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永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(177)

2017年03月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (177) 2017.3.20

「東の門の前なる田ども刈りて、結ひわたして懸けたり。たまさかにも見え訪ふ人には、青稲刈らせて馬に飼ひ、焼米せさせなどするわざに、おりたちてあり。小鷹の人もあれば、鷹ども外にたちいでてあそぶ。例のところにおどろかしにやるめり。」

◆◆東の門の前にある田を刈って、その稲を束にして稲掛けにかけてある。たまたま訪れてきた人には、青い実の入っていない稲を刈らせて馬の飼葉に与えたり、焼米を作らせたりする仕事を、私自身、身を入れて指図もします。小鷹狩ををする大夫もいるので、その鷹が何羽も外に出て遊んでいます。大夫は例の大和の女のところへ手紙を届けるようです。◆◆



「<狭衣のつまも結ばぬ玉の緒の絶えみ絶えずみ世をやつくさん>
返りごとなし。又ほどへて、
<露ふかき袖に冷えつつあかすかな誰長き夜のかたきなるらん>
返りごとあれど、よし、書かじ。」

◆◆(道綱の歌)「あなたに相手にされぬまま、命のあるかないかの有様で一生を終えるのでしょうか。」
返事はなく、又少し経って、
(道綱の歌)「私は独り寝の涙にぬれた袖に冷えつつ寂しい夜をあかしますが、この秋の夜長をあなたと過ごす男の人はいったいだれなのでしょう」
返事はあったけれど、まあまあ、書かないでおきましょう。◆◆

■焼米(やいごめ)=「やきごめ」の音便。籾のままの米を炒り、それを搗いてもみがらを取り去った米。新米。

■小鷹(こたか)=隼(はやぶさ)やハシタカなどの小型の鷹。小鷹狩は小型の鷹を使って鶉(うづら)などの小鳥を捕まえる狩猟で秋に行われる。

蜻蛉日記を読んできて(176)その2

2017年03月17日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (176)その2   2017.3.16

「山近う川原かたかけなるところに、水は心のほしきに入りたれば、いとあはれなる住まひとおぼゆ。二三日になりぬれど、知りげもなし。五六日ばかり、『さりけるを告げざりける』とばかりあり。返りごとに、『さなんとは告げきこゆとなん思ひし。いと便なきところに、はた難うおぼえしかなん、見たまひなれにしところにて、いまひとたびきこゆべくは思ひし』など、絶えたるさまにものしつ。『さもこそはあらめ。便なかなればなん』とて、あとを絶ちたり。」

◆◆東山が近く、鴨川の川原に接するところで、川の水を思う存分邸内に引き入れてあるので、とても風情のある住まいに思われます。二、三日になるけれど、あの人は気がついた様子もない。五、六日ほどして、あの人から、「引っ越したのを知らさなかったね」とだけ言ってきました。返事に、「引っ越しましたと申し上げねばと思っていました。大層不便なところで、きっとお出でいただけまいと存じましたので。親しみ下さったあの家で、もう一度ゆっくりお話申し上げたいと思っておりましたのに。」などと、もうすっかり縁が切れてしまったかの様なふうに書いて送りました。あの人からは、「そうであろうな。まったく不便なところだそうだから」と言ってよこしたきり、ぱったり音信不通となったのでした。◆◆



「九月になりて、まだしきに格子をあげて見いだしたれば、内なるにも外なるにも川霧たちわたりて、ふもとも見えぬ山のみ見やられたるも、いとものがなしうて、
<ながれての床とたのみて来しかどもわが中川はあせにけらしも>
どぞ言はれける。」

◆◆九月になって、朝、まだ早い時刻に格子をあげて外を眺めると、邸内の流れにも外の川にも川霧が一面に立ち込め、麓も見えない山だけが空にながめやられるのも、とてももの悲しくて、
(道綱母の歌)「辺鄙なところですが(あなたの訪れを)頼みにしていましたが、中川の水が涸れるように私どもの仲も疎遠になってしまったようです」
と口ずさまれたのでした。◆◆


