隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

台風のお土産!

2015-08-29 06:10:06 | 自然 景色 風景 **
琵琶湖のみえるマンションでビル住まいをしています。これまで台風が来るたびに、盆栽や草花などが風に飛ばされないように養生していました。今まであまり被害もなかったので、多分大丈夫だと油断がありました。今回の台風15号は下関近辺から日本海にぬけたのですが、関西では夕方から夜半にかけて、窓ガラスを横殴りにうつ大雨でした。そのうえによそさんがベランダに置かれていたらしいビールの空缶や、空のペットボトルが我が家のベランダにに侵入してきて、台風の風と共に走り回り、見ていると眼がまわりそうでした。また、これを捕まえるのが大変でした。飛び込んできたビールの空き缶は7個、空のペットボトルは2個で計9個、これらが台風の風と共にベランダを走り、飛び回り、その騒音でちょっとした狂騒曲?の演奏会でした。まったく思いがけない出来事にこの台風にはまいりました。

戦後、汽車のなかで…

2015-08-26 06:03:56 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年の終戦時は物がなくて、食料品や衣料品などの配給制度があり、チケットが配られていたようです。私どもの家族が日々の食料を求めて、母方の里、長崎に向かっていた時、下関での汽車の内での出来事です。汽車の窓は上下えのスライド開閉式で車内の上部には網棚がありました。車内は身動きもとれないほどの満員で混雑していました。この網棚に朝鮮民族の人らしきひとが上がって寝そべっていました。下の乗客はあきれた表情でした。この時、乗り合わせていた旧軍隊の憲兵らしき人が、一喝してこの人を網棚から降ろさせたことがありました。この出来事、なんとなく痛快に感じたことを覚えています。旧軍隊の憲兵と云われるひとは、当時は何となく嫌われ者てきな存在だったのですが、この時ばかりは拍手喝采する気分でした。

あたらしい仏画でしょうか

2015-08-22 06:11:52 | その他 気のむくままに
立派な快慶作の阿弥陀三尊を祀る寺院でしたが、欄間とおもはれる処にかけられた仏画に目がとまりました。入寂の涅槃図など、おおくの仏画がありますが、この仏画は絵の中心部に竜巻のような絵柄があり竜巻の最上部は竜の頭になっています。この箇所を三人の僧らしき人が見つめています。新しいどなたかの昇天の絵なのでしようか?     洞泉寺にて

 残酷 ソ連の兵士…

2015-08-19 06:05:39 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦時中、わたくしの1~2歳年上の人は、満蒙開拓義勇軍として、お国のために満州の荒野の開拓にいきました。聞くと見るとでは大違いで水も電気もない大変な荒野だったようです。そしてポツダム宣言により終戦まじかの1945年8月8日に、ソ連が日本に宣戦を告げ、9日から参戦して日本人を攻撃してきました。8月15日の終戦当日に、日本人の避難民約千数百人、その9割以上が婦女子でしたが、ソ連軍の兵士によって暴行、姦淫、虐殺されました。これが⦅葛根廟事件⦆です。戦争中のたたかいでは、野蛮な時代の人から現代の人まで、勝ち組の兵士が残酷なおこないをします。この時の鬼、畜生はソ連兵士でした。戦争時の隠れた闇の部分です。ソ連はこの一週間のあいだに多くの日本人を殺傷し,生存者たちをシベリヤに抑留してかこくな労働をさせました。クナシリ等、北方4島も占拠しています???……火事場泥棒的な参戦で、もひとつ納得できません。

毎日が猛暑です

2015-08-12 06:07:30 | 自然 景色 風景 **
この暑さ堪りません。冬の気候とどちらが過ごしやすいか、つい思案したりです。湖の向こう、山のはに立ち上る入道雲。薄墨色にみえます。この雲の下雷が落ちる危険があり、以前、観光地の駐車場に落雷があって犠牲者があったりしました。
今、第100回の記念高校野球大会がひらかれており、さすがに甲子園球場に雷鳴がひびくとゲームが中断されているようです。この雲が立ち上がったらお互いに気をつけましょう。

願かけしました

2015-08-10 09:33:03 | その他 気のむくままに
源内塚。この塚は平治の乱(1159)で源氏が平家に敗れ,源義明は近臣とともに中山道を東国え逃れました。道中で仲間とはぐれ、ただ一騎通行していました。そのとき源内兵衛真弘と云う者が《落人を捕らえよ》と云う六波羅の命令に従い、義明を下乗させようとして義明に切り倒されました。 これを憐れんだ村人が祠をたてて祀りました。塚の前の霊験のあるこの丸い石に、願い事をして持ち上げることができれば願いがかなうとか!! 私も元気で○○才まで長生きと願いまして持ち上げました。希望はあるようでした。タノミマッセ!!    《滋賀守山にて》

終戦 ま近の弔いは…

2015-08-08 06:00:39 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年(1945)、大都市のほとんど、そして中小都市も無差別に爆撃されて、無数の死傷者がでました。8月6日には広島,9日には長崎に原爆が投下されて終戦になりました。この年は私ども家族は大阪市の住吉に住んでいました。3月13日の大阪大空襲から1週間ほどのちの日に、居宅で80歳の祖母がなくなりました。大阪が壊滅的な爆撃をうけて、多数の死傷者がでた時期です。葬儀は僧の読経のあと棺桶は家族でリヤカーを引いて火葬場にはこびました。その火葬場には火葬をまつ棺桶が山ずみされていました。何時焼いてもらえるのか分からない状態でした。何時になるのか何日も確認にいきました。今日、現在では考えられないことです。こんな出来事があって戦後70年をけいかしました。現在の平和な暮らしには、感謝、感謝の気持ち無しでは過ごせない、思いでいっぱいす。

戦争中、京にも爆弾が落ちました

2015-08-05 05:55:04 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦時中、爆撃がなかったことでは平穏な生活を過ごしていた京都です。しかしながら私が京都に住んでいた時。爆弾の投下で、爆弾が風をきる、《シュルゥ、シュルゥ、シュルゥ、》と鳴る落下のときの、風をきる音を聞いたことがあります。大阪での何回かの経験から、とっさに道端の家屋の影に走りこんで伏せの姿勢を取った経験があります。爆弾は加茂川の荒神橋近くに落ちていました。この時は私の近辺には誰もいなくて、子供の私一人だったことも記憶のなかで印象に残っています。 

運 って…?

2015-08-01 06:10:40 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦後、私ども家族は京都の出町柳に住んでいました。京都は米国のB29爆撃機の被害をうけることもなく、街ぜんたいが何事もなく日常の生活を送っていました。京都が無傷でいられたのは米国のウオーナー博士が、京都にある数多くの文化財の保護運動をされた御かげときかされています。他方、京都は世界でも有名な文化財の都市であり、地形が鉢底のような盆地です。京都に原爆を投下すれば、完全に破壊できるので、その恐ろしさを世界に知らせるための、原爆投下の第一候補だつたようです。わたくしが京都に住んでいた時、西大路五条の近くに丸い型のガスタンクがありました。このタンクが原爆投下の目標だったと聞かされたことがあります。もし京都が初回の原爆投下地であったとすれば、当然このブログは送れていません。地球上の大きな人類生存の流れの中に、個人としてはどうすることも出来ない、時や運の流れと云ったような、何か目に見えないものが?関わっているのをかんじます。