退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「いろんな顔があること」について

2012-09-10 02:28:40 | Weblog
くもりときどき晴れ。だったか。

「早朝」に野暮用をすませてまたまた墓参り。
今回は父方の祖父の五十回忌だとのこと。

祖父は生まれる前に亡くなっているので顔を合わせたこともない。
「残念な叔母」の意向を母親が早く片付けたいと思ってしたことのよう。

その後寿司屋で昼をすませてコメダへ行き
帰りに図書館へ。

ドトールで鈴木由加里「女は見た目が10割」を読む。

いかにもわかりやすい挑発的なタイトルに「乗っかってみた」次第。
「キレイ」を強制されることにちょいと疑問を持った著者のあれこれ。

一般的には「内面の重要さ」を説くことに対していささか反発を覚え
「最初に関わり合うかどうかの材料は外面しかないじゃない」というのが「定石」ではある。

とりあえず男子として興味深かったのは「男のナチュラル好き」について。
「自然体」が「不自然さの賜物」であるなら「ナチュラル・メイク」も同様なのは理の当然。

元ポルノ女優が「清純派」と「野性派」をメイクで「演じ分けていた」写真もわかりやすいが
その種の「技術」になぜ男は鈍感なのかと。

また「結婚もしくは恋愛の相手」としては「美人」より「かわいさ」が勝つのだというのもなかなか。
おそらくは「結婚もしくは恋愛」に「安心」を求める男が多いということだろう。

「秘密」が内容に関わらず「隠すこと」によって生まれるのだとしたら
「素顔」が「メイク」によって生まれるのも同様なのか。

男がそこに「過剰な意味」を求めるのは
自分こそ「素顔」を隠しているからだと考えるのが妥当。

単なる「変身術」としてそれぞれに楽しむことができればいいのかも。
もっとも各種の「広告」が「脅迫的」であることも確かではある。

ここでも「ほどほどのお付き合い」がよさそう。
性別を問わず「装うこと」は誰にでも思い当たるもので。

いわゆる「本音」ばかりでも味気なかったり。
その「さじ加減」に「味わい」があるのだとしておこう。

いずれも相手と「ルール」が合いさえすればオーケー。
いや、そう「錯覚」できさえすれば。
コメント
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