【解説】 『蜻蛉日記』下巻 上村悦子著より

兼家が兵部大輔の時、「世の中をいとうとましげにて、ここかしこ通ふよりほかのありきなどなければ」とあったと同様、兄兼通の専横下、政治的に不遇であった彼は近江のもとへ足しげく通って、作者の所へは足を向けなかったので、とうとう兼家に顧みられなくなったかと思い、荒れ放題の一条西洞院を思い切って人に譲り(道綱の将来を考え貸したのかもしれない)、父倫寧のすすめに従い京の郊外、広幡中川に移転することを決心した、その前後の作者と兼家のやりとりを記した。兼家は作者の移転に対してけわめて冷淡なようである。一夫多妻下本邸に同居しない北の方のあり方とくに年がたけてからの生き方について種々問題を提供している。


蜻蛉日記を読んできて(176)その1

2017年03月13日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (176)その1 2017.3.13

「六七月、おなじほどにありつつ果てぬ。つごもり廿八日に、『相撲のことにより内裏にさぶらひつれど、こちものせんとてなむ、いそぎ出でぬる』などて見えたりし人、そのままに八月廿よ日まで見えず。聞けば、例のところ繁くなんと聞く。移りにけりと思へばうつし心もなくてのみあるに、住むところはいよいよ荒れゆくを、人少なにありしかば、人にものして我が住むところにあらせんといふことを、我がたのむ人さだめて、今日あす広幡中川のほどに渡りぬべし。」

◆◆六月七月は、あの人の訪れはおなじような間隔で過ぎてしまった。七月の月末の二十七日に、あの人が「相撲のことで内裏に伺候していたけれど、こちらに来ようと思って、急いで退出してきた」などと言って見えたけれど、そのままに八月二十日過ぎまで訪れがない。聞くところによると、例の女のところに足しげく通っているとのことです。心が私から移ってしまったと思うと、正気もなくただぼんやり過ごしているうちに、この住居はますます荒れていくし、人も少なでもあったので、これを人に譲って、自分の家(父の家)に住まわせようということを、我が頼みにする父親が取り決めて、今日明日にも広幡中川のあたりに引っ越すことにまったのでした。◆◆



「さべしとはさきざきほのめかしたれど、『今日』などもなくてやはとて、『きこえさすべきこと』とものしたれど、『慎むことありてなん』とて、つれもなければ、『何かは』とて、音もせで渡りぬ。」

◆◆そうする予定だと、以前からほのめかしていたけれど、「今日引っ越すことを知らせなくてはならないと」などというので、「申し上げたいことがございまして」と使いの者に言わせましたが、「慎むことがあって、そちらへ行けない」と、つれない返事でしたので、「何、それなら」と黙って引っ越してしまいました。◆◆

■例のところ=近江の女

■広幡中川=現在の京都御所東方の地域。

蜻蛉日記を読んできて(175)

2017年03月10日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (175) 2017.3.10

「さて例のもの思ひは、この月も時々、おなじやうなり。廿日のほどに、『遠うものする人に取らせん。この餌袋のうちに、袋むすびて』とあれば、むすぶほどに、『出で来にたりや。歌を一餌袋入れて給へ。ここにいとなやましうて、え詠むまじ』とあれば、いとをかしうて、『の給へるもの、あるかぎり詠み入れてたてまつるを、もし漏りや失せん、異袋をぞ給はまし』とものしつ。」

◆◆さて(兼家の訪れのすくないことの)いつもの物思いは、この月も折々につけて変わりがない。そんな二十日ごろにあの人から「遠方に旅立つ人に贈ろうと思う。この餌袋の内に袋をもう一つ作って欲しい」と言って来たので、作っていると、「出来上がったかね。歌をその袋にいっぱい入れてください。私は気分がすぐれず、まったく詠めそうもないが」と言ってきました。なるほど面白そうなので、「ご注文のもの、詠んだだけは全部入れてさしあげますが、ひょっとして、こぼれて無くなってしまうかもしれません、別の袋をくださいませんか」と言ってやりました。◆◆



