隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

戦時中の焼夷弾って

2016-07-13 05:56:40 | 戦中派の体験エッセイ…!!
大阪大空襲の時は私はまだ小学生のころでした。空一面からヒラヒラと舞い降りてくる、焼夷弾に恐ろしさは別にして、市内の家屋の燃え上がる炎の明るさと、米国の飛行機B29を撃つ高射砲の照明で、それこそ金銀砂子をまくように美しい夜空でした。反して地上は阿鼻叫喚の状況でした。第二次世界大戦⦅和名=大東亜戦争⦆の時です。焼夷弾とは、米軍が日本の民家を壊滅的に破壊するために考案された兵器です。当時の日本の民家は大半が平屋でした。弾一発は直径8センチ、全長50センチ、重さ2、4キログラムのものでした。戦時中のこととて、各家屋は天井板も取り除くように指導されていました。焼夷弾が屋根を突き破って地中に入り込めば発火せず効果がありません。焼夷弾には屋根や天井に絡まって発火できるように、長い紐がつけられていました。現在はこの兵器は国際間で使用禁止になっていますが、つい先日、ソ連が、IS国家の攻撃のときに使用されました。戦に効率的な兵器は、何時の時代であれ、禁止されても使用する国があります。ニユースで焼夷弾の使用をしりますと、その恐ろしさがよみがえります。

パーマは 駄目だ ✖

2016-03-23 05:56:54 | 戦中派の体験エッセイ…!!
こんな歌が流行っていました。歌詞の面白さと、リズム感があったのでよく口ずさんでいました。(パーマネントに火がついて、見る見るうちに禿げ頭、禿げた頭に毛が三本、ああはずかしやはずかしや、パーマネントは止めましょう。)盧溝橋事変があり、日中戦争え突入の当時の標語で、パーマネントは止めましょう。と云うのがありました。パーマの業界に国産の機械がでてきて、普及が始まったばかりでした。戦時中のこととて物資ふそくで、国民の贅沢心を抑えるための標語だったようです。昭和14年に国民精神総動員委員会は、学生の長髪やパーマ禁止の運動方針を決定しました。かんぜんな禁止ではなかったので、国民も、心にすこしはゆとりが生まれていたようです……?

汽車のトイレは?

2015-09-05 06:17:54 | 戦中派の体験エッセイ…!!
終戦後、昭和22年ごろに、京都から九州えの汽車に乗りました。客車は満員スシ詰め状態でした。下関駅につくと男性は客車から地上に降りて立ちションでした。それで思ったのですが、当時の沿線はまだ都市開発がなく、東海道線でもこんな情景で、走行中の汽車は、大小の便意を線路上に垂れ流していたようです。沿線の畑では人糞を肥料として利用する時代でした。汽車からの肥料散布は、手間がはぶけて歓迎だったのでしょうか?それにしても汽車ポッポが走っているときに、窓をあけていたら、大小の黄いろい飛沫の害にあわなかったのかな?戦後70年といいますが、その頃はごくあたりまえの出来事だったようです。しかし、現代の欧州では今でもたれ流しの国があるようです。《十年一昔》です。昔々のこととはいえ、綺麗な話でした。                                                    キレイナハナシデ ゴメンナサイ

戦後、汽車のなかで…

2015-08-26 06:03:56 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年の終戦時は物がなくて、食料品や衣料品などの配給制度があり、チケットが配られていたようです。私どもの家族が日々の食料を求めて、母方の里、長崎に向かっていた時、下関での汽車の内での出来事です。汽車の窓は上下えのスライド開閉式で車内の上部には網棚がありました。車内は身動きもとれないほどの満員で混雑していました。この網棚に朝鮮民族の人らしきひとが上がって寝そべっていました。下の乗客はあきれた表情でした。この時、乗り合わせていた旧軍隊の憲兵らしき人が、一喝してこの人を網棚から降ろさせたことがありました。この出来事、なんとなく痛快に感じたことを覚えています。旧軍隊の憲兵と云われるひとは、当時は何となく嫌われ者てきな存在だったのですが、この時ばかりは拍手喝采する気分でした。

 残酷 ソ連の兵士…

2015-08-19 06:05:39 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦時中、わたくしの1~2歳年上の人は、満蒙開拓義勇軍として、お国のために満州の荒野の開拓にいきました。聞くと見るとでは大違いで水も電気もない大変な荒野だったようです。そしてポツダム宣言により終戦まじかの1945年8月8日に、ソ連が日本に宣戦を告げ、9日から参戦して日本人を攻撃してきました。8月15日の終戦当日に、日本人の避難民約千数百人、その9割以上が婦女子でしたが、ソ連軍の兵士によって暴行、姦淫、虐殺されました。これが⦅葛根廟事件⦆です。戦争中のたたかいでは、野蛮な時代の人から現代の人まで、勝ち組の兵士が残酷なおこないをします。この時の鬼、畜生はソ連兵士でした。戦争時の隠れた闇の部分です。ソ連はこの一週間のあいだに多くの日本人を殺傷し,生存者たちをシベリヤに抑留してかこくな労働をさせました。クナシリ等、北方4島も占拠しています???……火事場泥棒的な参戦で、もひとつ納得できません。

