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永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(168)

2017年02月12日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (168) 2017.2.12

「二月になりぬ。紅梅の常の年よりも色こくめでたうにほひたり。わが心ちにのみあはれと見れども、なにと見たる人なし。大夫ぞ折りて例のところにやる。
<かひなくて年へにけりとながむれば袂も花の色にこそ染め>
返りごと、
<年をへてなどかあやなく空にしも花のあたりをたちはそめけん>
と言へり。なほありのことやと待ち見る。」

◆◆二月になりました。紅梅が例年よりも色鮮やかに香りよく咲いています。私一人が感慨深く感じているけれども、特別に目を止めて鑑賞している人はいません。道綱がその梅を折って例の大和に届ける。
(道綱の歌)「あなたを思う甲斐もなく年が経ったと物思いに沈んでいると、悲しみの血の涙で、袂も紅梅色にそまることです」
返事には、
(大和の歌)「昨年からどうしてあなたは訳の分らない恋に夢中になり、私の周りをうろうろとされるのでしょうか」
 と言ってきた。まあ待ち受けて見た歌は、ありきたりの返歌だと思ったことでした。◆◆

■自筆の返歌がきはじめると、結婚は成立間近となるが、この縁談は不成立だったようなので、この返歌も代筆であろう。



蜻蛉日記を読んできて(167)

2017年02月10日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (167) 2017.2.10

天延元年(973年) 
兼家   46歳
作者   38歳
道綱   20歳

「さて年暮れはてぬれば、例のこととてののしり明かして、三四日にもなりにためれど、ここにはあらたまれる心ちもせず、鶯ばかりぞいつしか音したるをあはれと聞く。」

◆◆さて、この年も暮れてしまったので、年末には例年の通りのことをして、あれこれ大騒ぎして大晦日の夜を明かし、一月も三、四にもなったようですが、私の家では新年を迎えたような気もせず、鶯がいつの間にか訪れてきたのを、しみじみと感慨深く聞くのでした。◆◆



「五日のばかりのほどに昼見え、又十よ日、廿日ばかりに人ねくたれたるほど見え、この月ぞすこしあやしと見えたる。このころ司召しとて、れいの暇なげにののしるめり。」

◆◆五日になって、あの人が昼間に見え、また、十日すぎに訪れ、二十日ほどには、皆寝入った頃に訪れて、この月はすこし妙だと思えるくらいに姿を見せたのでした。このごろ司召しということで、例のように暇もなさそうに騒いでいるようでした。◆◆



蜻蛉日記を読んできて(166)

2017年02月06日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (166) 2017.2.6

「神無月、例の年よりもしぐれがちなるころなり、十よ日のほどに、例のものする山寺に『もみぢも見がてら』と、これかれ誘はるれば、ものす。今日しもしぐれ降りみ降らずみ、ひねもすに、この山いみじうおもしろきほどなり。」
 
◆◆十月、いつもの年よりしぐれがちな頃です。十日過ぎくらいに、いつも行く山寺に「紅葉でも見がてらにと、家の者達が誘われたのでわたしも出かけました。ちょうど今日はしぐれが降ったり止んだりして、一日中、この山はたいそう趣きのあるところでした。◆◆



「ついたちの日、『一条の太政の大臣失せ給ひぬ』とののしる。例の『あないみじ』など言ひて聞きあへる夜、初雪七八寸のほどたまれり。あはれ、いかで君達あゆみ給ふらんなど、わがする事もなきままに思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる。しはすの廿日あまりに見えたり。」

◆◆十一月一日の日、「一条の太政大臣様が亡くなられました」と大騒ぎです。だれもからえも「ああ、お気の毒に」などと話し合っていた夜、初雪が七、八寸ほど積もりました。ああ、お労しい、ご子息たちがこの雪の中をどのような気持ちで葬送に連なっていらっしゃることかと、私が所在なきままに思っていますと、例のようにあの人は、ますます威勢を増して、大変な勢いで大騒ぎをしていて、十二月の二十日過ぎにこちらに見えました。◆◆