「二日ばかりありて、『心ちのいと苦しうても、こと久しければなん、一餌袋といひたりしものを、わびてかくなんものしたりし。かへし、かうかう』などあまた書きつけて、『いとようさだまて給へ』とて、雨もよにあれば、すこしなさけある心ちして待ち見る。劣り勝りは見ゆれど、さかしうことわらんもあいなくて、かうものしけり。
<こちとのみ風のこころを寄すめればかへしは吹くも劣るらんかし>
とばかりぞものしける。」

◆◆二日ほど経って、あの人から「気分がよくないのだが、あなたの方の歌の出来方が大分ひまどるので待てず、餌袋いっぱいと頼んだ例のものを、私が苦心してこのように詠んでやった。先方からの返歌はこれこれ」などとたくさん書き付けて、「どちらが優れているか判定して返してください」と言って、雨のふる中を届けてきたので、少し風流な心持ちがして、期待して見ました。兼家の歌の良いものも、返歌で良いものもどちらにも優劣はあるけれども、利口ぶって判定するのも興ざめな気がして、こう言って送りました。
(道綱母の歌)「あなたの方の歌を贔屓目に見るからでしょうか。あなたの歌に比べ、返歌の歌は劣っているように思えます」
とだけ書いてやりました。◆◆

■【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より
…このころ兄兼道は内大臣、関白であり、二月二十九日は女(むすめ)媓子を入内させ、勝手気ままに人事を行い、兼家は憂鬱至極のころであったので作者を相手に冗談を言ってきたり、また作者も明るく冗談を言って応対もしたのだろう。


■餌袋(えぶくろ)=竹駕籠風のもので、網目があり、口も広いので、使いの者がうっかりすると中身を落す恐れがある。

■東風(こち)=こちらの方。兼家の方。


蜻蛉日記を読んできて(174)

2017年03月07日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (174)  2017.3.7

「五月のはじめの日になりぬれば、例の、大夫、
<うちとけて今日だに聞かんほととぎす忍びもあへぬ時は来にけり>
返りごと、
<ほととぎす隠れなき音を聞かせてはかけ離れぬる身とやなるらん>」

◆◆五月のはじめの日になったので、例のように、大夫が、
(道綱の歌)「五月になるとほととぎすが声を忍ばず鳴き出します。きょうこそあなたの本心を聞きたい。」
返事には、
(大和だつ女の歌)「あなたに打ち解けてしまえば、きっと捨てられる身になることでしょう」◆◆



「五日、
<もの思ふに年へけりともあやめ草今日をたびたび過ぐしてぞ知る>
返りごと、
<つもりける年のあやめも思ほえず今日も過ぎぬる心見ゆれば>
とぞある。『いかにうらみたるにかあらん』とぞ、あやしがりける。」

◆◆五日、
(道綱の歌)「あなたゆえの物思いで年が経ったことよ。菖蒲の五月五日を一度ならず過ごした今日、つくづくと思い知りました。」
返事は、
(大和だつ女の歌)「物思いで何年も経ったとは何のことでしょう。あなたは今日も浮気をして過ごす人とおもえますので」
とありました。
大夫は、「何ゆえに恨んでいるのだろうか」と不審がっていました。◆◆


■ほととぎすの歌=大和だつ女の歌。「かけはなれ」の「掛け」に卯の花の「陰」を掛ける。「隠れなき音」に結婚の承諾を響かす。

■つもりけるの歌=「あやめ」に「文目(見分け、聞き分けられる分別)と「菖蒲」を掛ける。この歌は大和だつ女の代詠であろうか。現実の二人の関係と食い違っているようである。