終戦 ま近の弔いは…

2015-08-08 06:00:39 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年(1945)、大都市のほとんど、そして中小都市も無差別に爆撃されて、無数の死傷者がでました。8月6日には広島,9日には長崎に原爆が投下されて終戦になりました。この年は私ども家族は大阪市の住吉に住んでいました。3月13日の大阪大空襲から1週間ほどのちの日に、居宅で80歳の祖母がなくなりました。大阪が壊滅的な爆撃をうけて、多数の死傷者がでた時期です。葬儀は僧の読経のあと棺桶は家族でリヤカーを引いて火葬場にはこびました。その火葬場には火葬をまつ棺桶が山ずみされていました。何時焼いてもらえるのか分からない状態でした。何時になるのか何日も確認にいきました。今日、現在では考えられないことです。こんな出来事があって戦後70年をけいかしました。現在の平和な暮らしには、感謝、感謝の気持ち無しでは過ごせない、思いでいっぱいす。

戦争中、京にも爆弾が落ちました

2015-08-05 05:55:04 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦時中、爆撃がなかったことでは平穏な生活を過ごしていた京都です。しかしながら私が京都に住んでいた時。爆弾の投下で、爆弾が風をきる、《シュルゥ、シュルゥ、シュルゥ、》と鳴る落下のときの、風をきる音を聞いたことがあります。大阪での何回かの経験から、とっさに道端の家屋の影に走りこんで伏せの姿勢を取った経験があります。爆弾は加茂川の荒神橋近くに落ちていました。この時は私の近辺には誰もいなくて、子供の私一人だったことも記憶のなかで印象に残っています。 

運 って…?

2015-08-01 06:10:40 | 戦中派の体験エッセイ…!!
戦後、私ども家族は京都の出町柳に住んでいました。京都は米国のB29爆撃機の被害をうけることもなく、街ぜんたいが何事もなく日常の生活を送っていました。京都が無傷でいられたのは米国のウオーナー博士が、京都にある数多くの文化財の保護運動をされた御かげときかされています。他方、京都は世界でも有名な文化財の都市であり、地形が鉢底のような盆地です。京都に原爆を投下すれば、完全に破壊できるので、その恐ろしさを世界に知らせるための、原爆投下の第一候補だつたようです。わたくしが京都に住んでいた時、西大路五条の近くに丸い型のガスタンクがありました。このタンクが原爆投下の目標だったと聞かされたことがあります。もし京都が初回の原爆投下地であったとすれば、当然このブログは送れていません。地球上の大きな人類生存の流れの中に、個人としてはどうすることも出来ない、時や運の流れと云ったような、何か目に見えないものが?関わっているのをかんじます。

憲兵に ビンタされた小学生

2015-07-25 06:13:55 | 戦中派の体験エッセイ…!!
私が小学生のころは、校庭に奉安殿と言われる2メートル四方ぐらいの建物があり天皇陛下の写真が入っていたようです。その奉安殿に向かって教師生徒ぜんいんが整列し朝礼がありました。当時朝礼には軍隊の憲兵(軍隊組織のポリス)と言われる人がきていたのですが、私が一年生の朝礼のときに《貴様めん玉がうごいとる…》と一喝されて頬っぺたにビンタをうけました。その時は、何故なのか、まったく理解できませんでした。戦時中の忘れられない思い出の一つです。当時の国語の教科書…最初のページ、2~3ねん先輩の人は(咲いた咲いた桜が咲いた)だったようです。私たちの時は国語の教科書としてガリ版刷りのペラ一枚をわたされ、順番に綴じこんで本にする時代でしたので、内容については一切覚えていません。音楽の時間にはドレミが敵性語だとゆうことで音階がハヒフヘホでしめされ、ドレミではなくて、(ハホト)(ハヘイ)と歌わされた記憶があります。

戦後の食料難に……

2015-07-15 05:58:30 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年の終戦後は食料品の配給制度がありましたが絶対量が不足していました。時には米の代わりにザラメの砂糖が配られたこともありました。市民は食料品の確保にいろいろな困難を経験されたようです。当時、わたしたち家族は京都市に住んでいました。郊外の近畿日本鉄道の寺田駅近辺は有名なさつま芋の産地でした。市民の人びとは着物とか貴重品を持参して、農家の人々と物々交換でさつま芋を入手していました。それでも、時々、京都駅につくとヤミ取得食品の取り締まりがあって、入手したさつま芋を没収されたりしていたようです。いまでこそ寺田地方は開発されて、京都府南部の中核都市、人口約8万人の城陽市となっています。