隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

難工事の助っ人!!

2016-08-27 06:05:11 | 京の歴史 よもやま
東海道の京都と近江を結ぶ逢坂の関の隣に関寺の長安寺がありました。平安時代にたかさ五丈の大きな弥勒菩薩が安置されていて都の崇敬を受けていました。天延元年(976)の大地震で寺院は壊滅しました。再建に当たり、清水寺から贈られた牛が大いに工事を助けました。実はこの牛は迦葉仏(かしょうぶつ、釈迦の直前の仏)の生まれ変わりで、万寿2年(1025)長安寺の再建と時を同じくして亡くなりました。後に、太政大臣の藤原道長がこの霊牛を供養して大石塔を建てました。それが、写真の牛塔です。逢坂の関にあります。

京の街道を守る

2016-08-20 06:11:52 | 京の歴史 よもやま
京都、山科にある寺院、徳林庵の門前に六角形のかたちに建てられたお堂《六角堂》があります。六角堂は京都の守護、往来安全、庶民の利益をねがって保元2年(1157)年に建立されました。京えの出入ぐちに当たる六街道の各地に設けられています。ここ徳林庵の六角堂は六街道の中で、東海道をまもる守護仏とされています。

道真が産湯のいど

2016-08-17 06:03:50 | 京の歴史 よもやま
京の烏丸丸太町ちかくをそぞろ歩いていましたら菅原院天満宮神社がありました。学問の神様として菅原道真を祀る天満宮神社は、全国各地にあります。しかし少し名称の違う菅原院~はこの地で道真公が誕生され、産湯をつかわれた井戸があるとの理由で、誕生霊地としてまつられていました。                                          


京都御所で一番の建物

2016-07-30 06:41:02 | 京の歴史 よもやま
紫宸殿です。京都御所が年間を通じて拝観できるようになりました。久しぶりに訪れましたが、外人さんの観客もおおく、入り口では持ち物のチエックをうけました。1855年再建の紫宸殿は150年以上も無事に立っていました。正面の東側に左近の桜、西に右近の橘がありまして、前面の白砂に映えて美しいたたずまいを見せていました。

戦前の kusuri看板

2016-06-18 06:22:34 | 京の歴史 よもやま
(おめあらい薬) 京都柳馬場六角ちかくの井上軒上尾庄兵衛の店で、戦前に、袋の寸法は6,5×5,2のcmの大きさで、定価5銭で発売されていた目薬です。文字も右から左え書かれていてかなずかいも旧がなです。江戸時代から近年まで売られていたようです。この店で、京都の伝統薬が官許の京目薬として販売されていました。しかし今ではこれに該当する店舗は、見当たらないようです。

京での 小さな お社

2016-04-30 06:03:08 | 京の歴史 よもやま
大小さまざまな神社仏閣のある京都ですが、こんなに小ぶりな神社がありました。三嶋神社です。この神社はビルの側面に面していまして、参道が主な神域でした。参道の長さは10メートルぐらい、幅は大人二人が並んで歩けるていどのものでした。初めて見た第一印象は、これが神社なの?と云う印象でした。(失礼しました。) この神社は安産、夫婦和合の守護神とされていまして、鰻が神のお使いとして尊ばれています。皇室の崇敬もあつく、現代も秋篠宮殿下が二度参拝されたようです。参道に絵馬をかける祠がありました。ここには夫婦和合をねがう絵馬がいくつも掛けられていました。夫婦和合を願って二匹、子供と一緒で家族の和をねがって三匹、下の方の絵馬には安産をねがってでしょうか、一匹のウナギが描かれていました。

光秀の首塚

2016-02-06 06:03:42 | 京の歴史 よもやま
明智光秀が丹波地方(今の亀岡)の任地に赴任していらい、谷性寺の不動明王を崇敬されました。京都、本能寺で信長を討った時も、この地から出陣しました。豊臣秀吉に信長の敵として追われて山科で落命。この時、溝尾庄兵衛と言われた人が、光秀の首を隠し持ちかえって、後年この寺に持参したしたようです。亀岡の光秀祭や光秀の命日には、現在も回向が行われているようです。

亀山城って?

2016-01-30 06:04:44 | 京の歴史 よもやま
京都府亀岡市の亀山城は、この丹波地方の政治の中心地として、天正7年(1579年)に明智光秀が築きました。寛延元年(1748年)に松平氏が城主となり、明治まで約120年にわたりこの地を治めました。今は現存していないこの亀山城の遺構が、亀岡市内に分散して再建築されています。その中の一つ、旧亀山城の新御殿門が、千代川小学校の校門として使用されています。その御殿門の屋根に松平氏の ”八丁字家紋”をあしらった瓦があります。旧主君の善政を偲ばれての事でしょうか?または建物えの愛着から?なの……

運ばれなかった 巨石

2015-12-30 06:09:57 | 京の歴史 よもやま
大阪城築城のために切り出された巨石が、木津川の河畔にありました。2~3mぐらいの直方体の石でこの近辺に50ヶぐらい在るようでした。石は麗らかな太陽の光を浴び、居眠りをしていました。1620年およそ400年まえに城石垣の修復のために切り出されたものです。それなのに、お役に立てなくて申し訳ないと云うことで、今では(残念石)と呼ばれています。