紫宸殿です。京都御所が年間を通じて拝観できるようになりました。久しぶりに訪れましたが、外人さんの観客もおおく、入り口では持ち物のチエックをうけました。1855年再建の紫宸殿は150年以上も無事に立っていました。正面の東側に左近の桜、西に右近の橘がありまして、前面の白砂に映えて美しいたたずまいを見せていました。
大阪の吹田市には6台のだんじりがあります。地車で引っ張って巡行するようです。この写真のだんじりは、現在、浜屋敷のだんじり庫に収められている川面町のだんじりです。嘉永7年(1854年)に大工、並河長兵衛兼広の製作によるものです。本体には素晴らしい彫刻が施されています。岸和田にもだんじりがありますが、岸和田では天井に、人間が立ち乗りして走っているようです。
この亀さんどこから来たのかな?京都出町柳の鴨川のながれです。高野川との合流点の中州のデルタ地帯から対岸にかけて飛び石が設けられ、その中に数匹のカメがあしらわれていました。この橋から下流は高野川と合流して、名称も加茂川となり、三条、四条と京の街の中心地に流れくだります。合流後の名称が、加茂川か?鴨川か?と言うことに関しては諸説があるようです。
5メートル四方ぐらいに張られた浅いプール。子供たちの前のほうに上部に水を貯める仕掛けがあり、満タンになると水が飛び出すようでした。水を期待する子供たちに水が飛んできた瞬間です。顔に当たる直前の子供たちの表情のなかに、あふれてはじけている楽しさを見ました。
川べりの落差1メートルぐらいの小さなダムでした。川魚が上る魚道えの道筋で、白鷺が獲物を狙って待っていました。涼を求めて京都高野川、川べりの散策でしたが、目にした白鷺の姿にも涼風をかんじることができました。
大阪大空襲の時は私はまだ小学生のころでした。空一面からヒラヒラと舞い降りてくる、焼夷弾に恐ろしさは別にして、市内の家屋の燃え上がる炎の明るさと、米国の飛行機B29を撃つ高射砲の照明で、それこそ金銀砂子をまくように美しい夜空でした。反して地上は阿鼻叫喚の状況でした。第二次世界大戦⦅和名=大東亜戦争⦆の時です。焼夷弾とは、米軍が日本の民家を壊滅的に破壊するために考案された兵器です。当時の日本の民家は大半が平屋でした。弾一発は直径8センチ、全長50センチ、重さ2、4キログラムのものでした。戦時中のこととて、各家屋は天井板も取り除くように指導されていました。焼夷弾が屋根を突き破って地中に入り込めば発火せず効果がありません。焼夷弾には屋根や天井に絡まって発火できるように、長い紐がつけられていました。現在はこの兵器は国際間で使用禁止になっていますが、つい先日、ソ連が、IS国家の攻撃のときに使用されました。戦に効率的な兵器は、何時の時代であれ、禁止されても使用する国があります。ニユースで焼夷弾の使用をしりますと、その恐ろしさがよみがえります。
若い女性の二人ずれが、海水浴にでも行くようなヘソ出しルックで駅の構内を歩いていました。多くの通行人はチラリと目をはしらせても、このアホといった侮蔑の感じ。この二人は何を見せたかったのか?見られたかったのか? もし、本当に注目されたいのならば、一人で、このスタイルで堂々と歩けばよいのです。《二人で歩けばこわくない》の気持ちでしたら、アホのまるだし最低です。ヤメトケ、ヤメトケ。
民話になっているいこいの村、やすらぎ村、野路町の井戸です。昔々、水飢饉で飲み水にも困るにちにちが有りました。一人の僧が訪れたとある村の村民に、一杯の水を飲ませてくれるように頼みました。しかし自分たちの飲む水もないのにと言ってことわられました。僧はつぎの村まで歩いて行って飲み水を求めましたところ、一杯、二杯とこころよく飲ませてくれました。僧はこれに感謝してかれた井戸に水を湧き出させました。井戸からあふれ出た水は、流れ出してこの村の干ばつした田畑をよみがえらせたと言われています。民話のもとのなったのはこの井戸でした。