【解説】 蜻蛉日記 下巻  上村悦子著より
……岡一男博士のご指摘のように史実を検討してみると道綱の長男道命阿闇利(どうみょうあじゃり)は作者宅の女房源広女(みなもとのひろしのむすめ)を母として、天延二年に生まれている。(九条家本『小右記』によると寛仁四年七月四日、四十七歳で入寂しているので、逆算すると、天延二年の生誕となる)。したがって天延元年の五月には源広女は道綱の召人(めしゅうど)となっているはずである。こうした浮名が世評にのぼり大和だつ女は承知しなかったのかも知れない。
 作者は源広女と道綱の関係を知りつつ、一夫多妻の折柄、大和だつ女を調査の結果、道綱の妻としてふさわしいと考え、この縁談に乗り気で応援したのだろうか。


蜻蛉日記を読んできて(173)

2017年03月03日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (173) 2017.3.3

「かくて又、廿よ日のほどに見えたり。
さて、三四日のほどに、近う火のさわぎす。おどろきさわぎするほどに、いととく見えたり。風吹きて久しう移りゆくほどに酉すぎぬ。『ささなれば』とて帰る。『<ここにと見聞きける人は、まゐりたりつるよしきこえよとて、帰りぬ>と聞くも、面立たしげなりつる』など語るも、屈しはてにたる所につけて見ゆるならんかし。

◆◆こうして、又あの人は二十日過ぎに見えました。そして、二十三、四日ごろに、近いところで火事騒ぎがありました。びっくりして騒いでいると、あの人が急いで掛け付けてこられました。風が吹いて久しく燃え続けた火が下火になったのは午後六時ごろでした。「もう大丈夫だから」と言って帰られました。侍女たちが『「お殿さまが作者邸にいると知ってきた人は、(自分が)こちらにお見舞いに伺ったことを兼家さまにお伝えしてください、と言って帰りました」と下僕が言うのを聞くにつけ、いかにも面目ありげな感じがいたしました。』などと話すのもすっかり顧みられず、卑屈になりきっている我が家なのだから、そのように感じられるのであろうよ。◆◆



「又つごもりの日ばかりにあり。はひ入るままに、『火など近き夜こそにぎははしけれ』とあれば、『衛士の焚くはいつも』と見えたり。」
◆◆また、月末のころに見えました。入ってくるなり、「火事などが近い夜は、この家もにぎやかだが…」などと言うので、「衛士のたく火のように、私の思いの火はいつも燃え盛っていますわ」と答えたのでした。◆◆

■『衛士の焚くはいつも』=古歌「御垣守(みかきもり)衛士の焚く火の昼は絶え夜は燃えつつものをこそ思へ」を引いている。作者は兼家の「火など近き夜は…」と言ったので、「御垣守」の歌を連想し、余情の「火の無い時は」を「兼家の訪れのない夜は」絶え入る思いをしていると言い、要するに、衛士は火を焚いて夜皇居を守るが、自分は昼は絶え入る悲しい思い(火)をし、夜はあなた恋しさに胸の中で「思ひ」の火をもあしつづけていて、火のないときはないと恨みの言葉で応酬したのである。


蜻蛉日記を読んできて(172)

2017年02月27日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (172) 2017.2.27

「大夫、例のところに文ものす。かごといひつづけてもあらず。これよりも、いと幼きほどのことをのみ言ひければ、かうものしけり。
<みがくれのほどといふともあやめ草なほ下刈らん思ひあふやと>
返りごと、なほなほし。
<下刈らんほどをも知らずまこも草よに生ひ添はじ人は刈るとも>」

◆◆大夫はいつもの所へ手紙を送る。あちらでも、そう逃げ口上を言ってくるのでもない。こちらからもまったく幼稚なことばかり言っているので、私が助け舟を出しました。
(道綱母の歌)「姫君が水に隠れて見えないほどの幼くていらしても、こちら同様に思ってくださっていらっしゃるか、あなたのお気持ちを知りたいのです」
返事は、ごくごく平凡でした。
(大和方の歌)「私はあやめでなくて、つまらない真菰草です。ですから下根を刈るなんてまだ聞いたことがありません。たとえ刈られても生い添うことはありません。ですから、求婚されても添う気はありません。あなたが思ってくださるはずがありませんから」

