪の山まちみることのゆゆしさに杉立てりともえこそ知らせぬ>
となん。
かくてつごもりになりぬれど、人は卯の花のかげにも見えず、音だになくてはてぬ。
二十八日にぞ、例の、ひもろきのたよりに、『なやましきことありて』などあべき。」

◆◆と言ってやったところ、「全く心当たりがありません」などと言ってきたようでした。しかしまた、
(道綱の歌)「三輪山のふもとのあなたの家を尋ねはじめて、恋心が無性に募ったことです。古歌に恋しければ三輪山麓の杉の立った門を目当てに訪ねていらっしゃいとあるではありませんか」と言ってやった。大和に縁のある人なのでしょう。返事に、
(大和に縁のある女の歌)「誰との分らないあなたの訪れを待つのは気味が悪いので、目印の杉(私の家)を教えることは出来ません」のようでした。
こうして月末になったけれど、あの人は卯の花の陰に隠れるほととぎす同様、姿を見せず、音沙汰さえもなくて、この月も終わってしましたました。
二十八日に、例のように、あの人から、神社に参拝した折に、「気分がすぐれなくて」などとあったようでした。◆◆


■知足院(ちそくいん)=今は所在不明。雲林院(うりんいん)と並ぶ紫野の寺。賀茂祭の斎王還御の行列見物の適地。

■ひもろき=神に備えるもの

蜻蛉日記を読んできて(155)

2016年12月11日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (155) 2016.12.11

「ここにも物忌みしげくて、四月は十よ日になりにたれば、世には祭りとてののしるなり。人、『しのびて』と誘へば、禊よりはじめて見る。『わたくしの御幣たてまつらん』とて詣でたれば、一条の太政大臣詣であひ給へり。いといかめしうののしるなどいへばさらなり。さしあゆみなどしたまへるさま、いたう似給へるかなとおもふに、大方の儀式もこれに劣ることあらじかし。これを『あなめでた、いかなる人』など、おもふ人もきく人も言ふを聞くぞ、いとどものはおぼえけんかし。」

◆◆私の方でも物忌みが続いて、四月は十日すぎになったので、世間では祭だと騒いでいるようだ。ある人が、「そっと出かけましょう」と誘うので、斎院の禊からはじめていろいろと見る。「私自身の幣帛を奉ろう」と賀茂神社に詣でたところ、ちょうど一条の太政大臣が参拝に詣でておられたのに出会いました。大層ご立派で堂々としていらっしゃることといったら申し分ない。悠然と歩を進めていらっしゃるご様子は、なんとまあ、あの人(兼家)に似ていることと思うと、大方の晴れ姿全般についてもあの人は、この太政大臣伊尹に劣ることはないと思うのでした。これを「まあ、なんと立派な。なんとすばらしい方」などと、感嘆する人も、それを聞いてうなずく人も、ほめそやしているのを聞くにつけても、私の心は深く物思いに沈んだことだった。◆◆

■祭=賀茂祭

■禊(みそぎ)=斎院の禊、この年四月十七日午(うま)の日に行われた。

■一条の太政大臣(いちじょうのおおきおとど)=藤原伊尹(これまさ)兼家の同母兄。一条の南、大宮の東に住んだので、一条……と呼ばれる。


蜻蛉日記を読んできて(154)

2016年12月08日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (154) 2016.12.8

「廿日はさて暮れぬ。
一日の日より四日、例の物忌みと聞く。ここに集ひたりし人々は南ふたがる年なれば、しばしもあらじかし、廿日、県ありきのところへみな渡られにたり。心もとなきことはあらじかしと思ふに、わが心憂きぞまづおぼえけんかし。かくのみ憂くおぼゆる身なれば、この命をゆめばかり惜しからずおぼゆるに、この物忌みどもは柱に押し付けてなど見ゆるこそ、ことしも惜しからん身のやうなりけれ。」

◆◆二十日は、あの人の訪れもないまま日が暮れてしまった。二十一日の日から四日間、例の物忌みということです。ここに集まっていた人々は、南の方角が塞がっている年なので、しばらくも留まることができないのか、二十日に、地方官歴任の父のところに、みな移ってしまわれた。あちらなら不安なことはないであろうと思うにつけ、私の所では充分な世話ができないと思うと、情けなさが一番に感じられたことだった。このように全く情けない身の上だから、命など少しも惜しいとは思わないけれど、このもの忌みの札を何枚も柱に押し付けているのなどが目に止まると、まるで、命を惜しがっているみたいであった。◆◆