■一条の太政の大臣=藤原伊尹(これまさ)、兼家の長兄。兼家を常に引き立てていた。
 
■七、八寸=約20センチ

■例の世の中いよいよ栄ののしる=伊尹の死後、兼家の地位が政界で重くなること。



【解説】 上村悦子著「蜻蛉日記」下より

 当時の上流女性で絵を描く趣味を持った方は時折ある。(中略)作者の父も絵心を有していたことは巻末歌集に陸奥守のとき陸奥国の景色を絵にかいて持ち帰っていることで伺われる。作者も父の血を引いたのか絵心を有したらしく、鳴滝参籠中にも「昔、わが身にあらむこととは夢に思はで、あはれに心すごきこととて、はた、高やかに、絵にもかき」とも書いている。(中略)おそらくつれづれには歌を詠み、絵を描くことで慰めていたのであろう。
 死の予告ははずれたが作者は幸福な人は薄命(今は美人薄命という言葉もあまり耳にしないが昭和初年ごろにはまだよく言われた)だが、自分は幸福には縁が遠いからまだなかなか死なないだろうと自嘲めいた言葉を漏らしている。(中略)
「思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる」と記しているが、史実を検討すると作者の子の小丹波はかならずしも真実を伝えていない。今まで四歳年下の実弟兼家に官職を越されていた次兄兼道が好機逸すべからずと、妹の村上天皇中宮安子(円融天皇生母)に生前懇願して書いてもらっていた、【関白は次弟のままにせさせ給へ】のお墨付を錦の御旗と振りかざし、円融天皇の御心を動かし、権中納言から一挙に関白内大臣に昇進してしまい、陰に陽に同母弟の兼家を圧迫したからである。…



蜻蛉日記を読んできて(165)

2017年02月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (165) 2017.2.2

「若き人こそかやうに言ふめれ、我ははるのよのつね、秋のつれづれ、いとあはれに深きながめをするよりは、残らん人の思ひ出にも見よとて、絵をぞかく。さるうちにも今やけふやとまたがるる命、やうやう月たちて日もゆけば、さればよ、よも死なじものを、さいはいある人こそ命はつづむれと思ふに、うべもなく九月もたちぬ。」

◆◆若き人たちはこんな風に歌のやりとりをしているようでした。私は決まって春の夜だとか、また秋の所在無い折々に、ひどく深い物思いに沈んでいるよりは、私の亡きあとに残る人たちの思い出として見てもと思って絵を描いています。そうしているうちにも、今に死ぬのか、今日死ぬのかと待たれる命が、そんな気配もなく、死ぬと言われた八月に入り、日が過ぎてゆくので、ほらやっぱり、まさか死ぬことはあるまいに、幸せな人こそ命が短くなるのだけれど(私は不幸だから短命ではない)、と思っていると、やはりそのとおりで異常なこともなく九月になったのでした。◆◆



「廿七八日のほどに、土犯すとてほかなる夜しも、めづらしきことありけるを、人告げにきたるも、なにごともおぼえねば、憂くてやみぬ。」

◆◆二十七、八日のころに、土を犯すというので、他に移った丁度そのころに、あの人からめづらしいこともあるもの、使いが来たと留守居の者が来たけれど、何もおもいうかばないことなので、もの憂いまま返事もせずにしてしまったのでした。◆◆

■土犯すとて=陰陽道で、「土公」のいる方角で工事、造作をすること。その邸の住人は、「土忌み」として他所へ移る。


蜻蛉日記を読んできて(164)

