隣のお父さんの、見たこと、聞いたこと、感じたこと

季節を教えてくれる小鉢のミドリ、自然の風景、私の興味をそそる鬼瓦、コレクションの煙草の包装紙、文化etc‥‥、

大阪大空襲・・・

2017-09-23 06:16:51 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
1945年(昭和20年)3月13日は大阪大空襲の日でした。当日の夜間に100機以上の飛行機、米国B29 が飛来して焼夷弾を落としました。地上で家屋の燃える炎と、敵機をさがす日本軍隊のサーチライトの光で、空は真昼のように明るくなりました。投下された焼夷弾が、実際は直線的に落ちてくるのですが、揺れ動いて舞い降りてくるように見えました。空ぜんたいが金銀砂子を振りまいたように、それはそれは美しい空でした。しかしながら地上は焼きつくされて1万人以上が死亡した阿鼻叫喚の地獄でした。
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空からの機銃掃射・・・

2017-09-20 06:07:32 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
郊外の畑のあぜ道で50人位の私たち子供が遊んでいましたら、上空に現れた米軍戦闘機グラマンから機銃掃射を受けたことがありました。米軍にとっては子供であっても未来の兵士になる人材なので排除する意思があったようです。その時は前方にあった小山に向かって走りました。山すその小さな溝に飛び込んで九死に一生を得ました。被っていた防空頭巾に金属片が刺さっており、しばらくは記念品?に取ってあったのですが・・・
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することは食べることだけ・・・

2017-09-16 05:54:18 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
集団疎開先では、勉強のための教科書がある時代ではありませんでした。したがって勉強はありません。毎日毎日することもなく食べる事だけでした。先生が食べ物の足しになるようにと、3人位の子供に、魚釣り竿を持たせて近くの池にフナ釣りに行かせました。小学1年生の子供ですので、ウキ下の深さを調節するとゆうような知識もなく、ただ竿を出しているだけでしたので、一匹も釣れませんでした。しかし遊びで川釣りをしたときに、ハエを一匹釣り上げました。干物にして、封書の手紙にいれ、親に送った記憶があります。子供心に量的な感覚ではなくて、世間は食料難だとの意識があつたようです。
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集団疎開で兄妹は……

2017-09-13 06:11:14 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
集団疎開では男の子女の子を問わず疎開せられましたが、女の子は女の子だけで別のお寺に住んでいました。兄妹で同じ時期に集団疎開している場合はお互いに住まう寺は歩いて1時間ぐらいの距離でした。数か月に1回ぐらい会う機会がありました。道中に大きな池がありました。戦時中のことですので、米国の飛行機が池を飛行場と錯覚して、池の中に大量の爆弾を落としたりしていたようです・
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集団疎開さきからの脱走、失敗、そして体罰

2017-09-09 06:04:07 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
親もとを離れての集団疎開の生活が始まり何か月かが過ぎますと、子供たちの中には親が恋しくなり、ある人は住んでいる寺から脱走します。しかし、大方は交通機関の駅で発見されて連れ戻されます。その後の体罰がすさまじく、他の子供たちえの見せしめの意味もあって、本人は顔が二倍になるぐらい殴打されました。今の時代では暴力教師として、大変なもんだいになる所です。敵米英を撃ちてしやまんの軍国主義戦中時代は、このような暴力教師がまかり通るのは当たり前の世間でした。恐ろしい時代でした。
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お風呂を使わせていただく…

2017-09-06 05:54:10 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
集団疎開先で日々の寝ませてもらう場所、お寺はは決まりましたが、子供たち一人一人の入浴の問題がありました。お寺の近所の民家に3~4人ずつ、決められたメンバーが決められたお宅に伺いまして入浴させていただきました。私の場合、たしか河合さんとおつしゃるお宅にお世話になりました。お家族で親切にもてなしてくださり、ほっこりとさせていただいた印象が、嬉しいおもいでとして残っています。
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集団疎開先でのすまい

2017-09-02 06:17:16 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
疎開先での住まいはお寺でした。寺院の造作はだいたい正面に仏壇がありその左右に小部屋があるようです。仏壇に向かって左側の小部屋に男性の先生が一人、右側の小部屋に二十歳前後の女性が二人世話役として寝泊まりしていました。そして男の子ばかり50人ほどが本堂に寝ていました。今にして思いますと、女の人二人では、食事の用意は何とかなったとしても、洗濯機のない時代に、50人分の子供の下着類の洗濯はたぶん不十分でした。そのためでしょうか? 下着類が不潔だったため、シラミ症と思はれる皮膚病に、おおくのこどもたちが悩まされました。
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疎開のはじまり

2017-08-19 06:00:32 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
私たち疎開児童は、受け入れ地区の小学校に向かいました。学校の校庭に、整列して歩調をととのえ入っていきました。受け入れ校の子供たちも拍手で迎えてくれました。4年間ほどの疎開生活中で、学校に行ったのはこの時だけでした。その後、多くのことを見たり聞いたりして経験しました。そのときの様子のいくつか拾い上げて、次回より回顧してみたいと思います。……  
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尋常高等小学校に入学

2017-08-16 06:01:55 | 小学生の時の 戦中派の体験…!!!
子供の頃大阪住まいだった私が入学した時の学校は、住吉尋常高等小学校でした。当時は幼稚園に通う子供は稀で、私は小学校が初めての団体生活でした。一年生の授業の初日に、先生の姓が磯先生で、日の丸を掲げた絵を描かされて困った印象が鮮明にのこっています。音楽の授業は敵性語のドレミファソラシドではなくて、日本語のイロハニホヘトで、ハホト、ハヘイと歌う時代でした。そんな生活は半年とつずかずに集団そかいで今の岸和田の方に学年全員がそかいさせられました。
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