「その廿五六日に物忌みなり。果つる夜しも門の音すれば、『かうてなん、固う鎖したる』とものすれば、倒るるかたにたち帰る音す。」

◆◆その二十五日と二十六日が(私のほうの)物忌みでした。ちょうど物忌みが終わる最後の夜に門をたたく音がするので、「このとおり物忌みで、門を固く閉めております」と言うと、仕方なさそうに帰って行く音が聞こえました。◆◆



「又の日は例の方ふたがると知る知る、昼間に見えて、『御さいまつ』といふほどにぞ帰る。それより例の障り繁くきこえつつ、日へぬ。」

◆◆次の日は、例のように方角が塞がっていると知りながら、あの人は昼間に見えて、
「松明を灯す」というころに帰っていきました。それ以降、さまざまな差し障りがあると耳にしながら、日が経ってしまいました。◆◆


■わが心憂きぞ=兼家が夫として十分な経済面での面倒をみてくれないので、避難者に対して、種々世話がしてやれないわが身の情けなさ。

■ことしも=こと・し・も=強調。全く、本当に。


蜻蛉日記を読んできて(物忌みと方違え)

2016年12月05日 | Weblog
物忌みと方違へ   2016.12.5

■物忌み
 公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいう。潔斎、斎戒。平安時代には陰陽道(おんみょうどう)により物忌みが多く行われ、貴族などは物忌み中はだいじな用務があっても外出することを控えた。物忌み中の人は家門を閉ざして、訪客がきても会わず、行事にも出席しない。家にあっても冠や髪に「物忌」の札をつけていた。夢見なども陰陽師がよくないというと物忌みをした。当時における公家(くげ)などの物忌み日数は1年間に1か月ぐらいに及んだ。また物忌みのため自家に忌み籠(こも)りするだけでなく、他の特定の場所に出かけることもあった。
 具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面がある。
しるしとして柳の木札や忍ぶ草などに「物忌」と書いて冠や簾 (すだれ) などに掛けたもの。平安時代に盛行した。物忌みの札。

■方違え(方忌み)
「方角」がダメなので行きたいところに行けません
ちなみに物忌みと方忌みが重なった場合は物忌みが優先となります
外出または帰宅の際、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けた。

 例えば、仕事先から西の方にある自宅へ帰ろうとしたら、西の方角に方違えの対象となる天一神が在していたとする。この場合、真っ直に家へ帰ると天一神のいる方角を犯すことになる。そこで、いったん他の方角、例えば南西の方角にある知人の家で一夜を明かして翌朝家に帰ることにすれば、移動は南西方向と北西方向になって、西への移動を避けることができる。
 
 また、造作を行う際、その工事場所が家の中心から見て禁忌の方角に当たる場合に、いったん他所で宿泊して忌を移してから工事を行った。しかし、天一神のように数日で移動する方位神ならば良いが、同じ方角に1年間在する金神などが工事をしたい方角にいる場合もある。その場合には、その年の立春にいったん方違えになる方角に移動して一晩明かし、翌日自宅に戻れば当分は方違えしなくても良いとされた。
 
 方違えの対象となる方位神は、以下の5つである。
• 天一神(てんいちじん、てんいつじん、なかがみ):同じ方角に5日留まる
• 太白(たいはく):毎日方角が変わる
• 大将軍(だいしょうぐん):3年間同じ方角に留まるが、5日単位で遊行する
• 金神(こんじん):1年間同じ方角に留まる
• 王相:王も相も1か月半同じ方角に留まる。続けて来るので3か月間ひとつの方角が塞がることになる。

■実際の方違え
 天一神については、5日間同じ方角が塞がるので、その方向が職場と自宅間などに該当していると不便である。そこで、実際には天一神がその方角へ遊行する最初の日に方違えをすれば、その方角にいる5日間は問題ないとされた。
 同一方角に長期間在する神(大将軍・金神・王相)については、遊行の最初の日に1回方違えしただけでは有効とは言えないとして、その期間中、

以下のような規則で何度も方違えをする必要があった。
• 自宅から、または自宅への移動、および自宅での造作の場合
o 遊行の最初の日に一度方違えを行う
o その後数日間は毎日方違えを行う
o 一定期間経ったら再び方違えを行う
• 自宅以外の場所から自宅以外の場所への移動の場合
o 遊行の最初の日に一度方違えを行う
o 一定期間(大将軍は45日、王相は15日)経ったら再び方違えを行う