■ことついつけても=未詳。

蜻蛉日記を読んできて(171)

2017年02月24日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (171) 2017.2.24

「朝廷には、例の、そのころ八幡の祭になりぬ。つれづれなるをとて、いのびやかに立てれば、ことにはなやかにていみじう追ひ散らすもの来。たれならむと見れば、御前どもの中に例みゆる人などあり。さなりけりと思ひて見るにも、まして我身いとほしき心ちす。簾まきあげ、下簾押し挟みたれば、おぼつかなきこともなし。この車を見つけて、ふと扇をさし隠して渡りぬ。」

◆◆朝廷では、例年通り、そのころ岩清水八幡の臨時の祭の時期となりました。何のする事もないので、こっそりと出かけて車を止めて見ていると、特別に華やかに先払いをしてくる者がいます。誰だろうと見ると、先払いの者の中に、我が家にいつも来ている者がいます。そうかあの人の行列かと思って見るにつけ、(その華やかな兼家と比べて)自分自身が惨めに思えてならない。あの人の車は簾を巻き上げ、下簾を左右に推し挟んで開けてあるので、全部丸見えです。私の車を見つけると、さっと扇で顔を隠して通り過ぎました。◆◆



「御文ある返りごとの端に、『<昨日はいとまばゆくて渡りためひにき>と語るは、などかは、さはせでぞなりけん、若若しう』と書きたりけり。返りごとには、『老いのはづかしさにこそありけめ。まばゆきさまに見なしけん人こそにくけれ』などぞある。
又かき絶えて十よ日になりぬ。日ごろの絶え間よりは久しき心ちすれば、またいかになりぬらんとぞ思ひける。」

◆◆あの人から手紙がきたその返事の紙の端に、「侍女たちが<昨日はお殿様はとても恥ずかしそうにお顔をそむけてお通りなさいました。>と話していましたが、あれはどうしてなのでしょうか。そんなことをなさらなくてもよろしいのに。年甲斐もなく」と書きましたっけ。その返事には「年寄りの気恥ずかしさだったのだろうよ。それを顔を背けた様に見た人が憎らしいね」などと書いてありました。またすっかり耐えて十日あまりになってしまいました。いつもより訪問のない感覚が長いような気がするけれども、またどうしてしまったのかなどと思うのでした。◆◆


【解説】蜻蛉日記(下)上村悦子著より

「以前は祭を見物するときも桟敷を無理に都合してくれた(中略)ちょっとも知らせてくれない。道綱も作者に言わなかったのだろうか。時間と体を持て余してした作者なのに。そこで堂々と華やかに先払いをさせて、やってくる一行を認めて、「誰ならむ」と書いたのである。兼家だと気づいたとき、彼の社会的地位の高さ、官人としての権勢を目のあたりに見て、その北の方である自分の置かれた立場のみじめさ、哀れさがしみじみ感じられて、やりきれない思いに駆られたのであろう。(中略)しかし手紙だけはよこしてくれたので、作者もそう気を悪くせず、気軽に兼家の振る舞いを「…若々しう」としたためて送った。また、音さたが絶えて十日余りにもなったので、いったいどうなっているのだろうと案じているが、多妻下の、本邸に迎え入れられなかった上流夫人の、片時も気の休まらない苦しい心情がうかがえる」

蜻蛉日記を読んできて(170)

2017年02月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (170) 2017.2.20

「三月十五日に院の小弓はじまりて出居などののしる。前後わきてさうぞければ、そのこと大夫により、とかうものす。
その日になりて、『上達部あまた、今年やむごとなかりけり。小弓おもひあなづりて念ぜざりけるを、いかならんとおもひたれば、最初にいでて諸矢しつ。つぎつぎあまたのかず、この矢になん刺して勝ちぬる』などののしる。さて又二三日すぎて、『大夫の諸矢はかなしかりしかな』などあれば、まして我も。」