2017年01月30日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (164) 2017.1.30

「大夫、例のところに文やる。さきざきの返りごとども、みづからのとは見えざりければ、うらみなどして、
<夕されの閨のつまづまながむれば手づからのみぞ蜘蛛もかきける>
とあるを、いかが思ひけん、白い紙にものの先にて書きたり。
<蜘蛛のかくいとぞあやしき風吹けば空に乱るるものと知る知る>
たちかへり、
<つゆにても命かけたる蜘蛛のいに荒き風をば誰かふせばむ>
『暗し』とて返りごとなし。又の日、昨日の白紙おもひいでてにやあらん、かく言ふめり。
<但馬のや鵠のあとを今日みれば雪の白浜しろくては見じ>
とてやりたるを、『物へなん』とて返りごとなし。」

◆◆道綱が例の大和のところに手紙を送ります。これまでの返事がその女の自筆のものとは見えなかったので、恨んだりして、
(道綱の歌)「夕方寝所のすみずみを見ながら、未来の妻あなたとのことを考えていると、蜘蛛でさえ自分で巣をかけているのに、あなたは自分で手紙を書いてくれない」
と言ってやったのを、どう思ったのでしょうか、白い紙に何かの切先でもって書いてあります。

(大和の歌)「蜘蛛がかく糸のように風に吹き散らされてしまう手紙を書くわけにはいきません。(私の手紙をまき散らす浮気なあなたと知りつつ返事を書くなど私は心配で、できません。)

折り返して、送った歌
(道綱の歌)「蜘蛛の巣は風にちらされるだろうが、大切なあなたからの手紙は散らしません」
先方では「暗くなったので」と言って、返事はありませんでした。次の日、道綱は昨日の手紙が白紙だったことを思い出してであろうか、このように言ってやったようでした。

(道綱の歌)「雪の白浜につけられた鵠の足跡のような白一面の角筆の手紙は読めません。ぜひあなたの筆跡がみたいものです」
と手紙を送ったけれども「外出中なので」といって返事はなかったのでした。◆◆



「又の日、『帰りにたりや、返りごと』と、言葉にて乞ひにやりたれば、『昨日のはいと古めかしき心ちすれば、きこえず』と言はせたり。
又の日、『一日は古めかしとか。いとことわりなり』とて、
<ことわりや言はでなげきし年月もふるの社の神さびにけん>
とあれど、『今日あすは物忌み』と、返りごとなし。
あくらんとおもふ日のまだしきに、
<夢ばかり見てしばかりにまどひつつあくるぞ遅き天の戸ざしは>
このたびもとかう言ひ紛らはせば、又、
『<さもこそは葛城山になれたらめただ一言やかぎりなりける>誰かならはせる』となん。

◆◆次の日、大夫が「お帰りにでしょうか。お返事を」と、口上で催促してやったところ、「昨日のお手紙は随分古めかしい感じがしますので、お返事申し上げません」と、取次ぎの者に言わせました。
次の日、「先日のは古めかしい歌だとおっしゃったそうですね。まことにもっともです」と言って、

(道綱の歌)「古くさいと言われるのももっともです。私はもの言わぬ思いに年月を重ね、年をとってしまったのでしょう」
と言ってやったけれど、「今日明日は物忌み」といって返事がない。
物忌みがもう明けるだろうと思う日の明け方に、

(道綱の歌)「ちらりと姿を見て以来、あなたへの恋に心乱れております。天の岩戸が閉じたような物忌みが早く明けてほしい」
今度もなにやかやと言い紛らわすので、又

(道綱の歌)「さすがは大和の方で、葛城山の一言主神とおなじみなのでしょう。それでこの間のただ一言が最後だというのですか、それはひどいですよ。―いったい誰がそのように躾たのでしょう」とか。◆◆

■鵠(くぐひ)=鳥の名。


蜻蛉日記を読んできて(163)