 出先から出先への移動よりも、自宅が絡む場合はより念入りに方違えをする必要があった。そこで、これを利用した便法が考え出される。つまり、自宅より出先の方が軽くて済むのであれば、本来の自宅以外の場所を「自宅」ということにすれば良いという考えである。各神の遊行する日の前日の夕方に、自宅以外の方角的に問題のない場所へ移動してそこで一晩過ごし、そこが「自宅」であると方位神に対して宣言するのである。こうすることで、方違えを45日または15日に1回行うだけで済むようにした。
 「自宅」と宣言するために一夜を明かすのに貴族が使ったのは、一般に寺院が多かった。そのため、平安時代の後期にこの方式の方違えが流行するようになると、京都のお寺はどんどん立派になっていった。大将軍・金神・王相が遊行を行うのは春分の日であった。そのため、春分とそこから15日単位の日(すなわち二十四節気)には京都のあちこちで貴族の大移動が見られた。


蜻蛉日記を読んできて(153)その2

2016年12月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (153) その2  2016.12.2

「人見て、『おはします』と言ふにぞ、すこし心落ちゐておぼゆる。さて『ここにありつる男どもの来て告げつるになん、おどろきつる。あさましう来ざりけるがいとほしきこと』などあるほどに、とばかりになりぬれば、鶏も鳴きぬと聞く聞く寝にければ、ことしも心ちよげならんやうに朝寝になりにけり。今もふと人あまたののしれば、せてふにてものしたり。『さわがしうぞなりまさらん』とていそがれぬ。」

◆◆召使が出て行ってみて、「おいでになりました」と言うので、すこし心が落ち着いたように思えました。さて、あの人が「こちらにいる召使どもが知らせに来たのでびっくりした。なんとも遅くなってしまって気の毒であった」などと話しているうちに時刻が経って、鶏も鳴いたが、それを聞き聞き床についたので、まるで気持ちよく寝たかのように朝寝をしてしまいました。一夜明けた今も、見舞いに来る人が多く、騒いでいるので、気持ちが落ち着かないでいました。あの人は、「もっと騒がしくなるだろう」と言って帰っていかれました。◆◆



「しばしありて男のきるべきものどもなど、かずあまたあり。『とりあへたるにしたがひてなん。かみにまづ』とぞありける。『かく集まりたる人にものせよ』とていそぎけるは、いとにはかに檜皮の濃き色にてしたり。いとあやしければ見ざりき。もの問ひなどすれば、『三人ばかりやまひごと、口舌』など言ひたり。」

◆◆しばらくして、あの人から、男の着物などたくさん届けてくれました。「ありあわせの物ばかりですが、長官にまず」とのことでした。「こうして集まっている人にあげなさい」ということで用意したものは、まことに急ごしらえで、濃い檜皮色に染め上げてあります。とても粗末なものだったので見ませんでした。焼け出された人たちの様子を問うと、「三人ほどが病気で、ぶつぶつ文句を言っている」などと言う。◆◆


■せてふにてものしたり=未詳。「せんかたなくものしたり」「ともかくものしたり」などの改定案あり。

■口舌(くぜち)=口の災い。非難中傷。

■檜皮(ひわだ)=蘇芳に黒味を帯びた色。



蜻蛉日記を読んできて(153)その1

2016年11月29日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (153) その1  2016.11.29

「十八日に、清水にまうづる人に、又しのびてまじりたり。初夜はててまかづれば、時は子ばかり。もろともなる人のところに帰りて、ものなどものするほどに、ある者ども、『この乾の方に火なん見ゆるを、出でて見よ』などいふなれば、『もろこしぞ』などいふなり。ここちには、なほ苦しきわたりなどおもふほどに、人々『かうの殿なりけり』と言ふに、いとあさましういみじ。わが家も築土ばかりへだてたれば、さわがしう、若き人をもまどはしやしつらん、いかで渡らんとまどうふにしも、車のすだれはかけられけるものかは、からうじて乗りて来しほどに、みな果てにけり。」

◆◆十八日に、清水寺に参詣する人に、又そっと同行して出かけました。初夜の勤行が終わってお寺を下がると、時刻は真夜中でした。一緒に参詣した人の家に帰って、食事などをしているところに、従者たちが、「この西北の方角に火の手が見えるから、出て見てご覧」などと言うと、「唐土(もろこし)だよ」などと言っています。内心ではもしや気になる方角だと思っていると、人々が「長官殿でした」と言うので、すっかり気も転倒してしまいました。我が家は築地をへだてただけの距離のところなので、きっと若い人たちを戸惑わせていることだろう、なんとか早く帰らねばと、あわてふためいて、車の簾をかけるひまもなく、やっとのことで乗って帰宅すると、その時には何もかも済んでしまっていた。◆◆