◆◆三月十五日に院の小弓が行われることになって、その練習が始まって大騒ぎです。先手組、後手組に分けて装束を調えるので、その支度を大夫の指図により、あれこれとする。当日になって、あの人が、「上達部が大勢参観して、今年はとても盛大であった。あの子(大夫・道綱)は小弓などとあなどって、練習も真剣にやらなかったので心配していたが、最初に出て、諸矢(二本一組の矢を両方とも)を射当てたのだよ。つぎつぎとその矢が糸口となって、多くの得点を得て勝ってしまったのだ」などと騒ぎ立てて言ってきました。そしてまた、二、三日経ってからも、「大夫の諸矢は素晴らしかったよ」などと言ってよこすので、私はもちろんうれしかった。◆◆

■小弓=小弓(こゆみ)
 短小の弓の総称だが、特に平安時代以来、宮中や仙洞をはじめ広く貴族社会で行われた遊興の的射、及びそれに用いる的弓のことをいう。小弓は遊戯の具で、座したまま左膝を立てて左の肘をもたせかけ、右手を顔近く寄せて射る遊び。

◆写真と参考:風俗博物館 


蜻蛉日記を読んできて(169)

2017年02月16日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (169) 2017.2.16

「さてついたち三日のほどに、午時ばかりに見えたり。老いてはづかしうなりにたるに、いと苦しけれど、いかがはせん。とばかりありて、『方ふたがりたり』とて、わが染めたるともいはじ、にほふばかりの桜襲の綾、紋はこぼれぬばかりして、固紋の表の袴つやつやとして、はるかに追ひ散らして帰るを聞きつつ、あな苦し、いみじうもうちとけたりつるかななど思ひて、なりをうち見れば、いたうしほなえたり。」

◆◆さて(二月)はじめの三日のころに、昼過ぎほどにあの人が見えました。私はすっかり年をとってしまって恥ずかしくて心苦しいけれど、どうしようもない。しばらくして「方角が塞がっているので(泊まれない)」と言って、私が染色をしたから言うのではないけれど、におうばかりの美しい桜襲ねの綾織で、今にもこぼれそうにくっきりとした浮き紋になっている下襲(したがさね)、つやつやとした固紋の表袴(うわばかま)をつけ、遠くまで響く大声で堂々と先払いをさせながら帰っていくのを聞きながら、ああ苦しい!すっかりくつろいだ姿でいたものだわ、と思って自分の姿を見てみると、着古して衣がよれよれになっていること。◆◆



「鏡をうち見ればいとにくげにはあり、またこたび倦じはてぬらんと思ふことかぎりなし。かかることをつきせずながむるほどに、ついたちより雨がちになりにたれば、『いとどなげきのめをもやす』とのみなんありける。」

◆◆鏡をのぞくと、なんと憎らしげな顔つきでもあり、今度こそあの人から愛想をつかされるだろうとつくづく思ったことでした。



「五日、夜中ばかりに世の中さわぐをきけば、さきに焼けにし憎どころ、こたみはおしなぶるなりけり。
十日ばかりにまた昼つかた見えて、『春日へなん。詣づべきほどのおぼつかなさに』とあるも、例ならねばあやしうおぼゆ。」

◆◆五日、夜中に世間が騒がしいので聞くと、以前火事で焼けた憎らしいあの女の家が、今度は丸焼けになったとか。
十日ごろに、あの人が昼ごろ見えて、「春日大社に行かねばならないのだが、その間心配なので」などと、いつものようではなく神妙なので不思議な気がしました。◆◆

■桜襲(さくらがさね)の綾(あや)、紋(もん)はこぼれぬばかりして、固紋(かたもん)の表の袴つやつやとして=襲(かさね)の色目。表が白、裏が濃い蘇芳。綾はあや織物のことで、いろいろの模様を地紋として織り出した絹織物。紋は綾に織り出した模様。固紋と浮紋とがあるがここは浮紋で糸を浮き出すように織った模様。


■固紋=織物の紋様を糸を浮かさず固く締めて織り出したもの。

■憎どころ=憎らしいところ、近江の女の家