2017年01月27日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (163) 2017.1.27

「さながら八月になりぬ。ついたちの日、雨降り暮らす。しぐれだちたるに、未の時ばかりに晴れて、つくつくほうしいとかしがましきまで鳴くを聞くにも、『我だにものは』と言はる。いかなるにかあらん、あやしうも心ぼそう、涙うかぶ日なり。」
◆◆そのまま八月になってしまいました。一日の日は雨が一日中降り続いて、時雨のような雨で、未(ひつじ)の頃になってようやく晴れて、つくつくほうしがやかましいくらいに鳴くのを聞くにつけても、「我だにものは言はでこそ思へ」という和歌が口をついて出る。
どうしたものか、妙に心細く涙が浮かんでくる日です。◆◆



「『立たん月に死ぬべし』といふさとしもしたれば、この月にやとも思ふ。相撲の還饗なども、ののしるをばよそに聞く。」
◆◆「来月にも死ぬであろう」とのお告げも先月にあったので、今月に死ぬのかとも思う。
相撲の還饗なども、みなが騒いでいるけれども他所事のように聞いていました。◆◆



「十一日になりて、『いとおぼえぬ夢みたり、とてかうて』など、例のまことにしもあるまじきこともおほかれど、十二日にものして、ものも言はれねば、『などかものも言はれぬ』とあり。『なにごとをかは』といらへたれば、『などか来ぬ、とはぬ、にくし、あらかし、とて、打ちもつみもし給へかし」と言ひ続けらるれば、『きこゆべきかぎりの給ふめれば、なにかは』とてやみぬ。つとめて、『いま、この経営すぐしてまゐらんよ』とて帰る。十七日にぞ還饗と聞く。」
◆◆十一日になって、「まったく思いもよらぬ夢を見た。とにかくそちらに伺ってから」などとあの人から、いつものように信じられないようなことが多く書いてあるけれども、十二日に来て、私は拗ねて一言も何も言わないでいると、「どうして何も言われないのだ」と言う。「何を申し上げたらよいのでしょう。何もありません」と答えると、「どうして来ないのか、どうして便りをくれないのか、憎らしい、切ないと言ってぶったりつねったりしなさいよ」と続けざまに言われるので、「私の申しあげたいことをみなおっしゃったようですから、私からはもう申し上げることはございません」と言ってそのままにしました。翌朝、「そのうちこの仕事(還饗)を終えたら又来るよ」といって帰りました。十七日が還饗だったとか聞きました。◆◆



「つごもりになりぬれば、契りし経営おほくすぎぬれど、今はなにごともおぼえず。慎めといふ月日ちかうなりにけることを、あはれとばかりおもひつつふる。」
◆◆月末になって、約束したあの行事が済んで相当日が経ったけれど、(あの人は来ず)今はもうなんとも思わず、慎めと言われた月日が終わり近くなって死期が迫ったことを、ただしんみりと思いながら暮してします。◆◆

■相撲の還饗(すまいのかえりあるじ)=相撲の節会の後の接待

■契りし経営(けいめい)=約束した還饗のことが


蜻蛉日記を読んできて(162)

2017年01月23日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (162) 2017.1.23

「七月十よ日になりて、客人帰りぬれば、名残なうつれづれにて、盆のことの料など、さまざまになげく人々のいきざしを聞くも、あはれにもあり、やすからずもあり。
四日、例のごと調じて、政所の送り文そへてあり。いつまでかうだにと、物は言はで思ふ。」

◆◆七月も十日すぎになって、父の関係の客人たちが帰ってしまってから、そのにぎわいもなくなってひっそりとするにつけて、盆供養の品々をどうしようなどと侍女たちの溜息まじりの口吻を聞くにつけても、胸が痛むし、心おだやかではいられない。十四日になって、例年のように供物を整えて、政所の送り状を添えて、(兼家宅から)届けてきました。こうしたことがいつまで続くものかしらと、口には出さず、内心思ったことでした。◆◆

【解説】 蜻蛉日記下 上村悦子著より

……父の関係の客人たちの目に、夫の訪れの絶えたわが身がどう映るのかと気になる作者です。

蜻蛉日記を読んできて(161)