「わが方は残り、あなたの人もこなたに集ひたり。ここには大夫ありければ、いかに、土にや走らすさんと思ひつる人も車に乗せ、門強うなどものしたりければ、らうがはしきこともなかりけり。あはれ、男とてよう行ひたりけるよと、見聞くもかなし。」

◆◆私の家は焼け残り、あちらの人も私の所に集まっていました。この家には大夫(道綱)がいましたので、もしや、土の上を裸足でうろたえている娘も車に乗せ、門をしっかり閉めなどしたので、乱暴泥棒などのことはありませんでした。よくぞ道綱は一人前の男としてよくやってくれたことよと、見聞きするにつけても胸がいっぱいになりました。◆◆



「渡りたる人々は、ただ『命のみわづかなり』となげくまに、火しめりはててしばしあれど、とふべき人はおとずれもせず、さしもあるまじきところどころよりもとひつくして、このわたりならんやのうかがひにて、いそぎみえし世世もありしものを、ましてもなりはてにけるあさましさかな、『さなん』と語るべき人は、さすがに雑色や侍やと聞き及びける限りは語りつと聞きつるを、あさましあさましと思ふほどにぞ、門たたく。」

◆◆我が家に非難した人々は、ただ、「命からがらでした」と嘆いていましたが、そのうちに火事もすっかり収まって、しばらくたったけれど、見舞いにくるはずのあの人は姿を見せず、特に見舞わねばならない筋合いでもなさそうな人々からも、みな見舞いがあて、以前は火事はこの辺ではないかと様子を見に、急いで駆けつけてくれた時代もあったのに、まったく薄情になってしまったことか。兼家に火事のことを「これこれ」と報告すべき人は、本邸の雑色とか侍とか、かねて聞き及んでいた限りの者全部に知らせたということなのに、まあ、あきれた、あきれたことと思っているときに、門をたたく音がします。◆◆


■子(ね)=夜十一時~一時ごろ。真夜中。


蜻蛉日記を読んできて(152)

2016年11月26日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (152)  2016.11.26

「三月になりぬ。木の芽、雀隠れになりて、祭りのころおぼえて、榊、笛恋ひしう、いとものあはれなるにそへても、音なきことをなほおどろかしけるもくやしう、例の絶えまよりも安からずおぼえけんは、なにの心にかありけん。」

◆◆三月になりました。木の芽が繁って、雀が隠れるほどになり、賀茂の祭りの頃の時候で、榊や笛の音がなつかしくしのばれて、感傷的な気持ちになるにそえて、あの人からは何も音沙汰がないのに、こちらから歌を送ったりしたこともいまいましく、いつもの絶え間よりも落着いていられないのは、どういう心持ちだったのでしょう。◆◆



「この月七日になりにけり。今日ぞ『これ縫ひて。慎むことありてなん』とある。めづらしげもなければ、『給はりぬ』など、つれなうものしけり。昼つ方より、雨のどかにはじめたり。」

◆◆そしてこの月も七日になってしまいました。今日、「これを縫ってほしい。慎むことがあって伺えないが」と言ってきました。こういうことは珍しくもないことなので、「いただきました」などと、つれなく返事をしました。昼ごろから雨がのどかに降り始めました。◆◆



「十日、朝廷は八幡の祭りのこととののしる。我は、人のまうづめるところあめるに、いとしのびて出でたるに、昼つ方帰りたれば、あるじの若き人々、『いかでもの見ん。まだ渡らざなり』とあれば、帰りたる車もやがて出だし立つ。」

◆◆十日、朝廷は石清水の臨時の祭りのことで大騒ぎです。私は、知人が物詣をするようなので、いっしょにごくこっそりと出かけたのですが、昼ごろ帰ってくると、留守居の主人役をしていた若い人(道綱と養女)が、「行列を是非見たい。まだ通らないそうです」と言うので、帰ってきた車もそのまま出させました。◆◆



「又の日、かへさ見んと人々のさわぐにも、心ちいと悪しうて臥し暮らさるれば、見ん心ちなきに、こらかれそそのかせば、ただ檳榔ひとつに四人ばかり乗りて出でたり。冷泉院の御門の北のかたにたてり。こと人おほくも見ざりければ、人ごこちして立てれば、とばかりありて渡る人、わが思ふべき人も陪従ひとり、舞人にひとりまじりたり。
このごろ、ことなることなし。」

