隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

厄除けのひとつです。

2015-07-29 06:02:07 | その他 気のむくままに
弓矢の厄除けです。厄よけには民家での鬼瓦や,地域全体の厄よけを願ったかんじん縄などが、よく知られているようです。これは民家での厄よけですが家屋玄関の梁にかけられた弓とその上部にかけられた矢です。弓矢で悪魔を退散させる例はあまり見かけませんでしたので、珍しい厄除けのひとつです。
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憲兵に ビンタされた小学生

2015-07-25 06:13:55 | 戦中派の体験エッセイ…!!
私が小学生のころは、校庭に奉安殿と言われる2メートル四方ぐらいの建物があり天皇陛下の写真が入っていたようです。その奉安殿に向かって教師生徒ぜんいんが整列し朝礼がありました。当時朝礼には軍隊の憲兵(軍隊組織のポリス)と言われる人がきていたのですが、私が一年生の朝礼のときに《貴様めん玉がうごいとる…》と一喝されて頬っぺたにビンタをうけました。その時は、何故なのか、まったく理解できませんでした。戦時中の忘れられない思い出の一つです。当時の国語の教科書…最初のページ、2~3ねん先輩の人は(咲いた咲いた桜が咲いた)だったようです。私たちの時は国語の教科書としてガリ版刷りのペラ一枚をわたされ、順番に綴じこんで本にする時代でしたので、内容については一切覚えていません。音楽の時間にはドレミが敵性語だとゆうことで音階がハヒフヘホでしめされ、ドレミではなくて、(ハホト)(ハヘイ)と歌わされた記憶があります。
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八幡神社の社銘のなかに

2015-07-22 06:07:37 | その他 気のむくままに
各地、八幡社の社名を記した掲額のなかには鳩が描かれているようです。この写真ではピント外れでよく見分けられないのですが、確かに八の字で二羽、幡と社の文字の中にも鳩が描かれているようです。三つの文字のなか、それぞれに鳩がいるのは珍しいと聞かされたのでが…… そんな見方をしてなかったのでよく判りません。
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この花は七変化……

2015-07-18 06:10:29 | ベランダ 小鉢に見る四季
花の色の鮮やかさに惹かれて買い求めた草花ランタナレッドです。和名で七変化と云われています。花が散って棚のすみで忘れられた存在でしたが、和名の七変化のとおりに、気ずかないうちに実がなっていました。実成りの姿にまた違った魅力を感じています。
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戦後の食料難に……

2015-07-15 05:58:30 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年の終戦後は食料品の配給制度がありましたが絶対量が不足していました。時には米の代わりにザラメの砂糖が配られたこともありました。市民は食料品の確保にいろいろな困難を経験されたようです。当時、わたしたち家族は京都市に住んでいました。郊外の近畿日本鉄道の寺田駅近辺は有名なさつま芋の産地でした。市民の人びとは着物とか貴重品を持参して、農家の人々と物々交換でさつま芋を入手していました。それでも、時々、京都駅につくとヤミ取得食品の取り締まりがあって、入手したさつま芋を没収されたりしていたようです。いまでこそ寺田地方は開発されて、京都府南部の中核都市、人口約8万人の城陽市となっています。
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頭のうえ ふた無し

2015-07-11 06:09:37 | 楽しい鬼がわら
鬼瓦は屋根の上にあって厄払いに睨みを利かせているものではあります。地上に降ろされていたこの鬼瓦は、下のほうから眺めるものであったとしても、頭の上には何もないようです。それでいて角のあいだには宗派のマークのようなものが見えます。何かな?、頭の上は手抜き?(洞泉寺にて)
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戦時中の集団疎開

2015-07-08 06:10:03 | 戦中派の体験エッセイ…!!
大阪市の住吉国民学校で小学生2年のときに集団疎開にいきました。⒈クラス50人位が担任の男性教師と寮母と言われた女性2人とで岸和田にあるお寺に疎開しました。その時は親もとを離れるとゆう違和感もとくに無くて、到着した時には現地の小学生の歓迎をうけました。疎開と云いますのは未来の兵員を確保するための国のがつこう政策だったようです。学校に行って勉強することもなく、寺の回廊に座って仲間と下着を交換してシラミ退治をしたことが印象にのこっています。風呂はごきんじょの何軒かの民家に、数人ずつわかれて使わせてもらいました。毎日のする予定もほとんど有りませんので、近くの池に食べるために魚つりに行ったりしました。このようなのんびりした生活の中でも、実家が恋しくなり、逃げ出す生徒がいたりしましたが、道中でつかまえられると顔が腫れあがるぐらい叩かれていました。現在であれば、教師の体罰として大変な事件になるところです。ある日寮生全員で田んぼのあぜ道をとおって近辺の山のほうに歩いていましたら、米国のグラマン戦闘機に機銃掃射されまして、いそいで山に向かって逃げるように走った経験があります。山すその深さ50センチぐらいの溝に飛び込みましたが、爆弾のようなものを落とされて防空頭巾のうえから土をかぶった経験もあり恐ろしい思いをしました。後日に知ったのですが、戦時中、日本のあちらこちらでグラマンの機銃掃射を受けたひとびとがいらっしゃるようです。子供と知りながらの攻撃でした。未来の兵員を絶やすためだったようです。
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狛犬に♂♀あるの?

2015-07-04 06:15:13 | その他 気のむくままに
神社の本殿まえに座っていたコマイヌさん、このお宮さんではオスメスが区別されていて、それらしい部品が個々にありました。阿吽のコマイヌの社殿に向かって右側のコマイヌさんさんは♀さんで、左側のコマイヌさんは♂でした。この写真のコマイヌは♂の部品をもっています。珍しい狛犬です。(薬園八幡神社)
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大阪大空襲にあいました

2015-07-01 06:07:07 | 戦中派の体験エッセイ…!!
昭和20年(1945)3月13日に第二次世界大戦の大阪大空襲を経験しました。わたくしは小学生で学校からの集団疎開中でしたが、たまたま住吉の実家にかえっていて空襲にあいました。大阪市の上空にアメリカのB29型爆撃航空機、274機が飛来して、市内の中心部を重点的に無差別爆撃が行われました。当時の住吉区は大阪市の街はずれにあたりましたので、空襲での被害はほとんどありませんでした。しかし市の中心部では4000人の死者がでました。父の職場が市内にあり、焼滅しましたので、後日わたしども家族は京都市に移りすみました。当時の市民は家のなかに防空壕を掘っていた家庭もあったようで、官庁からの指導があったとしても、まったく自殺行為だったようです.私たちの住む町内は広場に防空壕があり、おおぜいの人が入っていました。私は子供心に空襲の恐ろしさが理解できずに、歌を口ずさみましたら大人の人に叱られた記憶があります。当日は見上げる空一面から焼夷弾がおちてきまして、地上から見ると金銀砂子と言う言葉がありますが、ちじょうの地獄絵は別次元としても、もうしわけないのですが大変うつくしい満天の夢のようなせかいでした。その年の8月には広島と長崎に原子爆弾が投下されて,軍隊に関係のない民間人が無差別に殺傷され同じ8月に終戦となりました。いつの時代でも勝てば官軍負ければ賊軍で、戦時中はアメリカ、英国を、鬼畜米英といいましたが、まさしく鬼畜のするような攻撃がおこなわれました。いかなる場合であっても人間が人間を殺傷する戦争はするものでわありません。日本国憲法第9条平和憲法を護るべきです。
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