2017年01月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (161) 2017.01.20

「大夫、そばのもみぢのうちまじりたる枝に付けて、例のところにやる。
<夏山の木の下露のふかければかつぞなげきの色もえにける>
返りごと、
<露にのみ色もえぬれば言の葉をいくしほとかは知るべかるらん>
など言ふほどに、宵居になりて、めづらしき文こまやかにてあり。廿よ日いとたまさかなりけり。あさましきことと目馴れにたれば、いふかひなくて、なにごころなきさまにもてなすも、わびぬればなめりかしとかつ思へば、いみじうなんあはれに、ありしよりけにいそぐ。

◆◆大夫が紅葉のまじったそばの木の枝につけて、例の大和の女のところへ歌を送る。
(道綱の歌)「夏山では木々が繁って露が多くしたたり落ちるので、青々と繁る一方ではこんなに紅葉するのでした。私もあなたを恋う涙がしきりに流れるので、わたしの嘆きの模様はますます目に立つようになりました。」
返事は、
(大和の歌)「露だけで葉がこんなに美しく紅葉しましたが、同様にあなたの御言葉も幾度、濃く色よく作り上げられた美辞麗句なのでしょう」
などと言ってきましたが、そのうちに夜中まだ起きているときに、珍しくあの人から情のこもったお手紙がきました。二十日あまりでほんとうに久しぶりでした。こんな状態には馴れてしまっているので、今さらどうという感情もないけれど、あの人端無関心に振る舞いながらも一方ではこんな手紙を寄こしたりして気を使っているのだなあと思うと、ひどく気の毒になって、いつもより返事を急いで書きました。◆◆



「そのころ県ありきの家なくなりにしかば、ここに移ろひて、類おほくことさわがしくて明け暮るるも、人目いかにと思ふ心あるまで音なし。」

◆◆そのころ、地方任官の父の家がなくなったので、皆がこちらに移ってきて、我が家に親戚の者達が多くなってにぎやかに明け暮れしているものの、その人たちの目にどう映っているのかと思うほど、あの人からの訪れは無いのでした。◆◆


■そば=にしき木の古名。紅葉が美しい。今は六月だが季節はずれに紅葉したもの。


蜻蛉日記を読んできて(160)

2016年12月30日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (160) 2016.12.30

「かくて、つれづれと六月になしつ。東面の朝日の気、いと苦しければ、南の廂に出でたるに、つつましき人の気ぢかくおぼゆれば、やをらかたはら臥して聞けば、蝉の声いと繁うなりにたるを、おぼつかなうてまだ耳を養はぬ翁ありけり、庭はくとて箒をもちて木の下に立てるほどに、にはかにいとはやう鳴きたれば、おどろきてふりあふぎて言ふやう、『よいぞよいぞといふなは蝉来にけるは。虫だに時節を知りたるよ』とひとりごつにあはせて、しかしかと鳴き満ちたるに、をかしうもあはれにもありけん心ちぞあぢきなかりける。」

◆◆こんなふうに、することもなく退屈な日をすごすうちに、六月になってしまったのでした。東の部屋は朝日が射して寝苦しいので、南の廂に出ていると、人の気配がしてはばかれるので、そっと横になって聞いていると、蝉の声がもう大分鳴いているのに、耳が遠くてまだ蝉の声を聞いていない老人がして、庭を掃こうと箒を手に持って木の下に立っているときに、急に蝉が激しく鳴きはじめたので、はっと気がついて、上を見上げて言うには、「よいぞ、よいぞと鳴くなわ蝉が来よったわい、虫すら時節を知っているよ」と独り言を言うのに合わせて、蝉が「しか、しか、そうじゃ、そうじゃ」とあたり一面に鳴き満ちたので、可笑しくもあり、胸打たれもしたのでしたが、思えばどうしようもない索漠とした思いでした。◆◆