◆◆翌日は、還り立ちの行列を見ようと、人々が騒いでいるけれども、私は気分がすぐれず横になっていて、見物に出かけるつもりもなかったのに、周りのだれかれが勧めるので、ただ檳榔毛の車一台に四人ほど乗って出かけました。車を冷泉院の御門の北側に止めました。それほど人も多くなかったので、気分も平常にもどって、そこに止まっていると、しばらくして行列が来て、私が目をかけているいる人も陪従(べいじゅう)に一人、舞人に一人混じっていました。このところ、別に変わったことはなくすぎている◆◆



■雀隠れ=美しい言葉である。雀の姿がかくれるくらいに木の葉などが繁ることをいう。

■祭りのころ=賀茂の祭り。四月、中の酉の日におこなわれる。この年の賀茂祭は十七日が斎院の禊、二十日が祭日であった。たまたまこの年閏二月があったので、三月になると四月ごろの季節感があったのであろう。

■八幡の祭り=石清水八幡宮の臨時祭

■あるじの若き人々=道綱と養女

■かへさ=八幡からの帰りの行列。

■檳榔(びろう)=檳榔毛の車の略。びろう(やし科の亜熱帯性高木)の葉を細かく割いて糸のようにし、車の箱の屋根をふき、左右の側にも押し付けたもの。上皇、親王、大臣以下、公卿、女官、僧侶、また相当な身分の女子なども用いる。


蜻蛉日記を読んできて(151)

2016年11月23日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (151)  2016.11.23

「十六日、雨の脚いと心ぼそし。
明くれば、この寝るほどにこまやかなる文みゆ。『今日は方ふたがりたりければなん。いかがせん。』などあべし。返りごとものして、とばかりあれば、みづからなり。日も暮れがたなるを、あやしと思ひけんかし。夜にいりて『いかに、御幣をやたてまつらまし』など、やすらひのけしきあれど、『いと用ないことなり』など、そそのかし出だす。あゆみいづるほどに、あいなう『夜数にはしもせじとす』としのびやかに言ふを聞き、『さらばいとかひなからん。異夜はありと、かならず今宵は』とあり。それもしるく、その後おぼつかなくて、八九日ばかりになりぬ。」

◆◆(二月)十六日、雨脚がとても心細い。夜が明けると、私がまだ寝ているころに、あの人から心細やかな手紙がきました。「今日はそちらへの方角が塞がったので、どうしたらよいだろう」などとあったっけ。返事を出してしばらくすると、ご本人がやってきました。日も暮れ方なのに、どうも私はおかしいと思ったことでした。夜になって、「どうしよう。幣帛(へいはく)を天一の神様に奉って泊まるお許しを得ようか」などと、帰りを渋っている様子であるけれど、「そんなことをしても何にもなりませんよ」といって、送り出しました。部屋を出て行くときに私がつい、「今夜は訪れの数には入れないでおきましょう」と
そっと言うのを聞きつけて、「それでは、禁忌を犯して来た甲斐がないというものだ、他の夜はとにかく、今夜は是非とも」などと言いました。それもそのとおり案の定その後は音沙汰なくて、八、九日ばかり経ってしまったのでした。◆◆


「かく思ひ置きて、『数には』とありしなりけりと思ひあまりて、たまさかにこれよりものしけること、
<片時にかへし夜数をかぞふれば鴫のもろ羽もたゆしとぞ鳴く>
返りごと、
<いかなれや鴫の羽がきかずしらず思ふかひなき声に鳴くらん>
とはありけれど、おどろかしくてもくやしげなるほどをなん、いかなるにかと思ひける。
このごろ、庭もはらに花ふりしきて、海ともなりなんと見えたり。
今日は廿七日、雨昨日のゆふべよりくだり、風残りの花を払ふ。」

◆◆当分来ないつもりで「夜数に入れよ」と言ったのかと思うと黙っていられなくて、めずらしくこちらから送った歌は、
(道綱母の歌)「短い時間の訪れと引き換えに、あなたが来なくなった夜の数は、鴫(しぎ)が両羽を搔いて数えても悲鳴をあげるほど多い。私は数多い夜離れに泣くばかりです。」
返事には、
(兼家の歌)「どうしてだろう、鴫の羽搔きのようにいつもいつも思っている。その甲斐も泣くあなたが泣いているというのは」
と言って寄こしたけれど、このように自分から送った歌に却って後悔するような羽目になるなんて、どうしてこんなことになるのかと思うのでした。
今日は二十七日、雨が昨日の夕べから降り続いていて、風が枝に残っていた花を拭き払ってしまうのでした。◆◆