■なは蝉=諸説あるが、不明。

■しかしか=蝉の鳴き声の擬音。それが、然か然か(そうだ、そうだ)と肯定しているように聞こえる。

■あぢきなかりける=思うようにならず、手のつけようもない意。それに対して愛想を尽かし、もはや何事も無用だ、にがにがしいとながめている気持ち。


●次回は2017年1月20日頃から。どうぞよろしく。●


蜻蛉日記を読んできて(159)

2016年12月25日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (159) 2016.12.25

「十日になりぬ。今日ぞ大夫につけて文ある。『なやましきことのみありつつ、おぼつかなきほどにけるを、いかに』などぞある。

◆◆十日になりました。やっとあの人から大夫にことづけて手紙がありました。「気分がすぐれない日が続き、すっかりご無沙汰してしまったけれど、いかがお過ごしか」なとどあります。



「返りごと、又の日ものするにぞ付くる。『昨日はたちかへりきこゆべき思ひたまへしを、このたよりならではきこえんにも、便なき心ちになりにければなん。<いかに>とのたまはせたるは、何か、よろづことわりに思ひたまふる。月ごろ見えねば、なかなかいと心やすくなんなりにたる。<風だに寒く>ときこえさすれば、ゆゆしや』と書きけり。日暮れて、『かもていつみにおはしつれば、御かへりもきこえで帰りぬ』と言ふ。『めでたのことや』とぞ、心にもあらでうち言はれける。」

◆◆返事は、翌日大夫が伺うのにことづけました。「昨日はすぐにお返事を申し上げたいと思いましたが、大夫が伺うついででなければ具合が悪いような気持ちになってしまいましたので、「変わりはないか」とのことですが、なんの心配後無用でございます。幾月もお目にかからないので、かえって気楽に思うようになりました。「風だに寒く」の古歌どおりと申しますと、あなたを「見え来ぬ人」にしては大変でございますね、と書きました。日が暮れてから道綱が帰って来て、「賀茂の泉にお出ましでしたので、お返事も差し上げずに帰ってきました」といいます。「まあ、結構なことですこと」と思わず知らず口から漏れてしまいました。◆◆



「このごろ雲のたたづまひしづごころなくて、ともするば田子の裳裾思ひやらるる。ほととぎすの声もきかず。ものおもはしき人は寝こそ寝られざなれ、あやしう心よう寝らるるけなるべし。これもかれも『一夜聞きき』、『このあか月にも鳴きつる』と言ふを、人しもこそあれ、我しもまだしと言はんも、いとはづかしければ、物言はで心のうちにおぼゆるやう、
<我ぞげにとけて寝らめやほととぎすもの思ひまさる声となるらん>
どぞ、しのびて言はれける。」

◆◆この頃の天候は、雨雲の行き来があわただしくて、ややもすると、田植えをする農婦たちの裳の裾が泥にまみれるだろうと思いやられることです。ほととぎすの声も耳にしない。物思いのある人は眠れないというけれど、私は妙に快く眠れるせいかなのだろう。だれもかれも「せんだっての夜、聞きました」とか、「今日の夜明け前にも鳴いていましたよ」などと話すのを聞くと、人もあろうに、この私がまだ耳にしていないというのも、とても恥ずかしいので、黙ったまま、心の中に思い浮かべるには、
(道綱母の歌)「物思う私がぐっすり眠るわけがない。苦悩のまさる私の嘆きが、ほととぎすの悲痛な叫びとなっているのだろう」
と、そっとつぶやかれるのでした。◆◆


■月ごろ見えねば=兼家は三月二十七日の昼間以来訪れていない。

■風だに寒く=古歌「待つ宵の風だも寒く吹かざらば見え来ぬ人をうらみましやは」

■かもていつみ=未詳。「賀茂の泉」に改訂案あり。下賀茂神社の東にある出雲井於神社(いずもいのうえのじんじゃ)の清泉という。

■めでたのことや=兼家が「気分が悪くて」といいながら、作者の邸に来ず、そんなところへ外出するなんて結構なことね、と皮肉った。